せんせい あのね

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 「一年一組 せんせい あのね(鹿島和夫、灰谷健次郎著/理論社)」を、市立図書館から借り出して読んでみました。神戸の小学校の一年生と担任の先生との詩による「あのね帳(交換日記)」が交わされた記録が記されています。

 その小学校は、chemical shoes などのゴム加工製品を作る町工場地帯にあって、朝鮮半島から移住してきた家庭の子どもたちが通学している学域にあります(関西淡路大震災の被災でよく報道された地域です)。それで民族的な問題、差別などの中で子どもたちが生活し、学んでいるのです。

 父に従って東京に引っ越した後、住んだ街に、朝鮮半島から移り住んだみなさんたちの住んでいる一廓がありました。貧しい家庭が多く、まれに豊かな家庭があって、焼肉屋、パチンコ店、廃品回収などを生業にして、たくましく生きていたのです。それを「バタ屋」と呼んでいて、初めて聞いた私は、butter を買いに、弁当箱を持って、級友の女の子の家を訪ねたほどでした。

 同じ肌の色をし、同じ顔貌なのに、みなさんは蔑視されていたのです。子どもたちには、大人の事情や経緯などはお構なしで、一緒に嬉々として遊んでいたのですが、大人に感化されて、差別を持ち込んでは、戯れ歌、侮蔑の歌まで歌っている子もいました。

 鹿島和夫さんは、その地域の小学校の11組を担任されていて、子どもたちと「あのね帳(交換日記)」のやり取りを始め、みんなが作った詩に応答して、交流を図っていたのです。子どもたちの心から、さまざまな思いを汲み出そうとしたのです。

 私たちの世代には、無着成恭氏が、生活綴り方教室を、山形県の山村の本沢村の学校で始めて、その戦後教育の特徴ある作文指導をされ、注目されていました。

 この先生の鹿島和夫は、子どもたちの現実と教師の指導の限界との 越えられない溝を指摘しています。そこにある貧困、それによる様々な問題、日本人から受ける差別などは、今にまで及んでいるのです。対日感情の好ましくない原因は、日本の過去の長い年月の支配と差別があったのでしょう。

 そんな工場街に住んで、心を閉ざした、よしむらせいてつ君のことが取り上げられています。こんな詩を書いています。

     かい

耳にかいをあてるとうみの音がききえた

かいにはうみがはいっとんかな

うみにずっとすんどったから

うみの音がしみこんでいる

うみはかいにいのちをあげたんかな

      おつきさま

おつきさまは

あんなにちいさいのに

せかいじゅうにみえる

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 『子どもを画一的にワクのなかにはめこまないで、のびのびと発言し行動させ、そんな中で自由に考え合うことが、ぼくの学級づくりの基本だった。』と、鹿島和夫は言います。初めて会った時から避けて顔を合わそうとしない、人見知りをするせいてつ君は、交換日記をするごとに、こんな素敵な詩を書くようになったそうです。

 このせいてつ君がいて、その影響で、級友のあけみちゃんが変わっていくのです。次の詩を読んでみてください。

    ちょうせんご

ちょうせんごで

おかあさんは オモニといいます

おとうさんは アポジといいます

いもうとのことは ヨドムセンといいます

わたしのなまえは イイメンミで

みよちゃんは イイミディです

おとうさんのおかあさんは ハンメといいます

ハンメはわたしが3さいのとき

しんでしまいました

がっこうのせんせいはソンセンニンです

わたしはにほんごでいうほうがすきです

ミデミンメというきとばは

ハイベハンメがいるときだけつかっています

 こんなことを書けるようになったのです。そのあけみちゃんがいることで、せいてつ君が、また変わったのだそうです。

 子どもの心の中でも、人種差別の歴史は、如実に表されているのですが、教育者の偏見のない目と接し方が、傷ついた心の現実を癒していったのでしょう。でも帰って行く家の生活の現実は厳しかったのです。けっきょく、両親の家出、祖父母に育てられたせいてつ君は、祖父に、「あのね帳」の入っていたランドセルを川に捨てられてしまいます。その後、養護施設に入るのです。

 7歳の幼い子どもの人生の過酷さに、教師のできる限界を、鹿島和夫は痛切に覚えるのです。でも、「いい先生」のいたことは、せいてつ君の一生に、よい影響を与えたに違いないと思うのです。

 同級生にナガシマ君がいました。「オランダ屋敷」に住んでいると聞いて、彼について行って見たことがありますが、そこはオンボロ屋敷でした。雨が降ると、弟と2人休んでいました。さしていた破傘が使えなくなったからです。彼とは一緒に廊下に立たされた仲間でした。いまだに、彼のことも、そしてせいてつ君のことも気になってしまいます。

(神戸市で作られるケミカルサンダルです)

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