情報過多の時代に

 『実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。 (伝道者118節)』

 ふだんの生活で、どうしても必要なものや情報は、それほど多くはなさそうです。かえって情報の量の多さと、ことの煩雑さによって、生活を迷わせたり、狂わせてしまっているのではないでしょうか。知らないでいる方が良い「こと」や「物」って、溢れかえるほどに多くありそうです。

 ここ栃木のわが家のまわりに、5軒ほどのスーパー・マーケットがあります。毎日毎日、〈お買い得情報〉が、ネットで発信されているのです。店に出かけて買う以前に、もう家では思いが、目当ての品を買い始めてしまっている自分に驚かされているのです。それで、それに振り回されない様にしています。

 売り手の間には、熾烈な競争があるのです。もう、定休日などは年初めだけで、それさえない店もあります。ほぼ年中無休で、ハードの店や店機能も、ソフトな働く人の心も、疲れ切っているのを感じてしまいます。以前のロンドンの日曜日には、街の機能は全面的に休みに入っていて、静かだったのだそうです。礼拝を守り、霊的な信仰的なことが、市民の間で第一にされていたからです。

 子育てをした街で、開拓伝道の初期から、スーパーマーケットでパートを私はしていていました。ついには、一時期でしたが、店長にまで抜擢されてしまった私だったのです。そんな経歴のある私は、住み始めたこの街の店の過当競争、生き残りの競争の激しさを見て、あの当時に比べて、さらに強くなっているのを感じているのです。

 高校生の頃から、学校に内緒で、ミニ・スーパーで長女は働き、子どもたち全員が、その地方では有力な店で、学校休みで帰省中には、アルバイトをしていました。息子たちは、青果部や鮮魚部や惣菜部で、娘たちはレジで働いていました。

 もう店は彼らの働きを喜んでくれ、子どもたちをたのしく働かせてくれていたのです。新規にスーパーが開店すると、娘たちはアルバイトなのに、開店スタッフで派遣されていたほどでした。レジの不正や店員の人間関係など様々なことを見て触れて、ものすごく社会勉強をさせられた様です。

 この〈情報過多〉の問題ですが、情報量が多くて、疲れた社会が出来上がってしまっています。人と比べての知らないことへの不安と恐怖があるに違いありません。自分だけ知らないでいることは、恐怖なのでしょう。それで、必死に情報を集めるのです。でも知る量に応じて、人の心は落ち着かなくされているのではないでしょうか。

 正しく選び取ることと、正しい判断基準を持つ必要があります。自分の許容量の限界を超えてしまうと、心が爆発してしまいかねません。アップアップの状態を避けるために、一定で、不動の基準を決めて〈選び取り〉をしたらいいのです。意味のない「こと」や「物」を整理して、捨ててしまうのがいい様です。取捨選択の術を心得る方が、知識の増量よりも大切です。疲れたり、悲しまないためにです。

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平和を希求すること

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 『主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。(ヨブ252節)』

 人口推移、出生数、婚姻数など、社会の動きの指数がいくつかありますが、少子化に歯止めが効かなくなって、「少子化対策」が叫ばれ続けていますが、政府には、そのための部署が設けられるほど、重要な政策の様です。でも功は奏さないのかも知れません。

 1937年に、日華事変が起こり、太平洋戦争が起ころうとする頃に、近衛文麿内閣が、「国民精神総動員」を掲げました。それは、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公との考えです)」を高めて、戦争を推し進め、そして勝戦を目指しての呼びかけでした。

 軍人と国力強化のために、その「結婚十訓」の第十条『産めよ殖せよ国のため!』の呼びかけがありました。確かに出生数は増えたのですが、父親を戦場に取られていては、それは続かず、家族や人口が増えるわけがありませんでした。結局、父親が復員してきてからの baby boom で、団塊の世代が誕生するのです。151619年と、父と母は男の子を得て、立派な兵士となるべく動員したことになります。

 時の政府からも、新聞からも、『欲しがりません勝つまでは!』、『進め一億火の玉!」と言ったslogan が掲げられました。それが良くなかったので、国土は崩壊し、戦に敗れたのです。戦後に生まれた弟を含めて四人の男の子は、戦場に行かずにすんだのです。8000万人の日本は、たくさんのものを失ったわけです。

 戦争後、私たちの父母の世代の勤勉さ、折しも起こった朝鮮戦争でに特需、ヴェトナム戦争での外貨獲得などによって、奇跡的な経済大国に、日本はなったのですが、今また、日本が「強さ」を誇ろうとし始めているのを感じてなりません。

 オリンピックを、危ぶまれる中で開催し、ヒヤヒヤしたのは新型コロナのせいばかりではなく、戦前や戦中に見られた「国威発揚」の声が、だんだん大きくなっていく様に感じてなりません。もう二十年も前でしたが、『あの時代の空気が感じられる!』と言われた、父の世代の方の話が忘れられません。

 その空気の濃度は、もっと強くなっているのを、自分も感じています。『カッ、カッ、カッ!』と、最近、軍靴の靴音が、遠くから聞こえてきています。どんな理由があっても、どんな世論があっても、八十年も《平和》を享受し、を守ってきたことを誇りに、戦争を避ける努力こそが、一番に重要だと思うのです。この困難な時を見極めて、過ちを犯さないことです。《平和》の種を撒き続けたいものです。

(“ キリスト教クリップアート“ との「種まき」です)

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雨を謳う

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『「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。 また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」(申命記11章14~15節)』

 春を告げる花が、梅とか桜なのですが、気象にも春の到来をもたらす現象があります。秋の雨と春の雨は、パレスチナの農耕にとっては必要なものなのです。北原白秋が、「雨」を主題にした詩をいくつも書いています。この稀代の詩人の感性には驚かされてしまいます。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 雨の降る音、溜まった雨の水たまりを歩くの音、おかあさんといっしょにうれしく歩く心の表現が、雨に濡れてる友人への優しさもあり、躍動的であるのは画期的だったのです。ぽつぽつ、ぱらぱら、しとしと、こんこん、びしょびしょ、ざあざあ、ざーっつなどと言った擬音があるようですが、さすが白秋の「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」は斬新で、動きがあって、さすがの詩人です。

1 雨がふります 雨がふる
  遊びに行きたし 傘はなし
  紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
  いやでもお家で遊びましょう
  千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
  けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
  小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
  お人形寢かせど まだ止まぬ
  お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
  昼もふるふる 夜もふる
  雨がふります 雨がふる

 これも、子どもの心があふれる様に表現されていて、水都の筑後柳川で育った白秋の感性は、抜きん出ているのです。童謡の作詞にも思いを向ける人でした。57歳で亡くなっていますが、まだ活躍できた詩人でした。

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村野四郎が、「粛々」という詩を読んでいます。

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この村田四郎は、東京都下府中市の出身で、大手の会社の責任を果たしつつ、詩作をした方です。小学一年生の音楽で、ドイツ語曲 “Biene”(SUMM SUMM SUMM)を、"ブンブンブン ハチガトブ"に翻訳したことで有名です。とくに「スポーツ詩」を作り、「鉄棒」があります。戦争が終わった年の秋の作詩です。「海ゆかば」の歌が聞こえてくるのが興味深いですね。

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まど・みちおにも「雨が降る日には」があります。

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「雨ふれば」を、選者だった北原白秋から高い評価を受けて、詩作を続けています。「ぞうさん」「ふしぎなポケット」の作詞で有名です。「国際アンゼルセン賞」をとり、106歳の長寿だった方でした。「雨がふる日には」は、その雨と雨降りに開いた傘との二者の会話です。こんな会話をしてみたいものです。

山村暮鳥の「驟雨の詩」です。

何だらう
あれは
さあさあと
竹やぶのあの音
雨だ
雨だ
おやもうやつてきた
ぽつぽつと大粒で
ああいい
ひさしぶりで
びつしより濡れる草木くさき
びつしよりぬれろ

ザアザア雨で、石鹸を持って庭に出て、シャワーをしていた私を、隣家のおばさんに見つかって、呆れ返って見られたのです。詩人は、そんなことをするのでしょうか。発達障害の奇怪な行動でしょうか。

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三好達治「大阿蘇」

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々しょうしょうと降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中もたてがみも ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭々と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中岳の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜くさせんりはまのとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

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室生犀星の「雨の詩」です。

雨は愛のやうなものだ
それがひもすがら降り注いでゐた
人はこの雨を悲しさうに
すこしばかりの青もの畑を
次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた
雨はいつもありのままの姿と
あれらの寂しい降りやうを
そのまま人の心にうつしてゐた
人人の優秀なたましひ等は
悲しさうに少しつかれて
いつまでも永い間うち沈んでゐた
永い間雨をしみじみと眺めてゐた
雨は愛のやうなもの・・・・・・
 室生犀星は 、こんな言葉で、雨を謳ったのです。万物の命を支えて行く務めを託された雨をです。雨の日は、晴れの日とは違った趣があるのです。
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 ジーン・ケリーが歌った「雨に唄えば(Singin’ in the Rain)」が流行っていた時期がありました。映画化され、musical の傑作で、《よきアメリカ》の象徴の様な映画と歌でした。健全なアメリカの時代でした。
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I’m singing in the rain
Just singing in the rain
What a glorious feelin’
I’m happy again

僕は歌う 雨の中で
ただ歌う 雨の中で
なんて素敵な気分
幸せがこみあげる

I’m laughing at clouds
So dark up above
The sun’s in my heart
And I’m ready for love

雲を見て笑ってる
頭上の暗い雲を
太陽は僕の心にあるのさ
愛する準備はできてる

Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I’ve a smile on my face

嵐の雲よついて来い
みんなここへ来い
雨も来ればいい
僕はずっと笑顔さ

I walk down the lane
With a happy refrain
Just singin’,
Singin’ in the rain

僕は通りを歩く
幸せをかみしめて
ただ歌いながら
雨の中 歌いながら

Dancin’ in the rain
Dee-ah dee-ah dee-ah
Dee-ah dee-ah dee-ah
I’m happy again!
I’m singin’ and dancin’ in the rain!

雨の中 踊りながら
また幸せがこみあげる
歌い踊る 雨の中を!

 聖書のホセア書に、 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 (ホセア6章3節)』とあります。雨を待ち望む強い思いが記されてあります。「後の雨」は、パレスチナの地では、12月から、2月に降るのだそうです。今冬、ここ北関東平野では雨が少ないのですが、自然界では祝福の雨への待望が感じられます。
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主を知ることを切に

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 人の一生と言うのは、「瞬きの間」の様に、飛び去っていくのでしょう。『準、いくつ喰う?』と言って、元旦の朝、母の作ってくれたお雑煮の鍋に入れる餅を焼くのに、父が聞いてくれた声が、昨日の様に思い出されてきます。

 母は、自分のふるさとの出雲風の雑煮を、きっと作りたかったのだろうと思うのですが、父の関東風で、小松菜と鶏肉の醤油味で作ったのです。さっぱりとお腹いっぱいに食べたのも、目の前にちゃぶ台があるかの様に、あの光景が目に浮かんできます。

 昨年、母の養母の実家の奥出雲地方の丸餅と雑煮つゆを、ネットで見つけて注文したのです。母が食べていただろうと思うお雑煮です。同じ山陰でも、地方地方で、村々で、部落部落で、そして家々で作り方も味付けも違うでしょうけど、日本酒に漬けた「十六島海苔(うっぷるい/島根半島西部の地名)」が具なのだそうけど、上手に再現できなかったのです。お酒を飲まないので、日本酒もなかったのです。

 もう2月、お雑煮の話題は、「往ぬ(いぬ)」べきでしょうか、この意味は「去る」、「行ってしまう」で、「一月」の「い」で、まさに瞬く間に過ぎてしまいました。この今月の「二月」の「に」は、「逃げる」なのだそうで、この月の二十八日間も、逃げ去っていくのでしょうか。来月、弥生「三月」の「さ」も、「去る」のだそうです。

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 年初めの三ヶ月は、正月、立春、節句、春分と、それに卒業式の月で、慌ただしくアッという間に行ってしまうからなのでしょう。では新年度の始まりの「四月」の「し」は、何を当てはめたらいいのでしょうか。積極的な願いで「知る」はどうでしょうか。

 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 (ホセア63節)』

 「知るべきこと」は、ただ一つ、『主とはどなたか?』ではないでしょうか。ソロモン王は、次の様に言っています。

 『私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」  私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。  実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。 (伝道者11618節)』

Menorah – jewish traditional candle holder for seven candles isolated on white background

 

 イスラエルの王のソロモンは、賢者であったのですが、知識は人を高ぶらせ、悩みを増し加えるばかりで、「風」を追うが如しであって、人生必須のものではないというのが、この人の結論です。増せば増すほどに、「悩み」が多くなっていくのだと付け加えます。

 イエスさまは、ベタニヤのマルタとマリヤの家で、こんなことを言っています。

 『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 (ルカ1042節)』

 すべきことも、知るべきことも、「わずか」だと、イエスさまは言いました。英欽定訳ですと、妹が選んだ ” one thing “ だけが《必要なもの》だと言ったのです。《一つだけの必要》こそが、私たちの知るべきことであるのでしょう。

 「主」とは、エホバ(Jehovah / יהוהアドナイ(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay])のことです。聖書は、「神である主(創世記24節)」と言います。モーセの幕屋の置かれた「燭台」は、「主」を象形していると考えられます。イエスさまを「主」と信じる私は、どんなに素晴らしいお方か、もっともっと知りたいのです。

(「キリスト教クリップアート」のイラスト、十六島の「海苔採り」、「燭台」です)

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書初め

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 「書初め(かきぞめ)」が、アメリカの北西部にいます次女から送られてきました。学校で日本語も選考し、校外の書道クラブで書初めまでしている、孫娘の作品です。「希望」で、お母さんの名前の出典は、

 『神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ127節)』

この「栄光の望み」からとったのです。その「望み」を、けっこう上手に書いたのでしょうか、〈金賞〉まで付いています。孫自慢のジジバカです。今月、もう一人の孫娘は、高校受験が控えています。応援中で、マゴマゴしているところです。

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提言

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もっとひどいことをしてる大人がいるよ、

もっとひどいことをしてる先生もいるよ、

もっとひどいことをしてる政治家もいるよ、

もっとひどいことをしている実業家がいるよ、

もっとひどいことをしてる首長だっているよ、

反省の証で、

腹筋70回/1週間

腕立て50回/1週間

放課後にお店の掃き掃除/1ヶ月

回転寿司行き禁止/1

あの高校生を赦してあげてください!

                       一人の元高校生から

(”キリスト教クリップアート“ の「放蕩息子の帰還」です)

泣いていいんだよ

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 『彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。(詩篇9115)』、『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 1コリント1013節)』

 『64年に東京五輪の映像を見た時、どうしようもない感動が湧き上がり「泣きなさい 笑いなさい」のフレーズができたが、それ以外は未完成だった。メジャーデビューして77年に東京の中野サンプラザでコンサートをした。前売り券は16枚しか売れなかったが、60年、70年安保闘争の時代に、ヒッピーやマルクスボーイだった(社会への)問題意識を持っている人たちが当日集まり満員になった。その人たちの挫折感を、僕も受け入れていく中で「花」の歌詞が生まれた。社会に浸透したのは、彼らのスピリットを受け入れていたことが大きいと思う。』と、喜納昌吉が回顧しています。大ヒットした「花~すべての人の心に花を~」の作詞作曲した沖縄調の歌です。

川は流れてどこどこ行くの
人も流れてどこどこ行くの
そんな流れがつくころには
花として 花として 咲かせてあげたい

泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

涙流れてどこどこ行くの
愛も流れてどこどこ行くの
そんな流れをこの胸に
花として 花として 迎えてあげたい

泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

花は花として 笑いもできる
人は人として 涙も流す
それが自然の歌なのさ
こころのなかに こころのなかに 花を咲かそうよ

泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

 日曜日の夕方、家内が、泣いていました。闘病四年、泣いたのです。やはりキツイこともあるのでしょうか。我慢強く生きてきていると思いますが、「主の義の右の手」で、自分の右の手が握られている確信がありながら、人として、つらいことがあって、泣かない人だったのに、泣いたのです。

 『泣かないの!』と言った後に、『泣いてもいいよ!』と彼女に、何もして上げられない私は言いました。病んだ時、怪我をした時、悩んだ時、傷ついた時に、いつもいてくれた母親は、すでにいないのですが、いつも見守り続けてくださる父なる神さまがいて、救い主イエスさまがいて、慰め主の聖霊が言ってくださる確信は揺るがないのですが、どんなに強くても、彼女にも泣きたい時があるのです。

 風呂場の更衣室の壁に、カレンダーが架けてありますが、ここに印字されていたのが、表記の「みことば」で、思いっきり泣きながら、その時に読んだそうです。つらさの中に共にいてくださるお方を、再確認したら、涙が止まり、痒みも止まったのだそうです。ヨブに似た様なに痒みとの闘いを通っているのです。

 もう45ヶ月、彼女は痒みと闘っています。これまで40回、キイトルーダー(抗腫瘍薬)と言う薬剤の点滴投与を、入院中から受けてきて、それを終えたのです。そうしたら、後遺症なのか副作用なのか、湿疹、オデキが身体中に出てきて、痒みと闘いが始まりました。風呂上がりに、私は、痒み止めを塗って上げています。

 きっと痒みが酷かったのでしょう。また長引いていることもあって辛かったのでしょう。そんな時って、思いっきり泣くといいのです。この「花」の歌の様に、泣く時も、笑う時も、人の一生にはあるからです。歩けなかったのに、散歩ができるまで回復してきました。その散歩中に出会った、散歩仲間との交流が生まれ、家に来て一緒に食事をする人もいます。訪ねて行く人もできました。図書館にも、市役所にも、街の駅にも、栃木駅のコンコースにあるピアノを弾きにも行けるのです。泣いた翌日には、デーケアーに行って、12人ほどの仲間と2時間ほど過ごして帰ってくると、『あー、楽しかった!」と、ニコニコと帰ってきました。

 それでも泣いたのです。もう泣かないそうです。泣いてもいいのに。

 

風雪七十年

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 生活や心の落ち着いた今から、厳しい試練や苦難を過ぎた日々を思う時、過去に困難な山坂を越え抜けてきたと言う意味で、人の半生を、「風雪五十年」と言ったりします。昔も、風と雪は、厳しく地に吹きつけ、人を難儀に置き続けてきたものです。

 風雪は自然を育み、人を磨くと言って、良い意味で風や雪を例えるのですが、今冬は、十年に一度の寒波襲来で、日本列島、とくに日本海側や北海道では、文明の利器の自動車や電車や飛行機などが用いられなくて、運休、停滞、停電、漏水、断水交通機関の運行停止など、大変な事態をもたらせていると、ニュースが伝えていました。

 「雪」は、ゆき、すすぐ、そそぐと読みます。会意文字で、「雨+彗(すすきなどの穂でつくったほうき、はく)」で作られていて、雨は履くことができませんが、雪は履くことができます。それで、万物を掃き清めるのが「雪」だと解説されてきています。漢字の読みで、恥を「すすぐ」で、雪の漢字を、そう呼んでいます。

 「風」は、『風の甲骨文字の

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で、神の使いの鳥である鳳凰(ほうおう)の形で表されていました。人々は、風のそよぎの中に大空を羽ばたく鳳凰の姿を見ていたのです。後に天には、龍が住むと考えられるようになりました。風は龍の姿をした神が起こすと考えるられようになり、その音を示す部分「凡」

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だけが残りました。そののち龍を含めた爬虫類の虫(き)という文字が加えられて、風の字が作られたのです。虫(き)は蟲(ちゅう)の常用漢字「虫(ちゅう)」と同じ形をしていますが、別の字であり、「むし」の意味ではありません。(「漢字の成り立ち」から)

 ある人が、長い時間をかけて、一仕事を成し終える様子を、「風雪五十年」と言う言い方をし、試練の年月を思い返して、「回顧録」を記すのです。風雪に耐えて、今の成果や成功があることを言います。まさか、こんなに生きられるとは、母は思わなかったのでしょうに、もう二年もすると、〈今年八十のおじいさん〉に、生き延びてなれそうです。発熱すると、暖かな身なりにしてくれて、近くの街医者ではなく、電車に乗って、隣駅の国立病院に連れていってくれました。

 無医村の山奥で死にかけて、私が担ぎ込まれたのが、国立病院だったからでしょう。退院し、普段の生活に戻れた国立病院の医療への信頼と感謝があっての通院でした。病院帰りには、駅前で、進駐軍・アメリカ製品の売られる菓子店で、チューウインガムやピーナッツやチョコレートを、決まって買ってくれたのです。

 兄弟姉妹のいない母子家庭で、養母に育てられて、淋しい子ども時代を過ごしたからでしょうか、三番目を死なせまいとする母の思いがあって、生き延びた自分を、今になっても感謝しているのです。「風雪七十年」を生き延び、いえ生かされて思うのは、親の愛でしょうか。母を生かした、神の愛に裏打ちされた子への愛に、「風雪の一月」に思ったことは大であります。

 昨年の春から夏、そして秋にかけて、観測史上みられなかったほどの水量をもたらす雨が降り、想像を超えた風速の風が吹き荒れてきました。年の暮れには、大雪に見舞われ、年明けの今、また寒波襲来、「荒天(こうてん)」に見舞われ、今夏の風雨、台風が心配ですが、主の憐れみを願いましょう。もう、週末の土曜日には「立春」です。

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神と人とに愛されて

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 可愛い赤ちゃんの写真が、お隣りの国から送られてきました。お母さんになったのは、日本の大学で、博士号をとられて帰国し、省立大学の法学部で教えています。お父さんも、関西圏の大学で博士号をとって、建築学の教師をされています。

 お二人とも、時間をとって、別々でしたが訪ねてくれました。私たちの子どもたちと同じ世代です。神さまから頂いた、この初々しい《いのち》を育んで、神と人とを愛する子になって欲しいと願わされています。

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義の右の手で堅く握り

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 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ41101113節)』

 この「みことば」は、虫にも等しいヤコブ、イスラエルの人々への主なる神さまの語り掛けであります。

 39才の夏の終わりに、東京女子医大の手術室に、すぐ上の兄と二人で並んだでいました。兄は遅れて、連れて来られたと思います。『◯さ〜ん。◯・・・』まで聞こえていました。それから、腹部に猛烈な痛みがあって目が覚めたのです。看護婦さんが覗き込む顔が見え、『痛いから、痛み止めを!』と言ったのを思い出します。運ばれてICUにいたと思います。それから病棟に戻るために、ストレッチャーに乗せられる時に、また強烈な痛みがあったのです。

 兄も、無事に手術を終え、病室には戻れずに、ICUに、しばらくい続けたと思います。『お兄さんには無事移植が終わり、順調でいます!!』と知らせてくれました。どうも丁寧に取り出すために、13時間ほどの時間をかけて、私の腎臓が取り出され、兄の腹部に移植する手術が終わったのです。

 入院する頃に、一緒に住んでいた家内のお母さんが、「イザヤ書41章」のみことばを読む様にと、カードに書いてくれたのです。そう言えば、手術中に、ずっと自分の右手が、「主の右の手」で握られていたのだと思うのです。そんな安心感があったからです。

 家内が、華南の省立第一医院に、1週間入院し、『すぐに帰国して、日本の病院で診てもらってください!』と、医学校の学生たちに聞かせるためにいた中で、医師にそう言われたのです。それで、明日の飛行機のチケットを予約したのです。その朝、飛行場に行くと、搭乗前に、医師のチェックが行われて、〈搭乗不可〉だと言うのです。翌日朝一で迎えに来てくれた十人ほどで、再び空港に着き、またドクターチェックを受けたのです。昨日とは違う医師が、『上机可以keyi!(搭乗可)』の診察結果が出て、チェックインをしようとしたら、教会のみなさんがビジネスチケットに買い替えてくださって、初めてエコノミーでない席に座ることができたのです。

 みなさが泣きながら別れを告げているのを、怪訝に思っていたのが家内でした。彼女には、退院に当たって、担当医師が言われた病気の深刻さを告げていなかったからでした。『私は、また戻ってくるのに、どうして泣いているのかなあ?』が、帰国の翌日訪ねた、獨協医大病院に即刻入院して、しばらく経ってから、病状を伝えた私のことばで、空港の一件が納得できたのです。

 そんな入院、治療の中に、家内に書いて渡したのが、義母が私の手術の前に下さった同じ「みことば」でした。家内は、今も「義の右の手」を感じているでしょうか。万物を創造し、支えている同じ見えない「義の右の手」であります。その手で、どれほどの人たちに触れてこられ、今もなお握っていてくださることでしょうか。何と「堅く握り」と言っておいでで、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と、付け加えてくださっています。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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