木や草や紙の素材で

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 木、草、紙、藁などが用いられた、日本の家屋ほど、簡素で、自然に調和し、そこからの産物を用いた住環境は、世界に類を見ない優れたものだと言えます。隣国で過ごして帰国した時に、弟や友人の家に迎えられ、その障子から射し込む柔くて含むような光、畳み表の井草のなんとも言えない匂い、木の床の足の感触は、父が育ててくれた家を思い出させてくれ、なんともホッとさせられたのです。

 それらは、独特な雰囲気をかもし出し、日本的な文化や伝統の中に溶け込んだ感触や匂いや光でした。

 子どもの頃、わが家へは、道路の脇を流れる小川に架かった木橋を渡って庭に入りました。木製の戸を開けて玄関に入り、廊下を渡って、木と紙でできた「障子」を開けて、井草と布で作られた畳の敷かれた部屋に入り、木と紙で作られた襖(ふすま)を開けて、わた布団を出して、畳の家に敷いて寝ました。今頃は、蚊帳が吊られてありました。

 床の間があって、そこに鹿の角や水晶の結晶や掛け軸が、置かれてありました。着替えや布団は押入れに収め、地の産する野菜、海で取れる魚類、牧草を食べた牛の肉、麩(ふすま)で育てられた豚の肉で、おかずを母が作ってくれました。木で作られた椀に、大豆で作られた味噌汁を注ぎ、木や炭で炊いた御飯を木の箸で食べて、夕餉を木製の食卓を家族で囲んでとりました。夕べには、木で作られた風呂桶に、井戸からポンプで汲み上げた水を張り、薪を燃料に湯を沸かし、木の桶で湯を取って使い、ほとんど毎日入浴をしました。

 母は、綿と布で作られた布団を畳の上に敷いてくれ、同じようにしてできた上掛けを掛けてくれ、蕎麦殻で作られた枕で就寝しました。毎年、五月五日の頃には、家の親柱に、背丈を兄が刻んでくれたのです。歌の文句のようですが、出雲の田舎から祖母が送ってくれたチマキも、毎年食べました。家の外壁も木の板、かろうじて屋根だけは、トタンでした。

 ところが、今や、私の周りは石油原料の製品ばかりになってしまいました。食べ物も、化学的な調味料や添加物の入った食べ物だらけです。人工的で加工された物ばかりで、命の危険が叫ばれています。そう、《自然に帰れ!》の時代がやってきています。それで、organic なものを、人は求めるようになってきました。わが家でも、買い物をする時、organic な物、添加物に入らない物、化学的殺虫剤や消毒液を使ってない物を買うことにしています。

 好きなチーズも、原乳と塩だけの物を探して食べています。安い原材料で、短時間に製造できるものに取って変わってしまい、危うい物だらけになってしまいました。排気ガスで空気を汚す車の所有をやめ、運転もやめ、20インチタイヤの自転車に乗って、どこまでも出掛けるようになって、〈一石三鳥〉で、原始の生活に一歩、二歩と戻っているようです。

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 今日は、市民大学の講座があって、わが家の傍を流れる巴波川が、江戸の木場あたりを往復しただけではなく、渡瀬川、利根川を上り下りしながら銚子との間を往復していたそうです。行きには、麻糸を積んで運んだ便があったのです。それが魚網のために用いられ、粟野(現在の鹿沼市になります)で栽培された「野州麻」で作った糸を運び下ったのです。帰りの船で、乾燥した鰯を運び上ったのです。それを麻の栽培のための肥料として用いられたようです。

 そう言った流通が行われていたことを知って、なお一層住む街の歴史を知ることができて、嬉しくなってしまいました。江戸に行くには、川の渡しを少なくして、足止めにならないようなルートがあって、小山、野木、栗橋、千住といった、いわば裏街道を、多くの人が利用していたのだそうです。そんな講義を聞いて、また、そこかしこと訪ねてみたくなってしまいました。

( 高瀬舟、麻糸、粟野の麻の刈り入れ作業です)

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まあいいかの懐深い大人に

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 〈子ども声が聞こえない街〉、われらが子どもの頃は、子どもは大きな声で話したり、泣いたり、喧嘩したりして遊んでいたのに、今では、子どもが少なくなっただけではなく、子どもが、ひっそり家の中に籠ってしまっているのではないでしょうか。何か寂しい時代です。

 缶蹴り、馬跳び、宝島、三角ベース、チャンバラ、ベーゴマ、カード起こしやカード飛ばしなどなど、子どもなりに工夫しながら遊んでいたのです。宿題なんか、あったのかと思ってしまうほど、した覚えがないのです。度をこすと叱られたりはしましたが、大人は 『まあいいか!』で、寛容でした。

 中国の田舎にいました時に、そんな子どもたちを見かけました。タバコを咥えた少年たちもいたり、〈自然児+ヤンチャ〉な子たちがいて、なんかホッとしたものです。学校にも遊び集団があり、家に帰ってくると、空き地にも遊び集団が、仲間を認めては集まって形作っていました。女の子たちも、その隅の方で、ゴム跳びなんかしていたのです。

 集団遊びで、《ルール遵守》を覚えさせられたのです。出過ぎ、度越えると殴られるし、生意気を言うと殴られる、そんな中で、「ワガママ」が通らないのを学ばされたのです。

 『静かに!』してないと追い出されてしまった図書館では、騒ぐ子がいても、大目に見られるようになっているのです。自粛を求められたのは、大人だけではなく、子どもたちでした。行動が規制され、制限されたのは、〈コロナ騒動〉があったからでもありました。この4年ほど、外出もままならず、籠り生活を強いられて、不自由を感じ続けていた子どもたちに、鷹揚さが示されているのです。

 大人だって同じでした。温泉に行っても、〈黙浴〉と露天の柱、浴場の壁に貼られていたのです。中国から訪ねてくれた見舞客をお連れして、温泉に行き、露天につかっていましたら、『お静かにお願いします!』と、従業員に注意されてしまいました。お腹から声を出す彼に倣って、同じように話していたらでした。

 子どもいる場所、例えば図書館などには、『少し大きな声を出しても大目にみて!』との張り紙が掲示されていたり、感情の表現を規制しない、大人の配慮があるようです。時代なのでしょうか、幼稚園や保育所の近所の方が、『子どもの声がうるさい!』と言ってきる大人がいるようです。そんなことしてるから、『子どもが暴れてしょうがない!』と苦情を言うようになるわけです。

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 大人の度量の見せ所、《来た道》に、多くの懐深い大人のみなさんが、生意気な子どもだった自分のまわりにいました。親はともかく、教師や近所のおじさん、職場の年長者が、電車で横に座ったおじさんもいましたが、みなさん暖かく見守ってくれたのを思い出すのです。あっ、おばさんもいました。

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ドキリとさせられて

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 物損保険の業界では、労働災害などの事故が起きたり、失敗が起こったりする原因を、『経営者の家系に何か大きな問題が潜んでいるからです!』とは言いません。ハーバート・ハインリッヒと言う、アメリカの保険会社の調査員(副部長)が、一つの法則を見つけています。ウイキペディアに、次の様にあります。

 『彼は、ある工場で発生した労働災害5000件余を統計学的に調べ、計算し、以下のような法則を導いた。「災害」について現れた数値は「1:29:300」であった。その内訳として、「重傷」以上の災害が1件あったら、その背後には、29件の「軽傷」を伴う災害が起こり、300件もの「ヒヤリ・ハット(危うく大惨事になる)」した傷害のない災害が起きていたことになる。』、これを、一般的には、「ハインリッヒの法則」と呼んでいます。

 2005年の早春の朝のことでした。所要があって、その日は車ではなく、自転車に跨って家を出た私は、道路を横切ったところで、路肩の段差に乗り上げて、転倒してしまったのです。車が、倒れた私の脇をスピードを出して通り抜けていきました。私は、車道側にではなく、歩道側に投げ出されていたのです。車道側でしたら、轢かれていたに違いありません。すんでのところで助かりました。

 ところが、その転倒で、右肩の「鍵盤(腕を吊っている筋)」を完全に断裂してしまい、腕が上がらなくなってしまったのです。駅の近くの病院でCTを撮ってもらい、その事が判明し、市立病院を紹介されたのです。鍵盤の縫合手術の権威が、そこにいて、早速手術をしていただき、鍵盤が繋がれたのです。何と、退院後、6ヶ月間のリハビリで、やっと右腕が動かせる様に回復したのです。

 この怪我、入院、手術、リハビリの事を考えていて、自分のこれまでの人生に、小さな事がたくさんあった事、そして<ヒヤリ>とする様な危ない事が多くあり、そう言った事の後に起こったのだと思ったのです。『ちっと気をつけて!』という事も多くあり、<注意勧告>が何度もあり、それからの大怪我でした。術後の痛みに耐えられなくて、『自殺をした人がいたんですよ!』と、看護師さんに脅されたりしたこともありました。

 警告されているのに、<ないがしろにしたこと>が、やはり、怪我や事故や失敗をもたらすのでしょう。自分の不注意が積み重ねられての怪我だった事を、今も認めています。『日本が台風に、頻繁に襲われるのは、民族の歴史の中に、何かが・・・』という人がいますが、地球の保全を怠ってきた結果であり、もっと酷くならないための「注意勧告」であるのではないでしょうか。〈因果応報の法則〉ではなく、〈祟り(たたり)〉でもなく科学的な法則で、理解したいと思わされています。

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 このところ、台風5号が、中国大陸を北上し、とくに北京、河北省、黒竜江省などに、大洪水をもたらしました。その多くが、限界水位を超えたダムからの流域住民への知らせなしの強制放流だったともニュースが伝えています。ウイグル族への厳しい弾圧と、この洪水と結びつけるニュースサイトがありますが、災害は、悪行へのバチや刑罰ではないのです。

 河川の許容水量を超えるほどの降雨、線状降水帯によるもので、それだけ地球や海流の温度が高くなっているからだとされています。この23年の雨の降りっぷりには驚かされ続けています。今まさに6号台風が、奄美、九州各県に大雨をもたらそうとしています。さらに驚かされるのは、まだ8月、台風は六号なのですが、秋に向かって、まだまだ予断を許さない数の台風が発生し、襲来するのではないかと言うことです。

 日本ばかりか、世界中で、異常な降雨量が見られます。お米や麦が育っている水田や畑、家畜が流される光景は、悲しくて仕方がありません。ヒヤリどころではなく、〈ドキリ〉とさせられるられ今日日の世界です。東京や大阪は、地下鉄網が張り巡らされていて、そこに雨が流れ込むようなことになったら、排水能力を超えて。収拾がつかなくなってしまいそうで心配でなりません。

 被災地での衛生状況の悪化で、健康被害も心配されます。めげずに復興が、各地でなされて、普段の生活が戻って来ますように、心から願う今朝です。

(産経新聞ニュース報道からです)

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ちらし寿司でもてなしを

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 《得意料理》が、私にはあります。母の作ってくれた「ちらし寿司(母のふるさとでは〈ばら寿司〉と言っていたようです)」を思い出しながら、見様見真似で、酢飯の好きな家内のために作り始めたのです。『何食べたい?』の答えが、いつも、これなのです。

 二人のご婦人が訪ねてくれて、夜9時過ぎに、成田空港から浅草、そこから東武日光線の特急電車で駅に着き、迎えに出て、家にお連れしました。このお二人に、この〈ばら寿司〉を用意したのです。酢豚だってできるのですが、《にっぽん料理》のつもりでした。

 初めて来られたのは、今春、55歳で定年退職された姉妹が、19年ぶりに、今度はお見舞いで来られたのです。コロナ禍で足止めされていたのが、やっと来れたのです。在華中、ずっと説教の通訳をしてくださり、あちらこちらの教会に招かれて、いつも3人での移動でした。訪問や教会のレクレーションにも、この姉妹がお連れくださったのです。

 中国地方にある国立大学に留学されて、博士号を取得されて、帰国され、省立の大学の法学部で教鞭をとってこられたのです。民法の選考で、省や市の法整備にも当たってこられた方です。警察学校に教師として招かれておいでですが、教会の用に当たりたいと言っていました。取り締まり対象の家の教会のメンバーなのに、招かれていると言って苦笑いをされていました。

 私たちが、その街に移った時に、間も無く訪ねて来られて、家内と3人で食事をしました。日本人の年配者が来ているのを知って、『必要があったら助けたいので、なんでも言ってください!』と言ってくださってから、13年ほどご一緒でした。

 もうお一人の姉妹は、長女と同じ歳で、二人の大学生のお母さまです。家内が二度入院した時に、まるで娘のようにしてお世話くださったのです。彼女の家で、毎週水曜日に聖書研究会があって、そこでもお話をしていました。季節季節の果物やお菓子を用意してきださって、30人ほどの交わりだったのです。

 お父さまとお母さまの始められた「鮑」の生産と販売、輸出までされていらっしゃって、ご主人を立てて、敏腕にお仕事をされているのです。故郷にもお連れいただいたのですが、村の90%がクリスチャンで、彼女は《五代目の信仰者》です。女性が元気な中国で、実に穏やか方なのです。

 わが家の近くの魚屋さんで、北海道産の生鮭の切り身を買って、野菜サラダに、いつもは〈しらす干し〉で済ますのですが、このお二人には、VIP待遇で、バラ寿司に《国産ウナギ》を奮発して添えたのです。いつもご馳走になり、生活の支えもしてくださった姉妹たちへの、せめての歓迎と感謝を表せたでしょうか。

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 お祈りの要請があって、いつも一緒に祈ったのです。親戚の方が、船で漁をされていたのですが、出漁後に行方不明になってしまい、『祈ってください!』と言われたことがありました。近くの島陰で沈没されて、お父さまと息子さんが亡くなられたのです。それで、ご主人と息子さんを亡くされた夫人とお嫁さん、二人の小さなお子さんを励ましたいと、誘われて訪ねたのです。

 今回の訪問で、親戚のおばさんはお元気になって、お嫁さんは再婚され、お子さんたちも大きくなっておいでとのことです。もう一人の息子さんは、この姉妹の会社で働いているとお聞きしたのです。中国の家族と親族に繋がり、関係は、とても深く強いのです。貧しい時代は、親族や近隣が、経済的にも精神的にも支え合って行きてきたからでしょうか、今は豊かになっていますが、いまだにその絆は強固なのです。

 わが家から2、3分の所に、「9R hostel」があって、そこに1週間泊まっていただいたのです。もう少しホテルらしい宿所をご用意したかったのですが、近いので、とても行き来が便利で、前の月に来てくださった、もう一人の姉妹も、同じ hostel に泊まっていただいていた所です。

 私たちを、友人や兄弟や子どもたちが、物心両面で支えてくれて、出かけて過ごしたのですが、学校での教師の勤めを紹介てくださって、ずっと週2日教壇に立って教える機会が与えられて、大学からもその給料をいただいたのです。初期に、私たちがいただいた献金は、団体所属の費用が、けっこう経済的に高額でしたので、残額が少なく、大変な時期があったのですが、その収入は大きな助けとなっていたのです。
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 学校を退職した後、この教会から、牧師給をいただいたのです。『十分に支えられていますので、大丈夫ですから!』と言いましたが、主から、愛兄姉からですから受け取って欲しいのです!』と言って、断り切れず、ずっといただいてきたのです。帰国してからも、見舞ってくださる方たちが届けてくださり、今回も、考えられないほどの分を、『みなさんから預かってきましたから!』と、渡されました。

 もう涙が出るほどの愛をいただき続けているのです。在華中、体調が思わしくないと、兄弟姉妹のいる省立や市立の大きな医院に、なん度もお連れくださり、治療費も払っていただいたりでした。この街の大き河の河岸に、何百メートルもの石板が組み込まれて、この街に歴史が刻まれているのです。そこには、日本軍の侵攻、爆撃、その死者数までもが、刻み込まれています。初期に、この街でお会いしたご婦人は、日本軍の放った火で、少女時代に、腕に大きな火傷を追われていました。無理にお願いして見せていただいたのです。

 そんなことをした日本から、被害に遭われた人の住む街、また井戸に毒を投げ込まれて死者を出した街で、救われた基督教徒のみなさんから、そんな愛を受けてきているのです。まだ書きたいことがありますが、内分にした方がよいことなので、口頭でお話しできる時にお分かちしたいと思っております。

 美味しい「面mian/麺」が、この街にあるのです。最初に食べた時は、「三元(3050日本円)」でした。野菜と海鮮と肉の入った細麺なのです。南の方に行った街の名物ですが、その街には、そこからの多くの出身者がいて、面店があるのです。師範大の旧キャンパスの店は抜群に美味しかったのです。それよりも、その姉妹が作ってくださった麺は、その何倍も美味しかったのです。素敵な13年を思い起こす、再会を喜ぶことができました。家内は、いっぺんに元気になってしまったのです。好い体験をさせていただいて、こんな素敵な今を過ごしています。

( 中華麺、 鮭、エルサレムに教会が誕生した様子です)

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胸キュンの思い出と

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 散歩コースの一つが、巴波川散策で、この河岸に、市の終末処理場があって、田んぼが広がっています。土手伝いに歩くのですが、斜面に、このヒルガオが咲いていました。畦の流れの上を、シオカラトンボが飛んでいたのです。華南の街でも、ヒョイヒョイと飛んでいました。蜻蛉三題です。

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もう飛ぶか 秋の知らせの 赤とんぼ

トンボ釣り 追いかけ走り 弟と

シオカラも 連なり飛んで 水面かな

 

   こんな異常な暑さでは、まだ赤とんぼは飛ばないのでしょうか。NHKのラジオで放送されていて、大変人気のあった、「にっぽんのメロディー」の opening に流れていたのが、「赤とんぼ」でした。

1 夕焼小焼の赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
  とまっているよ 竿のさき

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 子育ての真っ最中、早く床について、携帯ラジオで聞いた番組ででした。その「赤とんぼ」のメロディーに載せて、『歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。皆さんこんばんは、にっぽんのメロディー、中西龍でございます!』というアナウンスがあったのです。

 これほど秋を感じさせてくれる歌はなさそうです。人恋しくなって、父や母を思い出させ、兄たちや弟と一緒に過ごした日々が、懐かしくて仕方がなくなってきます。ちゃぶ台に代わる、掘り炬燵を一年中囲んで、どんな話題だったのかは記憶にないのですが、大賑わいで食事をしたことが、胸がキュンとして思い出されます。

 子育て中の私は、責任の重さ、食べさせること、着せることなどに気を遣って、大忙しでしたが、今は、家内と二人で、実に静かな時を送っております。

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暑気払い

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 今朝のベランダの朝顔です。こんなに暑いのに、朝ごとに、咲いている花を見ると、暑気払いになるのでしょう。昨夜は雨があってたようで、涼しい朝を迎えています。来客される方は、この朝顔を羨ましそうに眺めておいでです。今日もガンバレそうです。
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真夏の華

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 『仕掛け花火のような・・・』と形容される人の一生ですが、尺玉のような大輪なのか、パチパチと光る線香花火なのか、この仕掛けの大掛かりな花火なのか、自分の一生は、どれに当てはまるのだろうか、と考える季節になりました。

 大曲、長岡、隅田川などの地は、打ち上げ花火が盛んで、コロナ禍で開催を見合わせてきたからでしょうか、今年は、満を持して打ち上げと、花火の開く炸裂音がこだましているようです。風物詩としての「花火」は、どなたにもきっと懐かしい記憶がおありなのでしょう。

 東武日光・鬼怒川線の新栃木駅前のお店に、遊戯用の花火が並んでいて、通りすがりに覗き見をしてみました。商業用では、花火玉の価格は1尺玉で5万~10万円、3尺玉で約150万円、4尺玉は約250万円(2023年現在)なのだそうで、〈一発250万円〉には驚かされてしまいました。

 2010年8月に、下の息子の招待で、京王線桜ヶ丘駅に近い、多摩川の河川敷で、花火大会がありました。事前に席を予約してくれて、一年ぶりに帰国した私たち両親を招待してくれたのです。家内は、どうしても都合が取れなくて、私だけで出かけたのです。遠くから眺めるよりも、打ち上げ音がして、真上で花開く花火は圧巻でした。 

 『来年はお母さんも一緖に観たいな!』と息子に言いましたが、一卓四席で3万2000円だと値段を聞いて、驚いてしまったのです。その席に、フライドチキンを注文して、テーブルで食べた味が忘れられません。それは、大きな親への愛で楽しませようとしたのです。その心意気に触れて、親冥利に尽きる感じがして、本当に嬉しかったのでです。

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 大掛かりではなかったのですが、父が、花火を買ってきてくれて、庭で一緒に火をつけて、花火遊びをしたことが、子どもの頃にありました。かがんだ父が、線香花火を持って、パチパチと火花を飛ばすのを見入ってる父の表情が、なんとなく朧げで、普段の父と違ったものがあったのが、思い出されて参ります。

 どんな花火でも、音の後に火花を煌めかせ、音も火花も消えて煙を残すだけで、その煙も薄れて消えてしまいます。あの火薬の匂いが、鼻腔に残っているだけのひと時ですが、その儚(はかな)さが、かえって、日本人にはいいのでしょうか。残影が残るだけですが、数秒の花の火の舞いは、子ども心を楽しませてくれるには十分だったのです。

 今度花火屋さんの前を通ったら、それを買って帰ろうかなと思っています。この季節がもたらす郷愁に、きっとひたりたいのかも知れません。上海の「外灘waitan のそばにあった「CAPTAIN 船長」と言うホテルに泊まったことがありましたが、そこの近くに、大阪や神戸とを結ぶ航路の波止場があって、何度も乗り降りをしたことがありました。

 その外灘で、吉良常が花火師になっって、腕を失うくだりが、尾崎士郎の著した「人生劇場」にありました。かつて上海にあった日本租界の住人たちが、この時期に、景気付けで、花火を上げていたのでしょう。その港を出た船が、東シナ海を渡ると、やがて五島列島の島陰が見えてくるのです。上海に向かう航路でも、大阪に帰る航路でも、なんとも言えない心の動きが、その辺りにはあったのです。父の青年期に、きっと、同じ航路で、下関あたりから船旅をしたのだろうと思うと、一入(ひとしお)思いが懐かしさを呼び戻すのです。

( 越後長岡花火大会の花火、先行です)

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あらゆる悪の根

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 添田唖蝉坊と言う、演歌師がいました。明治、大正期に、近代化していく日本の世の中の矛盾や汚点を取り上げて、歌によって社会風刺をしいた方で、非暴力、権力に阿(おもね)ることのないこの方の歌は、痛快だったようです。「演歌」の原点とも言えるそうで、『演説の歌である!』と言っています。そんな多くの歌の中に、「金金金節」がありました。

金だ金々 金々金だ 金だ金々 この世は金だ
金だ金だよ 誰が何と言おと 金だ金だよ 黄金万能

金だ力だ 力だ金だ 金だ金々 その金欲しや
欲しや欲しやの 顔色目色 見やれ血眼 くまたか眼色

一も二も金 三・四も金だ 金だ金々 金々金だ
金だ明けても 暮れても金だ 夜の夜中の 夢にも金だ

泣くも笑うも 金だよ金だ バカが賢く 見えるも金だ
酒も金なら 女も金だ 神も仏も 坊主も金だ(以下省略)

 『金がなくては何もできない!』と言うことで、〈お金第一〉の風潮というのは、明治や大正の世にあったことだけではなく、令和の今でも同じです。あらゆることがお金とつながっているからです。太陽光発電も海洋エネルギー発電など、新しいエネルギー源の開発は、政府からの援助で潤う、絶好の機会なので、金儲けの機会になっているのでしょう。

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 金が亡者なのではなく、〈天下の回りもの〉なのに、個人や団体が占有するので、流通しないで、カビが生え、腐敗して異臭を放ってしまうのです。亡くなった後の、残されたものの中に、貯められたお金が残されていたと言う事例が多くあります。流通しないで貯め隠されてもお金はただの紙切れなのにです。

 お金ではなく、《愛》の動機で、ことがなされるなら、個人も国も潤い、素晴らしい社会ができるのです。大陸や東南アジアへの侵略だって、〈カネ〉のためだったのです。その求めの帰結は、滅びや衰退でした。そう歴史が証明しています。聖書は言います。

 『金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 1テモテ610節)』

 一昨日の七時のNHKニュースで、洋上風力発電の資金提供の問題が取り上げられています。お金に群がった男や組織の末路は、苦いものです。〈黄金万能〉だと信じるか、《博愛万能》、《愛神万能》と確信して生きるかによって、人の一生は変わってしまいます。夢幻の黄金の夢から醒めて、天国を目指して進んでいきたいものです。

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人は神になれるのでしょうか?

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 権威の座に上りつめて天下人となった者も、その後継者も、この人の同調者も、この偉業を遂げた人物を、〈神の座〉に就かせたい願いが強固にあるのでしょうか。

 昨日の市民大学教養講座は、徳川家康を取り上げて、国学院大学栃木短期大学の坂本達彦教授の講義がありました。「徳川家康の半生と下野国」と題してでした。この栃木との関わりを中心に、「神としての家康」についてお話があったのです。東照大権現、不動明王、神として家康の亡骸(なきがら)は、その子・二代将軍秀忠が造営した日光東照宮に納められてあるのです。

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 まず、スクリーンに、その家康を描いた絵が映し出されたのです。『徳川家康三方ヶ原戦役画像』と言われているものです。およそ江戸期以前、人物を描く時、ほとんどの画が、斜めに顔を向けた姿が描かれています。ところがこの絵は、真正面から描かれてあるのです。講師は、家康の座る椅子に聞き手を注目させて、この椅子は、戦場では座ることのない物であることを言いましたから、画が戦場の家康であるのは誤りあるとしています。表情も、足組も独特です。少なくとも、〈神とされた家康〉が、ここに描かれているのです。

 大権現、東照宮という名で、礼拝を目的に、神格化された、神とされた家康を描いたのだと解説しておられました。家康がなくなった時には、家康の子の秀忠は、亡骸を久能に埋葬し、後に日光に改葬し、日光東照宮に神格化された家康を祀ったのです。その資材は、江戸から利根川、渡瀬川、巴波川を経て運ばれています。

 織田信長(15341582年)、この人の死後に豊臣秀吉(15371598年)、この人の死後に徳川家康(15431616年)が、群雄割拠の戦国の世を平定して、征夷大将軍となり、260年の徳川幕府を開幕しました。

 死して神となって祀られている家康が、関東平野全域を、今も霊的に支配しているから、そのために祈らなければならないという人たちがおいでです。日本一の高い富士山に登って、そこから霊的な支配を打ち破り、日本を支配するキリストなるイエスの名を宣言する人たちもいました。

 全天全地は、神の支配の元にあります。イエスさまは王の王、主の主、栄光の王、万軍の王でいらっしゃいます。高い山に登らなくても、普段の場所で賛美し、御名をほめたたえ、感謝することでよいのではないでしょうか。私は、毎日、神の御名をあがめ、神の国の到来、世の初めからよいことをなされる神のみ旨の今日の分がなされるように、信じて祈っています。またエルサレムの「平安」、遣わされた自分の住む街の「平安」、これまで遣わされた街々、子どもたち四人の住む街の「平安」を、静かに祈るのです。

 霊的な格闘というようなことは致しません。あえて言うなら、イエスさまの勝利を告白し、賛美し、感謝しているでしょうか。家族や親族や友人や主にある兄弟姉妹、近隣のみなさんの祝福を願って祈ってもいます。思いの中に示されたことも祈るようにしています。もちろん自分の生まれて住む国のために、そして世界のためにも祈ります。

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 家康は、数度、この下野国を訪ねていますが、亡くなった後、棺に収められて、葬送の道を、久能山から上野国の館林、佐野、後に「例幣使街道」と呼ばれる道を通って、日光の地に葬られているのでしょう。そこで今も神として支配しているとは信じていません。すでに死した物故者であって、人や社会や国家に影響力を及ぼすことはできないのです。やがて、父なる神の御前に出るのです。

 昨日は、低冷房の市民会館で、汗を流しながらの聴講でした。テレビで、家康が取り上げられているそうですが、テレビを置かないわが家は、史実通りに描かれているのかが気になります。裏切り、謀反、寝返りのあった世を、家康が天下人に上り詰めたのには、驚きを隠し得ません。隣の小山市では、「評定(ひょうじょう)」があって、会津攻めをやめ、関ヶ原の戦いに、家康が向かっています。歴史のなかの人間模様が興味深くてなりません。

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