終戦の日に、満八ヶ月だった私は、前年の十二月に生まれていましたから、あの戦争の記憶はありません。ただ、軍需工場の責任を負っていた父は、軍からの支給で、一家を養っていました。ですから生まれてきた私のための産湯の盥(たらい)も産衣も、寝具も、それで賄われていたことになります。
ですから戦争と自分とは無関係ではなかったことになるのを、大きくなって理解したのです。中国大陸や東南アジア諸国に送られた戦闘機や爆撃機や特攻機には、父の掘り出した鉱石によって作られた防弾ガラスが、組み込まれていて、父の戦争責任を、少しずつ感じ始めたようです。兄たちや弟には、そんな思いはあったのでしょうか。
戦時下の外地で、どんな蛮行が繰り返されたかを知るにつけ、とくに大陸に対する、責任を感じられるようになるのです。「真空地帯」とか、「二等兵物語」などの映画を観たり、戦争物の小説などを読むに連れて、その思いは、心の底で大きくなっていったようです。
私が、2007年の夏から過ごした華南の街の郊外にも、日本軍が海岸から上陸し、飛行場を整備したのだそうです。その街に住み始めた頃には、大きなバスターミナルに、転用されていました。そして、近隣の井戸に毒を投げ込まれたことがあった、と地元の人に聞いたりしたのです。日本語の学びのために、わが家に来ていた若者の家に招かれた時に、彼のおばあちゃんは、江蘇省の農村の出で、日本軍の放った村の火事で、腕に大きな火傷を負ったのを知らされました。無理を言って見せていただいたのです。そして、私は心からのお詫びをしたのでした。
そのことのためにも、そんな戦争責任のお詫びをするようにと、中国に導かれたのだと思わされたのです。私の授業に出ていた学生のみなさんは、『先生と日本軍の侵略とは無関係です。あれは過去に、軍隊が犯したことですから!』と、言ってくれましたが、その街の大きな河川の脇の1kmほどの石板には、その街の歴史が刻まれ、その中に、『日本軍の爆撃により、300人余りの戦死者出る!』とありました。それは過去の悲しい記録だったのです。
私が、大学の先生たちの集いの中で、証しを頼まれたことがありました。その時に、軍需産業に従事した父の戦争責任、幼児の私のミルクも産衣も軍からの支給であったことなどを話をしたのです。そして返さなければ負債を感じたことが、中国に来た一つのおおきな動機付けだと言いました。それに感動された方たちが、近寄ってきて握手を求めてきたのです。100人近い先生たちの中には、彼らの父や祖父や親族に、日本軍の侵攻の被害者だっておいでだったに違いないのです。
福音宣教のためだけではなく、そう言った謝罪の務めもあって、過ごした隣国での13年は、主が設けてくださった機会だったと思い至り、ただ主に感謝をしているのです。父は、私たちが献身する前に、中国に行く前に、すでに天に帰っていきましたから、私たちの過ごした年月や出来事は知らないままでした。
終戦78年の今日も、世界中では、国と国との戦争があり、民族間の対立が、そこかしこにあります。中国本土と台湾、沖縄との間で、何かが起こりそうな迫りを感じます。大陸の多くの若者たちが兵士になるように招かれていると、先日おいでの訪問客から聞きました。台湾に接する地では、戦争準備がなされているようです。両岸の交流を叫んでいた口が渇く前に、睨み合いになっています。
冷静になって、何が起こるにかを見極めなければならない時が来ています。どうしても、次の聖書の言葉が思い出されて参ります。
『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(マタイ24章6~12節)』
「必ず起こること」、避け難い時を、この時代に生きる私たちは迎えるのです。そのために私たちに必要なのは、〈慌てないこと〉です。78年目の8月15日、「終戦の日」に、そんなことを思いました。
(戦時に飛んだ気宇撃機、石英の結晶です)
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