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『散切り頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明開化の音がする!』、こんな歌が流行った時代があります。鎖国で出遅れた日本が、明治の御維新で、<欧化政策>を打ち出して、草履から靴に、袴からズボンに、そしてチョンマゲから欧風頭髪にしたのが、<散切り頭>でした。急速な変化の嵐に翻弄された時代だったのです。フランスなどは、<市民革命>で長く戦って獲得したのですが、日本では、その動きに乗じて、急速に変化させたわけです。
日本人は、「進取の精神」に富んでいて、躊躇せずに、《新らしいもの》を受け入れられる国民なのでしょうか。"近代デモクラシー"を叫んだのが、土佐藩士であった、板垣退助でした。この人は、維新政府の要人でしたが、西郷隆盛とともに下野(政府に要職を捨てて野に下ることを言っています)しています。それから、「自由民権運動」をくりひろげ、「自由党」という政党の責任を取り、内閣の大臣に就任するのですが、再び野に下るのです。
昔使われていた「百円札」の肖像が板垣退助でした。本当に立派な人だった様です。この「自由民権運動」に加わった人に、川上音二郎がいました。この人は、「オッペケペー節」の作者で、福岡県博多出身でした。家出同然に14歳で上京します。初め福沢諭吉の書生、警視庁巡査などを経て、十代後半に、自由民権運動に加わって、街頭や芝居小屋で政治演説を行うのです。
この演説内容が理由で、官憲に180回以上も逮捕されてしまいます。音二郎は、逮捕されずに自分の主義主張を訴える方法を考え、「芸」を利用することを思いつきます。26歳の音二郎は、「オッペケページ節」を作曲し、「ヘラヘラ節」の曲に合わせて歌い始めるのです。《非暴力》で、政治の問題点を歌い上げて、正す様に要求したわけです。その歌詞は次のようです。
『権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。自由湯をば飲(の)ましたい。
オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー。
堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。
外部(うはべ)の飾(かざり)はよいけれど政治の思想(しそう)が欠乏だ。天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由の種(たね)を蒔(ま)け。
オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー
米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さいみん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす目深(まぶか)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。
。。金の指輪(ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(どうほう)兄弟見殺(みごろし)か。
幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な但し冥土(めいと)の御土産か。
地獄(ぢごく)でゑんまに面會し。
わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。
オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー(後略)』
まだ、好い時代だったのでしょうか。
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