「甘え」の体験

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 1971年に刊行された「甘えの構造」は日本と日本人を理解するための教科書のように、一時、大変注目された著書でした。精神科医の土井健郎が書かれて、私を育ててくださった宣教師さんも、この翻訳本を読んでおいででした。八年間、身近にいた私の言動を見聞きしてこられたので、けっこう、「甘え」のsampleとして納得していたのではないかと思っています。もちろん、私も読んでいた一書です。

 病弱な子への二親からの過度な愛情で育てられると、甘やかされたのです。父は、死にそうな中から生き返った私のために、国立病院に入院中に、曽祖父がロンドンから買って来た純毛の毛布を、父の生家に取りに行って、夜具にして使わせてくれました。退院後、〈寝台〉を作らせて寝かせてくれ、兄二人と弟と、違った西洋式な生活をさせてくれたのです。

 また病後の回復のために、住んでいた村の農家から「ヤギの乳」を、兄たちにとりに行かせて、母が沸かしてくれて飲んだり、瓶詰め〈バター〉を取り寄せては、好きな時に、好きなだけ舐めるのを許してくれました。兄たちと弟は、指を舐めていて、時々は闇舐めをしていたのでしょう。

 小学校入学前には、日本橋の三越に、制服、制帽、編み上げの制靴を特注で作らせて用意してくれたのです。ところが肺炎に罹って、街の病院に入院してしまいました。それで入学式には出られず、一学期は学校に行った記憶のないまま、東京の街に引っ越して、転校してしまったのです。

 特別扱いの三男坊主は、わがままになって、その我慢の緒を切った父に、こっぴどく叱られたのを境に、変えられたのです。それ以来、悪戯をしたり、我儘をすると家を出され、家に入れてもらえないことが、何度もありました。お勝手の三和土(たたき)の上に膝をついて、母の盛ってくれた味噌丼飯をかき込んで家を走り出て、野天の林の間や、貨物の貨車の車掌室に入り込んで、夜を明かしたりしたりしたのです。王子さまから乞食への転落でした。拳骨も父からもらうようにもなったのです。

 父も母も、このまま我儘にさせてしまったら、使い物にならない人間になってしまうと思ったのでしょう、それで厳しく取り扱うようになったのです。自分としては、《愛された経験》、〈甘やかされた経験〉を、今でも宝物のように思い返しているのです。それは兄弟との比較ではなく、死に損ないを、死なせまいとして愛してくれた《愛》の証だからです。

 愛にも鞭が似合うのででょうか、愛するが故に、父は私に、目に見えない口頭の鞭を、拳骨も加えて振るったのでしょう。今になって、それを感謝しているのです。兄たち二人は街の中学校で学んだのですが、私を、大正デモクラシーの盛んな時期に開校された、私立中学校に入れてくれたのです。

 父の同僚たちから勧められたのか、父自身が、旧制の県立中学校から、東京の私立中学に転校して学んだからでしょうか、名のある創立者の私立中学に通わせてくれたのです。思春期挫折症候群と言えるのでしょうか、うまく乗り越えられなかった中2頃からの一年半ほどの間は、実に荒れていた時期がありました。殴りかかって喧嘩を挑み、盗みだってしたり、電車の車掌室に入って開閉器を操作したり、駅でも窃盗をしたり、学校の備品やパン置き場から失敬して食べたり、運動クラブの部室荒らしもしたでしょうか。まあちょっと足と手の二十の指では数えられないほど不始末をしたのです。
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 ところが〈厳重注意〉で、警察への通告、停学や放校など処分なしで、家裁送りもありませんでした。中3の最後の学年通信簿に、『よく立ち直りました!』と担任が書いてくれたのです。ある時、自分がひどいことをしでかした、その学校を見せたくて、中学生で留学を考えて準備中の上の息子を連れて、母校訪問をしたのです。すでに校長になっていた担任が息子を見て、『キミは大丈夫そうだね!』と、意味深なことを息子に言ったのです。ただニヤニヤの私でした。

 退学になった同級生がいたのに、『どうして俺を退学処分にしなかったのですか?』と聞くに聞けなく、その時学校を後にしました。そんなこんなで、先日、〈開校百年記念〉の募金がありました。わずかな年金で生活している今ですが、ちょっとまとまった金額を、反記念な過去しか持たないので、懺悔の気持ちで、匿名扱いを願って送金しました。

 そうしましたら、創立記念の切手2枚が贈呈され、来年には、記念品を贈ると言ってきました。学校には、もう当時教えてくださった先生たちはいないという理由で、自分の内側の始末を、そう言った形でしたわけです。ちょっと、悔い改めには、相応しくなく、足りなさそそうですが、精一杯の想いの表現なのです。

 そんな裏話も、もう時効でしょうか、そんな母校の担任の同僚の先生の紹介で、研究所に入り、私立女子校に就職でき、教員になったのです。それには担任も驚きだったのでしょう。しかも、伝道の道に進んだ頃ですが、その転身を知った担任が、『そうですか、キミもお母さんの道を行くのですか!』と、感謝の便りの返信で、そう言ってくれました。

 あの時、退学され、家裁や鑑別所送りにされ、少年院に送られていたら、高倉健は演技でヤクザを演じただけですが、自分は、歴(れっき)とした裏社会の極道に堕ちていただろうかと、震えながら思い出すのです。

 それででしょうか、今も、《赦された罪人》を自認している自分なのです。今回家内の見舞いに来てくれた中国の方から、一緒に教会生活をしていた兄弟が、『今刑務所に入っています!』と知らされました。彼が大事にしていた清時代の骨董の鍵をくれたことがあって、大切に保管してあります。

 刑務所に入り損なった自分と、現に入所中のこの方と、何が違うのでしょうか。世の中を、「甘え」で生きてきた、いえ、正確に言うと、《神の憐れみ》で、方向を変えられて生きてきた私は、彼の出所後のことを考えています。奥さんと二人で、田舎から出て来て、一生懸命働いて、息子さんとお嬢さんを大学にあげ、この子さんたちは、社会人として活躍しているのだそうです。何か間違いがあったのでしょう。彼も「甘え」た一人なのでしょうか。でも主は、憐れみ深いお方なのです。

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 「甘え」と言うことばは、「甘い」とか「甘み」「甘い物」と、「得る」に分解できるそうで、「甘える」は、糖質の高い饅頭やチョコレートなどを手に入れる、『手に入れたい!』と言う行為と似ているのでしょう。

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