「たけなわの秋」

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最後の「月餅」を冷蔵庫から取り出して、遊びに来ていた若者と、三分の一づつ食べました。私たちの中国滞在のために、いろいろと助けていてくださる方が、大きな製パン業をされていて、その工場で作られた物でした。私たち日本人は、「これ、つまらない物ですがおひとつ!」と言いますが、「私たちの月餅は、とても美味しいんです!」と言って、ご夫人が「中秋節」に、わざわざ二箱も持って来て下さったのです。自信作の「月餅」は、本当に美味しかったのです。

この年齢になると、「羊羹」とか「どら焼」とか「きんつば」を、渋茶で食べたくなるのです。以前、家内はあまり好まなかったのですが、最近では嗜好が私に似てきているようです。「甘党」の父似で「餡(あん)」で作られた和菓子に目のないの私に慣らされたのです。この「月餅」は、型で焼かれた外形は、みな同じですが、味や餡は様々です。どの「月餅」も、「中秋の名月」を象った卵の黄身(加工してあります)が入れられてありまた。しかし頂いた内の一箱lは、「パイ生地」に独特な餡が入っていて、東京の、和洋折衷のケーキに食感が似ていていました。今まで食べたもの中で一番美味しかったのです。

「十五夜」に、父の家では、普通の家庭がするような、野原に生えているススキや月見団子や栗などの果物を、月に供えることはしませんでした。そう言えば父の家は、季節行事とか宗教行事をしなかったのです。父も母も超然とし、それを好まなかったからだったからでしょうか。どの家でもすることを、しないでいても平気だったのは、当時では珍しいことだったのです。だからと言って、私たち四人兄弟が、社会性や情緒面に欠けていたことはないと思うのです。でも団子だけは食べたのを覚えています。それよりも何より、当時、一般家庭では口にすることのなかった「ケーキや「かつサンド」や「あんみつ」を食べさせてくれましたから、お腹は大喜びでした。

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実は、この八月に、こちらに戻ってきた時に、渋谷の「東急のれん街」へ出掛けて買った、製パン会社の社長さんへのお土産を持ち帰ったのです。「虎屋の羊羹」でした。「これなら口の肥えた彼とご家族にも喜ばれるかな!」と思ったからでした。家内にも買ったので,旅行カバンが重くて難義してしまいました。彼らは、私たちが儀礼的に言う、「この間は、美味しい物をご馳走様でした!」との言葉は、中国のみなさんにはありませんが、かんしゃはあふれています。家内は、夢に見るほどに懐かしい味に、「ありがとう!」と喜んでくれました。

天津にいました時に、アメリカ人のご家族が食事に招いてくれたことがありました。奥様は台湾の出身で、台湾料理でもてなしてくれたのです。その帰りに、「これ、貰い物なのですが・・・」と言って頂いたのが、「虎屋の羊羹」でした。「異国で虎屋!」に大喜びしたのです。それ以来、「虎屋フアン」になってしまった私たちですが、そうたやすく食べられるほどの値段でないのが、玉にキズです。

「食欲の秋」、今朝方の気温は、20度を切りましたので、まさに「たけなわの秋」です。日中は夏、夜間は秋と言った季節感のここ華南の街です。秋の連休、街ゆく人の顔は、緊張感のない「休みの顔」をしておいでです。私は、来週の金曜日まで休みになっています。一週間ほど前に分かりましたが、もっと早く分かっていたら、いろいろと計画できたのですが。「今日は、何をしようか?」の一日になりそうです。「紺青」とか「碧空」という言葉をつけるに相応しい秋空です。

(写真上は、四川省の稲城の「秋の風景」、下は、「羊羹」です)

口撃?好撃!

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「どんな躾をしてるんですか?」と、受話器の中で怒った声で非難してきた方がいました。娘が通っていた幼稚園の園児のお母さんでした。私の娘が憎くて、邪魔でしょうがないと言った雰囲気がこもった声だったのです。四人の子どもたちの子育て中に、いろいろと<口撃>されたことがありましたが、「我が家の子育てに欠陥があるのだろうか?」と思わされるることがいくどとなくあったのです。家内も私も、そんなことを聞いても馬耳東風でいられました。育児ノイローゼ に悩むことがないほど、あっけらかんと、<好撃>に換えてしまったのです。

長男が幼稚園にいた頃にも、それに似たことがありました。彼の担任が、「この子は異常です!」と園長に訴え、その旨、園長が知らせてきました。「今度、大学の幼児教育の専門家を呼んで、面接をしてもらいましょう!」とにこやかに園長が連絡してきて、その面談が行われました。「この子は成長したら、面白い子になることでしょう!」という結論でした。実は、長男にはリーダーシップがあったのでしょうか、園庭で遊んでいると、クラス中の園児が、長男が右から左に走ると、その後を追って走るというほどだったのです。担任のいうことを聞かないで、長男に従ってしまうにで、クラスを掌握できない新任の担任が、悩んで訴えたのでした。

親の欲目でしょうか、我が家の子は、「個性的」に生きていたのです。テレビを買ったのは、長女が、「高校受験の勉強のためにテレビの講座を聞きたいの。だからテレビを・・・」と言ったから、節を曲げたのです。押し付けの一方的な情報を受けなかったことと、何でも買い与えないで、必要な時まで待たせたことなどから、自分で工夫をして遊び、生きていたのだと思います。そういったことが、級友たちには、きっと魅力的だったのだと思います

次女は、授業が始まると園庭に出て行って、遊具にのって自在に遊んでいたのです。それで担任に怒られ、親の私たちにも、「Nさんは・・・!」と注意勧告がくるのです。娘に聞くと、「あたしが休み時間に遊具を使うと、ほかのお友だちが使えないから、あたしはみんながいなくなってから・・・」と、何故かを言ってくれたのです。また、クラスで絵を描く時も、作業の遅い子の手伝いをするオッチョコチョイで、自分がする時間がなくなってしまって、結局は先生に怒られるというパターンで生きていました。そんな理由を聞いていましたので、「まあいいか!」ということで押し通したわけです。

この子は目立ったのです。幼稚園の頃のスナップ写真を、園長や父兄が撮ったものを見ると、いつも、この子が先頭にいるのです。目立たない子の親は、比較してみると、きっと我が子の不甲斐なさの原因は、私たちの子にあるということでの口撃だったに違いありません。長女もリーダーシップが旺盛でした。困ってる子の面倒をよく見ていたり、妹や下級生が不当ないじめに会うと、いじめた子を制裁していたほどでした。しかも上級生だってお構いなしだったのです。次男は、音感が良くて、優しかったのです。食事の時など、話題が暗くなると、「ねえ、明るい話をしようよ!」と、いつも提案する子でした。

子育ては、あれよあれよで過ぎて行き、今は、四人とも、すっかりおじさんやおばさんになってしまったようです。それで、時々、彼らのことを思い出すのですが、「国慶節」の一週間の連休が、なおのこと郷愁の思いを強くするのでしょうか。今は、周りにいる若い友人たちの子育てを眺めていることが多いのですが、夕べ会ったご夫婦には、小6の女の子と、小4の男の子がいます。娘はお母さんに似て優しく、息子はお父さんに似て剽軽(ひょうきん)なのです。彼らにも、「子育て」を楽しんで欲しいと願う十月であります。

(写真は、幼稚園や公園にある「ブランコ」です)

とんがり帽子

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作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而、唄が川田正子の「鐘のなる丘(とんがり帽子)」は、戦後間もない、1947年にはやった歌です。

1 緑の丘の赤い屋根
  とんがり帽子の時計台
  鐘が鳴ります キンコンカン
  メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
  風がそよそよ丘の上
  黄色いお窓はおいらの家よi

2 緑の丘の麦畑
  おいらが一人でいる時に
  鐘が鳴ります キンコンカン
  鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
  元気でいろよという声よ
  口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
  夜になったら星が出る
  鐘が鳴ります キンコンカン
  おいらはかえる屋根の下
  父さん母さんいないけど
  丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
  おやすみなさい 仲間たち
  鐘が鳴ります キンコンカン
  昨日にまさる今日よりも
  あしたはもっとしあわせに
  みんな仲よくおやすみなさい

1950年の夏に、父は、「四人の子を、東京で教育したい!」と考えて上京しました。東京で少年期を過ごした父だったこともあり、戦後の混乱も少しづつ収まり始めたころでしたから、自分も懐かしい東京に戻りたかったのかも知れません。新しい仕事も都内にあったようです。それで、現在のJR新宿駅の南口の近くや、大田区の東急線沿線(父はそこにある旧制中学に通っていました)に家を探したのですが、結局中央線の日野駅の近くに物件を見つけ、それを買ったのです。駅のそばに農家がまだ残っていたほどで、旧友たちの何人もが農家の子でした。かつては甲州街道の宿場だった街で、級友のS君の家は、宿場の中心的な役割をに担っていたそうで、遊びに行きますと、門構えも、家の中の柱や長押(なげし)もがっしりして、江戸時代を感じさせてくれるほどでした。

恵まれて戦後を過ごした私とは違って、戦争でお父さんや家族や家を失った子どもも多くいました。新宿や上野などに行きますと、よく「戦争孤児」を見かけました。まだ国が、彼らの面倒を見ると言った制度がなかった時代でしたから、新宿のガード下には、大勢の子どもがいたのです。ヌクヌクとして過ごしていた私たちとは違って、厳しい現実を生きていたのです。そんな頃に、よくラジオから聞こえてきたのが、この歌でした。今、歌いますと、あの頃の情景が思いの底から浮かび上がってまいります。「・・・おいらはかえる屋根の下 とうさんかあさんいないけど・・・」と歌詞にあります。あのジブリが作った「火垂(ほたる)るの墓」の兄妹の姿を彷彿とさせられます。

<緑の丘に赤い屋根の家>があって、そこで、そう言った子どもを見兼ねた人たちが世話をしていたのです。そのモデルとなった「おいらの家」が、岩手県奥州市に残されているようです。繁栄の時代の今では、想像もできないことですが、こう言った過去を、しっかりと記憶にとどめておく必要があるようです。その家に住んでいた子どもたちも、もう七十代、八十歳にもなっておいででしょうね。厳しい境遇を跳ね返して、強靭に生きてきて、老いを迎えておられるのでしょうか。この時代は、「あしたはもっとしあわせに」と願われ、世話を受けた、彼らの上に出来上がったわけです。<とんがり帽子の・・・>のフレイズに強烈な印象があります。

(写真は、歌で歌われた「おいらの家」です)