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高校で、社会科を教えていた時期が、私にはあります。それまで勤めていた職場の所長が、『私の弟子がいるので、彼が面倒をみるから、そこに行って教えなさい!』と言ってくれたのです。上司の命令でした。この方のW大時代の研究室の弟子が、招かれて、そこの短大の教務部長をされていたのです。そんな関係で、教師をしておりました。
実は、その教師の機会は、難関でした。某大学の大学院で博士課程で学んだ方と、一つの教師のポストを競ったのです。実力ではなく、"コネ"の強い私が、その機会を与えられたわけです。大正時代に開学された、女子教育では名門校でした。3教科を教えたのですが、高3の"ゼミ"も担当させられたのです。それで、何を教えようかと思案した挙句、女子に教えるので、「青鞜運動(せいとう)」を中心に、調べ始め、一緒に研究したのです。必死でした。
それは、『原始、女性は太陽であった!』というスローガンを掲げて、女性の復権を目指した「青鞜社」の運動でした。平塚雷鳥や伊藤野枝を中心に、1911年(明治44年)に始まりますが、残念な事に、5年ほどで終わってしまいました。具体的に、女性の権利を、日本社会で拡大していくには、まだ時期尚早、「男社会」を打ち破るには至らなかったのです。
この運動に加わった女性たちの恋愛問題などがあって、足並みが揃わずに、まとまりを欠いたわけです。「青鞜」という雑誌を発行して、啓蒙運動を展開したのです。女性は、子供の時は父親に、嫁しては夫に、老いては子どもに従うとの「三従の教え」の枷(かせ)を超えられなかったのです。私生活では、あるメンバーは同棲したりして、やはり「女性の限界」を打ち破れませんでした。
与謝野晶子も、この雑誌に歌を寄せたのですが、この人は、鉄幹の妻として、鉄幹に12人の子を産んで育て、短歌を詠む事によって、女性の道を世に主張したのでした。妻や母の道を歩みつつ、彼女は、そうしたのです。与謝野晶子の歌に、
「やは肌のあつき血汐にふれもみでさびしからずや道を説く君」
があります。実に奔放で官能的な短歌は、当時の女性の喝采を呼んだのです。晶子は22才で「みだれ髪」を出しています。、
"サッチャー"と呼ばれたイギリス首相は、「鉄の女」と呼ばれ、大英帝国の一時期、大きな責任を果たしています。立派な女性でした。女性には、妻と母という、堅実な《天来の使命》があります。私は自分を育ててくれた母に感謝しております。母には辛い過去もあり、誰もが持つ弱さを持っていましたが、第一義的な使命を忘れたり、疎かにしませんでした。『準ちゃん!』と呼んでは、色々と教えてくれ、忠告もしてくれました。『女は弱し、されど母は強し」」の「母の日」は過ぎてしまいましたね。
あの1970年代に、「青鞜運動」を学んだ教え子たちは、娘時代を経て、その後結婚し、今では、60代半ばの〈おばあちゃん〉をしているのでしょうか。どんな"生き様"をしてきているのでしょう。
(「花菖蒲(ハナショウブ)」です)
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