木や草や紙の素材で

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 木、草、紙、藁などが用いられた、日本の家屋ほど、簡素で、自然に調和し、そこからの産物を用いた住環境は、世界に類を見ない優れたものだと言えます。隣国で過ごして帰国した時に、弟や友人の家に迎えられ、その障子から射し込む柔くて含むような光、畳み表の井草のなんとも言えない匂い、木の床の足の感触は、父が育ててくれた家を思い出させてくれ、なんともホッとさせられたのです。

 それらは、独特な雰囲気をかもし出し、日本的な文化や伝統の中に溶け込んだ感触や匂いや光でした。

 子どもの頃、わが家へは、道路の脇を流れる小川に架かった木橋を渡って庭に入りました。木製の戸を開けて玄関に入り、廊下を渡って、木と紙でできた「障子」を開けて、井草と布で作られた畳の敷かれた部屋に入り、木と紙で作られた襖(ふすま)を開けて、わた布団を出して、畳の家に敷いて寝ました。今頃は、蚊帳が吊られてありました。

 床の間があって、そこに鹿の角や水晶の結晶や掛け軸が、置かれてありました。着替えや布団は押入れに収め、地の産する野菜、海で取れる魚類、牧草を食べた牛の肉、麩(ふすま)で育てられた豚の肉で、おかずを母が作ってくれました。木で作られた椀に、大豆で作られた味噌汁を注ぎ、木や炭で炊いた御飯を木の箸で食べて、夕餉を木製の食卓を家族で囲んでとりました。夕べには、木で作られた風呂桶に、井戸からポンプで汲み上げた水を張り、薪を燃料に湯を沸かし、木の桶で湯を取って使い、ほとんど毎日入浴をしました。

 母は、綿と布で作られた布団を畳の上に敷いてくれ、同じようにしてできた上掛けを掛けてくれ、蕎麦殻で作られた枕で就寝しました。毎年、五月五日の頃には、家の親柱に、背丈を兄が刻んでくれたのです。歌の文句のようですが、出雲の田舎から祖母が送ってくれたチマキも、毎年食べました。家の外壁も木の板、かろうじて屋根だけは、トタンでした。

 ところが、今や、私の周りは石油原料の製品ばかりになってしまいました。食べ物も、化学的な調味料や添加物の入った食べ物だらけです。人工的で加工された物ばかりで、命の危険が叫ばれています。そう、《自然に帰れ!》の時代がやってきています。それで、organic なものを、人は求めるようになってきました。わが家でも、買い物をする時、organic な物、添加物に入らない物、化学的殺虫剤や消毒液を使ってない物を買うことにしています。

 好きなチーズも、原乳と塩だけの物を探して食べています。安い原材料で、短時間に製造できるものに取って変わってしまい、危うい物だらけになってしまいました。排気ガスで空気を汚す車の所有をやめ、運転もやめ、20インチタイヤの自転車に乗って、どこまでも出掛けるようになって、〈一石三鳥〉で、原始の生活に一歩、二歩と戻っているようです。

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 今日は、市民大学の講座があって、わが家の傍を流れる巴波川が、江戸の木場あたりを往復しただけではなく、渡瀬川、利根川を上り下りしながら銚子との間を往復していたそうです。行きには、麻糸を積んで運んだ便があったのです。それが魚網のために用いられ、粟野(現在の鹿沼市になります)で栽培された「野州麻」で作った糸を運び下ったのです。帰りの船で、乾燥した鰯を運び上ったのです。それを麻の栽培のための肥料として用いられたようです。

 そう言った流通が行われていたことを知って、なお一層住む街の歴史を知ることができて、嬉しくなってしまいました。江戸に行くには、川の渡しを少なくして、足止めにならないようなルートがあって、小山、野木、栗橋、千住といった、いわば裏街道を、多くの人が利用していたのだそうです。そんな講義を聞いて、また、そこかしこと訪ねてみたくなってしまいました。

( 高瀬舟、麻糸、粟野の麻の刈り入れ作業です)

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