鉛筆

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去年、今年と2年連続で、"春のゴールデンウイーク"を、日本で過ごしています。去年は、札幌で、術後のリハビリをしていました。今年は、次男の婚礼で、四月中旬に帰国して、品川の式場で、門出をする二人を祝福する事ができ、そのまま居残っています。五月の中旬には、戻ろうと計画しているところです。

一昨日は「憲法記念日」、今日は「子どもの日」です。ネットで記事を読んでいましたら、一昨々日の「5月2日」は、"えんぴつ記念日"だったそうです。何にも、記念日になる傾向があるのですが、高校までは、筆記には、この<鉛筆>を使っていました。12年間も、あの縦長の<六角錐>を握りしめて、教師の板書を帳面に書き、四百字詰の<原稿用紙>に作文をし、手紙やハガキも、その鉛筆を使っていました。

いつ頃からでしょうか、<ボールペン>が登場し、書き損じたら消せないのですが、瞬く間に、筆記用具の主流になってしまいました。ところが、<ワープロ>が登場し、そして<PC>が登場すると、その画面上に書くという筆記方法が、これまた主流になってしまい、ボールペンは脇役になり、鉛筆は、ほとんど使わなくなってきています。

今や、音声を文字化する事が主流になりつつあるのでしょうか。『近くのパン屋さん?』という私の声を聞き取って、画面に店の名前と地図が出てくる時代になりました。もう少しすると、思ったり考えたりした事が、文字化したり音声化したりする時代がきてしまうのではないでしょうか。ちょっと怖い感じがしてきています。

それでも、私の机の上の<ペン入れ>には、六角錐の鉛筆と、丸型の2色ほどの色鉛筆があります。時には使うことがあるからです。見たり、聞いたり、書いたりした学校時代が懐かしくなってきました。出さなかった、初めて書いた「恋文」も、鉛筆書きだったのです。コーリンとか三菱のメカーの名前も覚えています。

鉛筆に必要なものがありました。鉄製の小刀の"肥後守(ひごのかみ)"で、鉛筆削りをしたのですが、折りたたみ式のナイフが出てきて、そして手動の鉛筆削り機、電動の鉛筆削機で削ったのです。紙で巻いてあって、それをむくアメリカの鉛筆ももらったことがありました。そう言えば、その"肥後守"で、チャンバラの木製の刀を作ったのです。その時の刀傷が指や手のひらに、幾つも残っています。(5月5日記)

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予定

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もう、南の方からは、「入梅」の便りが聞こえてきました。めぐる季節の移り変わりの早さに、驚かされます。この花は、「レンゲソウ」です(「里山を歩こう」の最新レポートです)。実に鮮やかで美しいです。昨夕から、雨が断続的に降っていて、前線が広がっている様です。これが、もう少し日が経つと、梅雨前線になるのでしょうか。

一時帰国の終盤になりました。まだ人を訪ねなければなりませんが、帰国前に予定した計画を、全部果たせない様で、言い訳はしませんが、申し訳ないなと思わされています。家内の叔母は、102才になるでしょうか、どうしても、この方は訪ねなければなりません。午後、出掛ける予定でおります。予定をこなせないのは辛いものです。

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オッペケペー節

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『散切り頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明開化の音がする!』、こんな歌が流行った時代があります。鎖国で出遅れた日本が、明治の御維新で、<欧化政策>を打ち出して、草履から靴に、袴からズボンに、そしてチョンマゲから欧風頭髪にしたのが、<散切り頭>でした。急速な変化の嵐に翻弄された時代だったのです。フランスなどは、<市民革命>で長く戦って獲得したのですが、日本では、その動きに乗じて、急速に変化させたわけです。

日本人は、「進取の精神」に富んでいて、躊躇せずに、《新らしいもの》を受け入れられる国民なのでしょうか。"近代デモクラシー"を叫んだのが、土佐藩士であった、板垣退助でした。この人は、維新政府の要人でしたが、西郷隆盛とともに下野(政府に要職を捨てて野に下ることを言っています)しています。それから、「自由民権運動」をくりひろげ、「自由党」という政党の責任を取り、内閣の大臣に就任するのですが、再び野に下るのです。

昔使われていた「百円札」の肖像が板垣退助でした。本当に立派な人だった様です。この「自由民権運動」に加わった人に、川上音二郎がいました。この人は、「オッペケペー節」の作者で、福岡県博多出身でした。家出同然に14歳で上京します。初め福沢諭吉の書生、警視庁巡査などを経て、十代後半に、自由民権運動に加わって、街頭や芝居小屋で政治演説を行うのです。

この演説内容が理由で、官憲に180回以上も逮捕されてしまいます。音二郎は、逮捕されずに自分の主義主張を訴える方法を考え、「芸」を利用することを思いつきます。26歳の音二郎は、「オッペケページ節」を作曲し、「ヘラヘラ節」の曲に合わせて歌い始めるのです。《非暴力》で、政治の問題点を歌い上げて、正す様に要求したわけです。その歌詞は次のようです。

『権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。自由湯をば飲(の)ましたい。
オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー。
堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。
外部(うはべ)の飾(かざり)はよいけれど政治の思想(しそう)が欠乏だ。天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由の種(たね)を蒔(ま)け。
オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー
米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さいみん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす目深(まぶか)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。
。。金の指輪(ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(どうほう)兄弟見殺(みごろし)か。
幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な但し冥土(めいと)の御土産か。
地獄(ぢごく)でゑんまに面會し。
わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。
オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー(後略)』

まだ、好い時代だったのでしょうか。

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芭蕉

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「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず・・・」

これは、「奥の細道」の冒頭の個所です。「古人」である中国の"漂白の詩人"の「杜甫(とほ)」に強く影響された芭蕉が、「漂白の思い」に駆られて、自分を慕って学んだ俳句の門人たちを訪ねるために、水盃を交わして、長い旅にでかけるのですが、その紀行文です。

古池や 蛙飛びこむ 去年(こぞ)の秋 芭蕉

「子どもの日」の今日、家内を誘って、「江上の破屋」と芭蕉が記した、隅田川の岸の万年橋のたもとにある「芭蕉庵」の跡地と、「芭蕉記念館」を訪ねてみました。芭蕉が住んだ頃の深川は、葦が茫々と生い茂った片田舎でしたが、今では、住宅や工場や倉庫の密集した地で、全く想像するに難く、俳聖の住処の趣がありませんでした。でも五月晴れの見上げる空は、当時と全く変わらなかったのだろうと、空を仰いでみたりしてみました。

草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家 芭蕉

ここから小舟に乗って、千住に行き、そこから陸奥への旅に、芭蕉は立ったのです。634mの "スカイツリー"などなかった昔、西には富士が眺められたことでしょう。曽良という弟子を連れての旅立ちでした。舟を漕ぐ「艪(ろ)」の"ギッチラギッチラ"という音が川面を伝わっていったことでしょうか。

芭蕉に、門人が多かったというのは、多くの人に慕われ、愛され、尊敬された人で、人徳のあった人だったことが分かります。詠んだ俳句には、豊かな感性が溢れていています。12才で、「奥の細道」を教わり、暗記させられた私は、1644年に生まれて、51年の生涯を終えた芭蕉の巧みな言葉の表現が強烈でした。いまだに諳(そら)んじることができるのには、我ながら驚くところです。(5月5日記)

(広重による「江戸百景 隅田川」です)

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詫び

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"末っ子"が結婚して、実質的には、子育てが終了したことになります。もちろん、相談にのったりはできます。最近では、どうするかを、子どもから言われる機会が、会うたびに増えていますので、『相談にのってもらう!』なのでしょうか。

ここに貼ったのは、"Facebook"に投稿されていた一文です。四人の子に、『どうしていただろうか?』と思い返しながら読んでいました。初めて親をやって、出くわすことに戸惑い、力不足ながら、必要に迫られて、『えーい!』でやって、遂にし終えたのでしょう、今は反省の時期を迎えています。

蔵書の中に、「もう一度父親をやり直せたら」と言う本がありました。こういった本が出版されるということは、多くの親が、そう感じているからなのでしょうか。昔に戻って、『腹一杯食べていいよ!』、『いいよ、なんでも買って上げるよ!』、『どこにでも連れてって上げるよ!』、『お母さんに優しくするよ!』と、制限ばかり、待つことばかり、心配させてきた私は、もう無責任に、いえ本音で、そう言って上げたいのです。

四人を見て、みんな自分よりも、《よく生きてる》と思うのです。不安一杯で、大き目のバッグに、必要なものを入れて、中学を出て、長男と次女と次男は、親元を離れて行きました。長女だけは、親元から高校に通ったのですが、彼女も高校を終えると、東京に出て行きました。そう『可愛い子には旅をさせろ!』だったのです。

<親バカ>ですが、今、それぞれに精一杯に生きているので、"親業"は卒業の様です。今度は、"自分業"をしなければいけません。つまり、"終活"です。先日、若い頃に5年半一緒に過ごした方に、久し振りに会って、先ず、<若気の至り>を"詫び"たのです。そういうことしないで生きてきたので、ちょっと難しいのですが、やってみました。その続編をしなければいない人たちが、結構いそうです。

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隅田の花

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この花は、隅田川の土手(昔は盛り土でしたが、現在の河岸はコンクリートでしっかり作られ、洪水対策ができていて"土手"とは言えませんが)に生えていたものです。家内が手折(たお)って、食堂の空きペットボトルに挿したものです。

ここからもう少し下流には、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りして、主君の仇討ちを終えて渡った橋があります。その頃の春先にも、同じ様に咲いていたのでしょう。人は来ては去るのですが、植生とは、毎年毎年迎える季節に生い出ては、命の再生を繰り返すのです。

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空き家

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日本全国には、「空き家」が、驚くほどあるそうです。総務省統計局の平成25年度の調査によると、「総住宅数は6063万戸と,5年前に比べ,305万戸(5.3%)増加。空き家数は820万戸と,5年前に比べ,63万戸(8.3%)増加。空き家率(総住宅数に占める割合)は,13.5%と0.4ポイント上昇し,過去最高。別荘等の二次的住宅数は41万戸。二次的住宅を除く空き家率は12.8%。」だそうです。

過疎化の地域に増加していて、都市部は建設ブームがあって、単純に、家のない人が住める家が溢れるほどあるのですが、この需要と供給は、易しくなさそうです。次女の義理の祖母は、ご主人が亡くなった後、郊外の広い家を処分して、街中のアパート(マンション)に引っ越して、生活をされていました。二人の娘や孫たちのそばに生活の場を移したのです。

日本の地方に行きますと、土地も家も、広く大きな家が多くあります。家を買ったり建てたりした事のない私は、『将来を考えて、あんなに立派な家はもったいないな!』と、正直、そう思っていました。子育てをして、子どもたちが大学進学で都市部に出て、そこに家を建てて住み、親元には戻って来れないのです。仕事や孫たちの教育を考えると、まず戻る可能性は低いわけです。

老後の医療などを考えると、息子や娘のそばが良くて、空き家のままにしてしまうケースが多いのでしょう。誰もいなくなった家の雨戸が引いてあります。そんな家が、多くある事を思い知らされたのは、先月来、今治(いまばり)市の脱獄事件で、島の「空き家」に隠れているとニュースが伝えられた時です。私たちが住んいる中国の街の隣街にも、出稼ぎででしょうか、「空き家」が多くて、全く許可なしで、無断に住んで生活している人たちが多くいると聞いた事があります。

世界中には、そんな人が驚くほどいるのでしょうか。『空いているんだから!』では理由にならないわけです。日本の地方に行くと、驚くほど安値で売り出されている家があるそうで、芸術家などが、改装して住むという話も聞きます。人間は群れて住む傾向があるので、ポツンと一軒家に住むのは、芸術家以外には難しいかも知れませんね。

地方再生、地方創生が必要ですね。交通、物流、医療、文化、教育、人間関係などを考えますと、利便性から、都市部に人は流れてくるのでしょう。 都市から地方へ人を、逆方向に動かす事など、政治の力ではできそうにありませんね。

(今治市と尾道市を結ぶ「しまなみ街道」です)

青嵐

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今頃、吹く風を、「風薫る」と表現します。五月になって、ちょっと強目に吹くのを「青嵐」と言うのだそうです。これを、どう読んだら好いのでしょうか。"あおあらし"と訓読みにするか、"せいらん"と音読みにするかで、ずいぶんと、耳にした感じが違うのです。俳句や和歌を読むのには、訓読みが<五字>で好いのでしょう。

昨夕から降り始めた五月の雨は、ずいぶん強かったので、雨の降る音で、時々目覚めるほどでした。これでいよいよ緑が薫ってくるのでしょうか。先日、川越に用があって出掛けた折に、昼食をとろうと食堂に入りました。隣の男性が美味しそうに食べていたので、単純に影響されて、<かつお刺身定食>を注文してしまいました。家内は、<鯖焼き定食>でした。

"江戸っ子"が、奥さんを質に入れてでも食べたかった<初鰹>でした。<山育ち>だからでしょうか、中国帰りだからでしょうか、あるいは五月になろうとしていたからでしょうか、丼飯にのった<カツオ>が、ほんとうに美味しかったのです。高知に行きました時には、ニンニクのスライスをのせて食べたのですが、先日食べたのは、薬味なしで最高の味でした。

季節に合った食材で、食事をとる日本は、恵まれた国だと思う事仕切りです。明後日、五月五日は、「端午の節句」、「子どもの日」ですね。母の郷里から、毎年送られてきた「ちまき」の味が恋しくなり始めています。四人の男孫のために、精出して作って、郵便で送ってくれたのです。米の粉を蒸して、笹の葉で包んだもので、母が、それを蒸し直してくれたのです。笹の葉の匂いがしていました。

そういえば、去年は入院中で、同じ病室の方の奥さんが、「柏餅」を持ってこられて、お裾分けしてもらって食べたのです。中国の街でも、「端午節」には、「粽子」を、毎年いただき、冷凍庫に入らないほどです。ここも季節季節に、食べ物を贈り合ったり、子どもたちに食べさせるために、各出身地方の独特の味で作るのです。東アジアは、同じ食習慣を受け継いでいる様です。

人形町の通りに、「かしわ餅」の張り紙が、和菓子専門店の店頭に出ていました。明日あたり、買い求めて、友人に頂いた「新茶」を煎れて、味わう事にしましょう。さしもの雨も止んで、雲間から陽が射し始めてきました。日本橋も、風薫る五月の真っ只中です。

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ニッポン

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長女夫婦が、弟の婚礼に出るために帰国し、二週間を過ごして、今夕の便に乗って帰って行きました。仕事のために、娘は、本社に出たり、得意先周りをし、電話で仕事の段取りもしていたそうです。その義理の息子、婿殿が、初めての日本訪問で、すっかり、"ニッポン贔屓(ひいき)"で、気に入ってしまったのです。ボストンで生まれ、サンフランシスコで育ち、今ニューヨークに住んでいるのですが、ニッポンの"スイーツ"が大好きになった様です。

ニッポンの食品が、お世辞ではなく、ほんとうに美味しいのだそうで、チーズケーキ、ホットケーキなどは、手放しで好きになって、家に<いない>なと思って探しに行くと、近くのスーパーで、チョコンと座って、スイーツを楽しんでいたのだそうです。今日、最寄りの駅前から空港行きの"リムジンバス"に乗る前に、長男の嫁御が、「星野珈琲」と言うコーヒーショップで、食事をご馳走してくれたのです。そこで、彼は、コーヒーとホットケーキを注文し、たっぷりのバターとメイプルシロップをかけて、美味しそうに食べていました。

キメの細かいサーヴィスがあるのも、ニッポンの好さな理由なのでしょうか、築地の寿司を食べたり、味噌汁を飲んだりもしていた様です。納豆やコンニャクも、食べてみたら、どんな顔をしたことでしょうか。御茶ノ水で、"牛タン"と"トロロ麦ご飯"を美味しそうに食べていました。どうも日本で生活したくなったのではないでしょうか。

そう言えば、今回の一時帰国の街角で、外国人、とくにヨーロッパ系の方を、実に多く見かけています。中国でお世話してくださる方の奥さんと二人のお子さんが、去年から駒込に住んでいるのを訪ねるために、秋葉原から都バスに乗ったのですが、秋葉原は中国人の家族が溢れるほどにいました。何十年も来たことのない街で、道に迷った私と家内は、バス乗り場に行くのに、中国からの観光客に、道を聞かない様にするのに手間取ったほどでした。

婿殿は、"地下鉄"も気に入った様で、ニューヨークの地下鉄とは比べものにならないほどだそうでした。後楽園の東京ドームでの巨人戦に、下の息子が招待したそうで、地下鉄でやって来て、地下鉄で帰って行きました。私たちは用があって、それを済ませて、御茶ノ水で合流したのです。

話が前後してしまいましたが、婿殿が、ニッポンの好い印象を感じ、素敵な体験ができて、笑顔で帰って行きました。増えた家族を歓迎し、兄弟姉妹に、義兄弟と義姉妹を加えて、子どもたちが好い関係を持っていてくれるのは感謝なことです。次回は、今回帰国できなかった次女家族も加えて、一緒の時を和気藹々と、また過ごせたら好いな、と思っている夕べです。

(今夕配信の呉市の灰ケ峰の"ニッポンの新緑"の様子です☞「里山を歩こう」)

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