高校の悪戯仲間にK君がいました。世田谷から、京王線を下って通学してきて、3年間同級でした。所要があって上京中の定宿は、すぐ上の兄の家に決まっていたのですが、その友人の勧めで、その日、彼の家に泊めて貰ったのです。布団を敷いてくれた部屋に、彼の父君の写真を見つけて、彼の背景を初めて知ったのです。
高校時代に、何度か泊まったことがあったのですが、お母様と二人の母子家庭だったことは知っていました。その家は、その母君が再婚された後に、彼が新築したものでした。それを機に、彼は父君の遺品を引き受けたのでしょう。その時のKよりもずっと若く、軍服姿で、青年将校の凛々しい遺影でした。
その日、新宿で会って、一緒に食事をし、彼の行きつけの店でカラオケを歌いました。彼は、「上海帰りのリル」を歌っていたのです。きっとお父様は、中国大陸で戦死されたのでしょうか。あんなに切々として歌うKを、かつて見たことがありませんでした。
戦地に行かないで、軍需工場で働いていた父の三男として生まれ、両親の手で育まれてきた私には、「父無し子(ててなしご)」として過ごしてきた彼の心情を理解することが出来ませんでした。きっと、そんな父君を慕って、切なく慕わしく歌う彼の声に、思うこと複雑でした。
私たちがシンガポールに来るというので、長女が、NHKテレビの受信契約をしてくれていました。四六時中見ているのではなかったのですが、たまに、戦争中の様子や、戦後間もない頃の映像が流れていて、改めて、生きて来た時代を回顧し、考え直させられたりしていました。
そう言えば病弱で、学校を休むことの多かった私の枕元で、いつもラジオが鳴っていました。「名演奏家の時間」、『#地球の上に朝がくる。その裏側は夜だろう・・・♭』と川田晴久の歌う声、小説の朗読などが、微熱で気怠い私の耳に響いてきました。
そんなラジオ放送の中に、中国大陸から舞鶴に引揚船で帰って来た兵士の消息が、毎日聞こえてきたのです。『舞鶴って何処だろう?』、『帰ってくるお父さんを、待っている子どもたちが大勢いるんだ!』、そんなことを思っていたようです。その時に流れていたメロディーが、今でも耳の中で響きます。
父君に抱かれたり、叱られたり、遊んでもらった記憶や感覚を覚えていないKにとって、『戦後の年月はどうだったのだろう?』、彼だけではなく、母子家庭の同級生が何人もいましたから、『孫を抱いてるであろう彼らにとって、戦後とは何だったのか?』と思うこと仕切りです。『何時か帰ってきてくれる!』と、中国大陸に、また東南アジアに目を向けて、願い思った年月だったのでしょうか。
私が何度か、家内と訪ねたシンガポールも、戦争の爪痕の残る地ですし、友人の父君の亡くなったであろう中国大陸も。ラバウルもパラオもラングーンも、私たちが13年もの間住んだ大陸の街もです。平和な時代の直中を生きてきた私たちの世代にとって、それは大きな犠牲のあったことを語り継ぐ土地でもあります。
(写真は「舞鶴湾(京都府)」です)
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