皐月

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「早乙女主水之介」、お読みになれるでしょうか。小学生の頃、週末になると、父にお金をもらって、電車に乗って、隣駅で降りて、映画館通いをしていました。その時の時代劇の主人公の名が、「さおとめもんどのすけ」でした。不思議な名だと思っていました。

その主人公の名が、漢字で読めたので、その意味を辞書を引いて確かめた事がありました。「さおとめ」の「さ」とは、〈稲〉のことを言い、この稲の苗を植える女性を、そう呼んだのだとありました。そうしますと、今日は最後の日になったのですが、「五月」を、『皐月(さつき)』と旧暦では言うのですが、この「さ」も、〈稲〉のことを言っているのでしょうか。それで、早乙女を「早苗(さなえ)」とも呼ぶのでしょう。

その早乙女主水之介の剣が強かったのです。弱きを助け、強きをくじく、確か旗本の身分の侍だったと思います。この侍が、「早乙女姓」を名乗ったのですから、農業従事者の祖先を持っていたのかも知れません。もちろん、小説を映画化したものでしたから、架空の名であることは確かです。

こちらに来て、田んぼを見たのは、何年も前に、海の近くの村にバスを3度ほど乗り継いで行った時ですから、ここ都市部の周辺には、「水田」が見当たりません。でも今頃、夜になると、カエルの鳴き声が聞こえてきますから、宅地になる前は、水田だったに違いありません。今頃の日本では、田植えの時期を迎えていることでしょう。

私は、一度だけ、田植えをさせてもらった事がありました。雨降りの日で、雨合羽を着て、裸足で田んぼの中に入って、苗束の中から、教えられたように、親指と人指し指と中指で、二本ほどの苗を挟んで、水田の中に、等間隔に差し込む作業でした。もう今では、機械で植えるようになってしまって、手植えの作業は見られなくなってしまった事でしょう。上の兄嫁の実家が、農家だったので、手伝う機会があったのです。

あの植えた苗の実った米を食べさせてもらったかどうか、覚えていません。そんな農作業をした後、越した中部山岳の街で、いくつ目かに住んだ家は、田んぼの中にありました。カエルの鳴き声が、やかましかったのです。一斉に鳴くので、 合唱になって、それはけたたましかったのです。でも自然界の声音ですから、機械の音と違って、横になると、子守唄のように聞こえて、すぐに眠りに落ちていったのです。

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉

東京の郊外で生活をし、準農村で仕事をしました。事務所の前も、水田だったのです。今、大陸の沿岸部の大都市の一角に住んでいるのです。大きな河川の流れのほとりに住んでいます。この何日か、雷鳴と雷光と雷雨で、この降る雨を「五月雨(さみだれ)」と呼んでも良いのでしょうか。日本は、「梅雨」の季節ですね。

(広重の「最上川」です)

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60代半ば

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高校で、社会科を教えていた時期が、私にはあります。それまで勤めていた職場の所長が、『私の弟子がいるので、彼が面倒をみるから、そこに行って教えなさい!』と言ってくれたのです。上司の命令でした。この方のW大時代の研究室の弟子が、招かれて、そこの短大の教務部長をされていたのです。そんな関係で、教師をしておりました。

実は、その教師の機会は、難関でした。某大学の大学院で博士課程で学んだ方と、一つの教師のポストを競ったのです。実力ではなく、"コネ"の強い私が、その機会を与えられたわけです。大正時代に開学された、女子教育では名門校でした。3教科を教えたのですが、高3の"ゼミ"も担当させられたのです。それで、何を教えようかと思案した挙句、女子に教えるので、「青鞜運動(せいとう)」を中心に、調べ始め、一緒に研究したのです。必死でした。

それは、『原始、女性は太陽であった!』というスローガンを掲げて、女性の復権を目指した「青鞜社」の運動でした。平塚雷鳥や伊藤野枝を中心に、1911年(明治44年)に始まりますが、残念な事に、5年ほどで終わってしまいました。具体的に、女性の権利を、日本社会で拡大していくには、まだ時期尚早、「男社会」を打ち破るには至らなかったのです。

この運動に加わった女性たちの恋愛問題などがあって、足並みが揃わずに、まとまりを欠いたわけです。「青鞜」という雑誌を発行して、啓蒙運動を展開したのです。女性は、子供の時は父親に、嫁しては夫に、老いては子どもに従うとの「三従の教え」の枷(かせ)を超えられなかったのです。私生活では、あるメンバーは同棲したりして、やはり「女性の限界」を打ち破れませんでした。

与謝野晶子も、この雑誌に歌を寄せたのですが、この人は、鉄幹の妻として、鉄幹に12人の子を産んで育て、短歌を詠む事によって、女性の道を世に主張したのでした。妻や母の道を歩みつつ、彼女は、そうしたのです。与謝野晶子の歌に、

「やは肌のあつき血汐にふれもみでさびしからずや道を説く君」

があります。実に奔放で官能的な短歌は、当時の女性の喝采を呼んだのです。晶子は22才で「みだれ髪」を出しています。、

"サッチャー"と呼ばれたイギリス首相は、「鉄の女」と呼ばれ、大英帝国の一時期、大きな責任を果たしています。立派な女性でした。女性には、妻と母という、堅実な《天来の使命》があります。私は自分を育ててくれた母に感謝しております。母には辛い過去もあり、誰もが持つ弱さを持っていましたが、第一義的な使命を忘れたり、疎かにしませんでした。『準ちゃん!』と呼んでは、色々と教えてくれ、忠告もしてくれました。『女は弱し、されど母は強し」」の「母の日」は過ぎてしまいましたね。

あの1970年代に、「青鞜運動」を学んだ教え子たちは、娘時代を経て、その後結婚し、今では、60代半ばの〈おばあちゃん〉をしているのでしょうか。どんな"生き様"をしてきているのでしょう。

(「花菖蒲(ハナショウブ)」です)

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