『あなたの好きな果物は?』と聞かれて、まっさきに『榴蓮(liulian)!』と答えてしまいます。日本語での呼び名を忘れてしまって、この「ドリアン」の中国名が、まず突いて出てきてしまうほどに好物になってしまいました。
何時でしたか、日本のスーパーで、〈5000円〉という値で売っていたのを見て驚かされたものですが、華南の街では、熟したものを小分けのパックにして、スーパーの店頭で売っているのが、日本円に換算すると、200円ほどになるでしょうか。時々買いますし、わたしの好物だと知っている友人が、3パックも買ってきてくれたことがありました。「堪能」とは、その時の私の正直な満足さを表すのに最適なことばだったと思います。家内も、《果物の王様》に目がなくなってきております。
その家内の好物ですが、八百屋さんの符牒で「バカ」と言われている「茗荷(みょうが)」なのです。私にしては実に妙な好物だと、訝しく思ってしまうのですが、こればかりは、舌で感じて満足するのですから、文句のつけようがありません。『食べ過ぎると物忘れをしやすくなるのです!』と言われて、そんな符牒になったのだそうですが。
この茗荷ができると、庭先の菜園に出ては収穫し、お嬢さんに託して、何度も届けてくださったのがE子さんでした。戦前、北京で兵隊さん向けの日本食堂を営んでおられ、敗戦の混乱の中、幼い子どもたちを連れて帰国され、女手一つで育てられた、「女丈夫」でした。
終戦時に0歳児だった次男・正人さんが、私と同年同月の生まれで、1つ2つの沢違いの村で、互いに育ったのです。彼のお兄さんはお母様の期待の星で、親孝行だったのですが、大学を出られて間もなく召されてしまい、それを契機に、ある新興宗教の篤信な信徒となられたのです。このE子さんは、自分の部落に布教して、多くの人たちを、その信徒にしてしまうほどの大きな影響力をもっておいででした。
ところが、不思議な出会いを通して、彼女はその宗教団体とはっきりと決別してしまわれたのです。この彼女の次男が、大怪我で入院し、治療されていた病院の病室に、腱板断裂の怪我で手術し入院たのが、私でした。そんなこんなで、彼女は私の家内の好物・茗荷を、夏先になると毎年のように届けてくださったのです。それを頂いた彼女は、目を細めて、喜んでいました。
9年ほど前になりますが、長男から、『E子さんが、召されたと連絡がありました!』とメールがありました。走馬灯のようにと言うのが一番でしょうか、彼女との出会いから、その後の行き来した交わりのことが、思いの中を駆け巡っております。
好きではなかった茗荷を、素麺の麺つゆの中に、薬味として入れるようになった私ですが、あの茗荷のほのかな香りがしてくるようです。中国華南の街の八百屋さんの店頭では、ついぞ見掛けなかったのですが、こちらのスーパーには山盛りで売られていて、家内の素麺の薬味に、毎昼食、膳にのるのです。この季節になると思い出す人と時と野菜です。
(E子さんの家の近くの「湧水」です)
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