キラキラとして

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 わたしは、いわゆる「鉄ちゃん(鉄道趣味人の愛称で30ほどのグループ分けがあるそうですね!)」ではありませんが、だれもが、知らない街を訪ねたいと言う思いに駆られることがしばしばあるのです。車を運転してではなく、鉄路の上を走る電車や、峠道を越えて行くバスなど、できれば馬車や牛車に乗って、ぶらりと出歩きたい願いがあります。どうも放浪癖や逃亡癖があるのかも知れません。

 香港の九龍駅から北京までの列車に乗ったことありました。 国情が変わってしまい、今は昔と言ったところです。2006年の8月の終わりのことでした。ブラジルやイギリスやアメリカからの若者たちに混じって、天津で中国語を学ぶためにでした。車窓から見えたのは、ずっとコウリャン畑だったように感じたのです(夜半は寝ていましたが)。その広大さは、アメリカ合衆国のワシントン州からモンタナ州を訪ねた時と同じような感覚でした。

 いつかは、アメリカ大陸を東西に走る大陸横断列車に乗ってと思っていましたが、家内の二人の姉が帰天しおり、南東部の街を訪ねる機会がなくなってしまいましたので、さらに難しそうですね。” Pacific Rail way “ でロッキー山脈を越えたら、どんな気分になるか、想像を逞しくしていた時もありました。

 父の家の近くに、駅や踏切や貨物の受けおろしの引っ込み線があり、また、国鉄職員住宅、それに、一番楽しかったのは「保線区」があったことでした。主に夜間、列車運行のない時間帯に、鉄路の保守点検や修理、レールや枕木やバラスト(レールに台座の枕木と枕木の間に置かれた小石のことです)の交換などの仕事をしていた、縁の下の力持ち、影武者のような役割を果たす支所があったことでしょうか。

 その作業場には、キチンと整頓して置かれていた道具や工具や部品やカンテラなどがあって、それを触らせてくれたのです。駅でも保線区でも、当時は灯りには、カーバイトから出るガスを燃やしていたので、その残りカスをもらって、小川に入れると、モクモクと白い煙を出して、魚が浮いてしまうので、それを使って魚取りもしました。あの油っ臭い匂い、カーバイトの匂い、鉄の感触が、男の子の冒険心をくすぐってくれたのでしょう。

 乗ったり、見たり、撮ったり、集めたりするようなmania にはなりませんでしたが、陰で、列車の運行を支えている部門を知ったのは、何かすごい宝物体験のような気持ちにされています。仲のよかった、一緒に立たされ坊主になったのですが、立ったまま家に帰ってしまい、呼びに行ったことがあるM君は、国鉄職員のお父さんの転勤で、どこかに転校してしまったままでいます。きっと、「蛙(かわず)の子は蛙」で、国鉄職員をして、ひ孫の産まれるのを待っているかも知れません。

 栃木県下に、「真岡鐵道(もおか)」があるのです。JR水戸線の下館駅と茂木(もてぎ)駅間を繋ぐ鉄道です。下館駅からは、関東鉄道常総線でJR常磐線の取手駅まで行くことができます。「乗り鉄」ではありませんが、いつか栃木駅から両毛線で小山駅に行き、そこから水戸線に乗り換えて下館駅で降りて、真岡鐵道で茂木駅まで行って、帰りは、真岡駅まで戻って、そこからバスで宇都宮線の石橋駅に出て、そこから小山、栃木と帰って来る計画があります。来春、桜の季節が、沿線は綺麗なのだそうです。

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 そう言えば、駅員用に「diagramダイヤグラム」があって、複雑な線を読んで、駅と駅の間の運行が決められていたのです。それも見せていただいたことがありました。交通公社発刊の「時刻表」よりも100倍も面白くて、見入っていたこともあります。西武線の駅に停まってる電車の開閉スイッチに触れて、開閉器を動かしたら、ドアーが開いて、閉まったのです。『シマッタ!』と、驚き戸惑ったのですが遅かったのです。知らん顔をして済ませて、怒られませんでした。中学生の時だったのです。

 男っぽく動く機関車は、昔も今も、子どもの憧れの的なのでしょう。下今市の機関区から出た機関車に引かれる展望車に乗っている子どもたちの目が、保線区の工具や備品を眺めていたわたしと同じようにキラキラ輝いていました。

(「デゴイチD51」の機関車、「中央線のダイアグラム」です)

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