ふるさとを想う

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 作詞が山口洋子、作曲が平尾昌晃の「ふるさと」を耳にしたのは、長男が産まれた翌年の1973年でした。私のふるさとに、宣教師のお供で帰って来ていました。私が産まれたのは、後に町村合併した山深い村だったのです。

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが
荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が
日暮りゃ恋しく なるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で
妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに
仔馬は集い 鳥はなく

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを
待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは
杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば
月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと
想い出します 囲炉裏ばた

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

 兄たちが八十代、弟と私が七十代後半、父が召されたのが六十一歳でしたから、《これからの親孝行》ができずに、父を天の御国に送ってしまいました。ゲンコツをもらい、小遣いをもらい、restaurant に連れて行ってもらった子どもの頃、長じてから教育を受けさせてもらい、財産は、小さな家を残しただけの人で、太く短い一生でした。

 でも、父の大きさ、何でも知ってる、恰幅やカッコのよさ、教育を受けさせてくれたことなどは、子どもの私の誇りでした。故郷は、やはり、人を抜きにしては語れないのではないでしょうか。大平山を越え、群馬の赤城山、埼玉の秩父山地、信州に連なる山また山を越えたあたりに、私の生まれた山村があるのです。

 石英採掘の仕事を任されて、山形からでしょうか、軍命で転勤になったのでしょう、三十代初めに赴いた地で、私と弟が生まれました。父の仕事に関わった方でしょうか、父だけではなく、私の名前を覚えていた方と、その村の宿泊施設で、偶然会って、あちらも、こちらも驚いて見つめ合ったことがありました。

 自分を覚えていた方がいたら、そこが故郷なのでしょうけど、父の世代の方でしたから、もうとうにお亡くなりになっていらっしゃることで、縁者は皆無です。とすると、小学校時代を過ごした街こそが、「ふるさと」と呼べるのでしょうか。ウサギを追ったことはありませんが、ヤマメの魚影を見たり、ハヤを捕まえたり、トンボやホタルを追ったりしたことも、栗やイチゴやイチジクやドドメ(桑の実)を積んだこともあります。

 夕日を見たり、墜落した米軍機の破片を見付けて持ち帰ったり、怖い場面を見たり、祭りの囃子に誘われて、小屋掛のチャンバラ劇の舞台を見たり、カンテラの灯りのもとでヨウヨウをつり落としたり、綿飴を買って頬張ったり、たい焼きを買ったりしたのです。

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 街のおじさんたちの仕事っぷりを眺めたり、桶屋のヒノキのカンナっくずに鼻を当ててかいだり、電車の踏切の遮断器の上げ下げに手をそわせてもらったり、保線区の工具を触ったり、バタ屋のおじさんの手伝いで小川に入って鉄屑を拾ったりしました。かくれんぼ、鬼ゴッっこ、宝島、馬乗り、馬跳び、メンコ、ベー駒、三角ベース野球、防空壕跡の探検、貝塚で土器の破片や鏃を拾ったりしたのです。

 遠ざかっていく様で、寂しい思いがありますが、《永遠のふるさと》が、私にはあるのです。

 『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル1116節)』

 ペンネーム「寄留者」の私にとって、ここへの帰郷こそが、私の旅の終点です。セピア色になり、うすはかなくなった地上のふるさとは見えなくなりますが、この私を迎えてくれる「永遠の都」が待っていてくれます。ここへの憧れに浸る今なのです。

(石英の原石です)

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死に損ないの生き様

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 『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(ルカ2343節)』

 自分は、《死に損ない》だと思ってきました。いえ、死のギリギリの瀬戸際で、何度も生還してきたからだと思います。肺炎を起こして入院、死線を彷徨いながらも、ペニシリンと諦めないで治療に努めてくださった医師、母の祈りと篤い介護で、死なずにすみました。高校2年の夏、台風接近の湯河原の吉浜の海で泳いでいて、強烈な潮の引く力に陸に戻れずに死を覚悟した時、波に運ばれて陸に打ち上げられました。二十歳の頃、アルバイトをしていた時、落雷のあった木の下に直前までいて、他の場所に移って、落雷を免れたのです。

 中部地方の盆地のマンションの二階に住んでいた1980年の7月、上階の家がガス爆発をして、住んでいたご婦人が亡くなられたのです。消防署の検査の折、『よく引火しないですみましたね!』と驚かれて言われ、ベランダの籠の中の小鳥も洗濯物も見えてしまって、窓ガラスが総崩れで吹き飛びました。家内のお腹には、そに翌月に出産を予定していた次男がいましたが、家内は爆発の瞬間の様子を、覚えていないで胎児への影響はありませんでした。私だけが砕け飛んだガラスの破片を頭に受け、外科医で30ほどの破片を取り除いてもらったのです。

 中央道を走行中、笹子トンネルを出て、諏訪方面をオーバースピードで走っていて、カーブの先、渋滞の車の制動灯の赤いランプが見えて、急ブレーキを踏んだのですが、間に合いそうにありませんでした。速度違反の追突しそうな私の車は、前車の20cmほどで止まったのです。その前の週に、新しいタイヤの交換をしてなかったら、玉突きをして死傷事項を起こし、自分も追突死は免れなかったことでしょう。

 まさに、『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。(哀歌322節)』、何度も死なずに、今日まで生き続けてきたのには、「神の恵みと憐れみ」があっただけで、ずいぶんと thrilling な生を生きてきたのでしょうか。

 すでに両親も帰天し、お世話し、教えてくださった宣教師のみなさんも、主の安息の中に帰えられ、同世代の中にも、既に召された方が何人もおいでです。死別を繰り返し、病者を見舞い、お亡くなりになられたみなさんの告別の式を司り、今日を迎えています。

 華南の漁村、東シナ海を遥かに見下ろす小高い丘の上に、知人がご両親のために作られた墓があります。そこに、家内と私も、亡くなったら、遺骨を葬ってくださるとおっしゃってくれています。でも、私は、「散骨」にしてもらえる様に言ってあります。

 生まれてきた私たちは、必ず死を迎えるわけです。私は聖書を読んできて、説教をさせていただいてきて、死には、「二つの死」があると信じています。一つは、「肉体の死」、もう一つは「永遠の死」です。やがて死んだ全ての人が、神の前に立ちます。自らが罪人であることを認め悔い改めて、その罪を悔いて、神の御子イエスさまが十字架の上で、その罪の身代わりに死んでくださったと信じるなら、その人に約束されたこと、赦しと、子とされ、義とされ、聖とされ、やがて栄光化されるのです。

 それと並行して、信じた者には、『父の前で弁護する方・・・義なるイエス・キリスト(1ヨハネ21節)』がいてくださると聖書にあります。宣教師のみなさんは、『自分が生きている間に、主の再臨があり、私は《空中軽挙(1テサロニケ417節)》されたい!』とおっしゃって、その望みを強烈に持っておいででした。果たして、私の時代に、主は空中に再臨してくださるでしょうか。神のことされた方たちは、次のように言っています。

  『蝶はせまってくる死にいささかもうろたえない。自分が生まれてきた目的ははたし終わった。そして今やただひとつの目的は死ぬことである。だから、トウモロコシの茎の上で、太陽の最後のぬくもりを浴びながら待っているのだ。(フォレスト・カーター「リトル・トリー」)』

 『老いゆけよ、我と共に!最善はこれからだ。人生の最後、そのために最初も造られたのだ。我らの時は聖手の中にあり。神言い給う。すべてをわたしが計画した。青年はただその半ばを示すのみ。神にゆだねよ。すべてをみよ。しかし恐れるな!と。(ロバート・ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」より)』

 蝶ではないし、青年でもありませんが、残された日々を数えながら、今までの全てを感謝しながら、今を生きるように努めています。

(「キートンのキリスト講座」からです)

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長崎県

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 対馬海峡に壱岐(いき)島があります。長崎県の島嶼部になります。24000人ほどの人口があり、島の周辺に小さな島が多くあるのです。日本の古書の「古事記」や「魏志倭人伝」にも出てくる島で、律令制の下では、「壱岐国」と呼ばれていました。江戸期には、平戸藩の統治の下にあり、松浦氏の居城がありました。

 私の最初の職場に、父ほどの年齢で、この壱岐出身の上司がいました。よく連れ歩かれて、お供をしたことがありました。故郷の話は聞きませんでしたが、杉並の阿佐ヶ谷のlお庭に、タイサンボクの花が咲くと、枝を手折って、電車で持ってこられて、年配の女子職員(どこかの省庁で初めて女子部長になった経歴のある方でした)が職場の玄関に飾っていました。

 長崎県と聞きますと、いつもこの上司を思い出してしまいます。学校に行っていた時に、九州旅行をして、この長崎を訪ねたこともありました。原爆の爆心地の長崎市に参りました時に、平和祈念像を見ましたのが、1964年の夏でしたから、爆心地も、すでに綺麗に整備されていました。原爆投下当時の長崎の人口は、24万人ほどでしたが、およそ74000人が亡くなられているのです。

 戦争は、今も昔も、被害者の立場でも、加害者の立場でも、共に極めて悲惨なものであることを、心に銘記された長崎訪問でした。長崎から、平戸口という港町に行きました。そこは日本の鉄道の最西端の駅で、今ではJR線から、第三セクターの松浦鉄道会社の「たびら平戸口駅」になっています。そこから船で平戸に渡ったのですが、今では架橋されていて、橋で渡ることができているようです。


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 江戸期には、長崎の「出島」が、海外との貿易や文化のためにひらかれた唯一公認の港だったわけです。医学を学ぶためにも、商用のためにも、現代人の好きな旅でも、多くの人が全国からやって来て賑やかだったことでしょう。鎖国下の江戸期には、「西国への憧れ」があったのでしょうか、「ギヤマン」、「ボンタン」、「ジャガタラ」など、長崎にまつわる外来語が象徴する地であったようです。

 この平戸を舞台にした、江戸初期の悲しい物語りを歌った歌があり、小学生の頃によく聞きました。昭和14年(1939)10月に、作詞が梅木三郎 、作曲が佐々木俊一の「長崎物語」と言う歌が発表されたのです。

赤い花なら 曼珠沙華
オランダ屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる ジャガタラお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る
ララ 鐘が鳴る

坂の長崎 石だたみ
南京煙火に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が ああ流れ行く
ララ 流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ ジャガタラお春
サンタクルスの ああ鐘が鳴る
ララ 鐘が鳴る

 ここで歌われた、「ジャガタラお春」は、実在の人で、父親がイタリア人で、日本人のお母さんから生まれた子どもでした。現在のジャカルタにいたお春は、徳川川幕府による鎖国政策のために、帰国することが禁じられる中、望郷の念に駆られて書き送ったとされる「ジャガタラ文(ぶみ)」が残されています。明暦元年(1655)頃に、日本に届いたとされています。悲しい物語を残す点でも、長崎は、公式には、外国への唯一に窓口だったわけです。

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 長崎県は、県都は長崎市、県花は雲仙ツツジ、県木はヒノキとツバキ、県鳥はオシドリで、人口は128万人です。古代には栄えた地で、県下に500もの古墳を残しています。律令制下では肥前国、対馬国、壱岐国で、国府は備前佐賀にありました。県下の五島列島は、大陸との行き来の寄港地で、遣隋使、遣唐使の船が寄港した歴史があります。

 上海から船で、大阪港までの航路で、あの上海港から船出して、最初に見える日本の地は、この五島列島でした。一昼夜、海ばかりだったのが、緑が濃い島影が見えた時は、『アッ、日本に帰ってきたんだ!』という思いが、やはりしてきたのを思い出します。カモメが飛んでいて、それも見えなくなり、飛び魚が船の脇を飛ぶ姿しか見えなかったのが、島影が見えてくるとホッとしたのが昨日のようです。
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 船には強い方ですが、何時でしたか、台風接近の中を、上海を出た船が前後に大きく揺れて、船酔いなどとは縁のない船員さんたちも酔ってしまったほどで、当然の様に自分も吐いてしまうほどでした。大会をゆく船など、木の葉と同じで、波に任せながらも、台風にはかないませんでした。

 私の母も、「ジャガタラお春」ではなく、「タイワンのおたか」になるところを、警察に保護されて、難を免れたことがあった、と聞きましたから、歌にはならない戦争前の危ない時代を生き抜いたのだと思います。さて、今日の長崎は雨でしょうか。

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楽しき生涯

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我の諂ふべき人なし(我に、取り入ろうとする人はいない)
我の組すべき党派なし(我に、派閥のようなものはない)
我の戴くべき僧侶なし(我に、上におしいただく僧侶はない)
我の維持すべき爵位なし(我に、維持すべき勲章はない)

我に事ふべきの神あり(我につかえるべき神あり)
我に愛すべきの国あり(我に愛すべき国あり)
我に救ふべきの人あり(我に救うべき人あり)
我に養ふべきの父母と妻子あり(我に養うべき父母と妻子あり)

四囲の山何ぞ青き(周りの山はなんと青く)
加茂の水何ぞ清き(加茂の水(信濃川の支流)はなんと清き)
空の星何ぞ高き(空の星はなんと高く)
朝の風何ぞ爽《さは》き(朝の風はなんと爽やかか)

一函の書に千古の智恵あり(ひと箱の書物に永久の知恵あり)
以て英雄と共に語るを得べし(もって、英雄とともに語る機会を得られる)
一茎の筆に奇異の力あり(一つの筆には力があり)
以て志を千載に述るを得べし(よって、志を千年述べ続けることができる)

我に友を容るゝの室あり(我に友を招く部屋があり)
我に情を綴るゝのペンあり(我に気持ちを綴るペンがあり)
炉辺団坐して時事を慨し (炬燵等に坐して時事を語り)
異域書を飛して孤独を慰む(海外なそどの本を読んで孤独を安らぐ)

翁は机に凭れ(おじいさんは机にもたれ)
媼は針にあり(おばあさんは針仕事)
婦は厨《くりや》に急《せ》はしく(主妻は炊事に忙しく)
児は万歳を舞ふ(子供は万歳をしている)

感謝して日光を迎へ(感謝して日光を迎え)
感謝して麁膳に対し(感謝して粗食を食べ)
感謝して天職を執り(感謝して天職を行い)
感謝して眠に就く (感謝して眠りに就く)

生を得る何ぞ楽しき(生きていることのなんと楽しきことか)
讃歌絶ゆる間なし(神への讃歌は絶えることがない)

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 この「楽しき生涯」は、内村鑑三、三十五歳の時の詩です。明治維新の七年前、万延二年(1861年)に、高崎藩江戸藩邸の長屋(江戸小石川)に、長男として生まれた人でした。藩邸にも長屋にも内村家にも、維新後に帰郷して住んだ高崎にも、神々が祀られ、街のそこかしこには神社仏閣がある中で生まれ育っています。 

 幼児期に父親から儒学を、十二で上州高崎の有馬英学校で英語を、東京の外国語学校でも英語を学んで、十七歳で札幌農学校に入学しています。神社の前を通ると、立ち止まっては拝礼するような若者でしたが、農学校のクラークから聖書を学んだ上級生から伝えられた神を信じ、明治10(1878年)に、アメリカ人宣教師ハリスを介して、札幌のキリスト教会で洗礼を受けています。

 鑑三の受けた教育、宗教的な影響力、十代後半での信仰覚醒、決断、回心には、「福音の力」が、どれほど大きかったかが伺えます。《2つのJ》、つまり《Jesus》と《Japan》への愛を、鑑三は掲げましたが、「日本人」への拘りはなく、日本精神でも日本魂もなく、「神の子」に的を得ていたのでしょう。神からの赦し、受容を感謝した生涯だったのです。

 それにしても、この当時の人の語彙力に、昭和戦時下に生まれ、戦後の平和教育を受けて育った私は、到底及びもつかない日本語力の違いに驚かされます。例えば「麁膳(そぜん)」など、辞書を引いても出て来ませんし、中国のサイトの「漢語辞書」で調べて出てくるほどで、現在では、「麁」は、「粗」に変えられて使われていいる様です。

 鑑三ですが、お父さんの宣之も、1882年になって洗礼を受け、晩年は東京下谷の教会で信仰生活をしています。弟も、子も信仰を継承しているのです。キリスト伝道の難しいと言われる日本、しかも明治期に、札幌でも、熊本でも、神戸でも、松江でも、弘前でも、そして多くの農山漁村でも、仏教や神道の感化を受けて来た日本人が、イエス・キリストを信じる者を産んできたのです。キリストの十字架の福音は、人を変えてきたことになります。

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間もなく年末です

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 「紅葉」の読み方ですが、<こうよう>ですが、“momiji”と入力すると<紅葉>と文字候補の中に出てきます。まさしく、「赤い花」ですが、どうしてこの漢字を、<もみじ>と読むのでしょうか。大言海という辞書に、『露や霜に揉み出(もみだ)されるから。』、そう呼ばれるのだとあるそうです。この様に、古代の日本人の造語能力には、恐れ入ります。日本で誕生した「大和言葉(倭語/やまとことば)には、興味が尽きません。

 季節の移ろいが、華南の街では、樹木の植生の変化によっては、感じることがなかなかできませんでした。ただ空気や水の冷ややかさによって感じたり、庭木の「椿」の花の開花で感じ取ることはできていたのです。名前は分からないのですが、木の花が、まだあちらこちらで咲いていましたが、もう間もなく12月になります。西洋暦の正月よりも、旧暦(農暦)の正月である「春節」を迎えることに、特別の思い入れを持つ、中国の人たちには、「年の瀬」の慌ただしさというのは感じられませんでした。

 この「春節」は、毎年、日にちが違うのに、まだ慣れなかったのを思い出します。「春節」を迎えたら、新しい服を着て、子どもたちは「お年玉」をもらったりする喜びがあるのでしょうが、やはり、「春の到来」を寿(ことほ)ぐ民族習慣と伝統は、二十一世紀になっても変わらない様です。

 私の文化的背景ですと、ケジメをつけて去っていく月と迎える年をはっきりするのでしょうか。迎える月は、忙(せわ)しなさや、差し迫った感じが満ちて、大人から子どもにまで、伝わってきて、過ぎていく「今年」を思い返して反省したり、新しく迎える「新年(正月に代表されるのでしょう)」を迎える準備をし、目標を立てていくのです。

 大晦日(おおみそか)を迎えるまで、母も様々な家事をしていました。障子やふすまの張替えや修復、特別に気の入った掃除、餅や正月料理の食材の購入、「おせち」作りなど、年末に入ると、繰り返していたのを思い出します。『醤油を買ってきて!』と言われて、家から跳び出して行ったこともありました。娘を持たなかった母でしたから、大変だったでしょうか。

 イタズラッ子で我が儘な割りには、幼い私は母を、よく手伝っていたのだそうです。母が、懐かしく小さな頃のことを感謝してくれたことがありました。どうして我が家では、正月にならないと、「お餅」を食べなかったのか、それ以外には食べた記憶がないのです。正月のお餅を、父の決めた寸法があって、その様に切った切れ端を、天日で乾かして、油で揚げて、醤油をジュとかけて、父が食べさせてくれたくらいでした。もっと普段にも、食べても良かったのに、それも父の家での習慣だったのでしょう。

 何だか、「師走(しわす)」が間近になっただけで、懐かしい年の瀬の息吹が押しかけて来そうです。と言うか「思い出」が蘇ってきているのでしょうか。

(冬に代表的な花「和水仙」です)

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身震いを感じるほどの

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 『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。(イザヤ544節)』

 生きていく術を教えていただいた宣教師さんから、よく言われたのは、『何をしたかではなく、何であったかが、人に問われるのです!』とい言うことでした。

 成功や成果こそが、人生の重要なことだ、との教えが、本屋にも社会にも満ち溢れています。キリスト教界にでさえ、〈成功の教え〉が取り込まれてしまっています。けっきょく人は何も持たないで生まれてきて、何も持たずに去っていくのですね。褒め言葉も褒章もtitleも、みんな置いていくわけです。

 恥じずに、私も生きようとしたつもりですが、多くの恥を残していくのでしょうか。時々、〈若かったころの恥〉が思い出されて、追い迫られることがありましたが、キリストの十字架は、私の罪も恥も、身代わりに負ってくださったことを信じて、無垢のようにされ、命からがら赦されたことを確信できたことは、感謝に尽きません。

 『数えてみよ主の恵み』と言う聖歌があります。どんなに素晴らしいことが、歌う人のこれまでの人生にあったかを『数えてみよ!』と歌いつつ感謝するのです。私は「憐れみ」の数々を思い出すので、これを数えることにしているのです。

 昨日、前橋の書店で、一冊の本を買いしました。戦時下、治安維持法違反で有罪となり、執行猶予付きの判決に服した、寺尾喜七氏の警察での尋問調書を掲載した、「知られなかった信仰者たち 耶蘇基督之新約教会への弾圧と寺尾喜七[尋問調書]」川口葉子、山口陽一著〈いのちのことば社〉」です。

 今、その本にある「調書」の箇所を読んでいるところです。この教会関係者の検挙に関わった立場の係官たちの様子を、次のように記しています。『刑事も警察関係の人々も、拘束して時たつとともに、容疑者をひそかに真の愛国者とほめ、次第に信者達を尊敬して寛大に取り扱った。中でも寺尾喜七氏をまことにえらい人と驚嘆していた。』とです。

 取調官を驚かせたほどの寺尾喜七氏は、信仰を捨てることをしないで、執行猶予で帰宅してから、自室に閉じこもって、聖書と讃美歌に四六時中親しみ、敗戦直後の1945924日、68歳で亡くなったと、この本は伝えています。

 美濃ミッションやホーリネス教会への迫害は、よく聞きましたが、こう言った信仰を持たれて、「非国民」と呼ばれて刑に服した「恥」を負いながらも、キリスト信仰を全された、《真の信仰者であったこと》に身震いを感じるほどであります。

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Nostalgieの上毛電鉄

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 お世話になった方のプレゼントを買いに、前橋に行ってきました。東京はコロナ禍の直中なので、北関東唯一のクリスチャンブックストアーに行ったのです。お店の店長さんに、懐かしいサイダーをご馳走してもらいました。

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 JR両毛線に並走する様に、桐生と前橋を赤城山麓を行く路線で、両毛線の桐生駅からすぐの西桐生駅から、往復割引切符を買って乗車したのです。木の改札口で、切符に昔ながらのハサミを入れってもらいました。つい『わー、懐かしいなあ!』と、改札嬢に言ってしまったのです。 

 地方には、nostalgie を掻き立てくれる風景や生活が残されているのですね。

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初冬の日の出

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 『 日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。──万軍の主は仰せられる── (マラキ111節)』

 戦争があっても、国境を隣国の軍隊が超えても、政権が揺らいでも、地震で地が揺らいでも、貧困児童がいても、少数民族が虐待されても、高齢者の自動車事故が頻発しても、銃が乱射されても、ガンに侵されても、ブログの変換ミスをしても、神はおられます。問題を起こすのは、いつも人間なのです。

 大自然、天然の世界には、賛美があふれています。陽の昇らない日はありません。遮る雲や問題や悩みで見えない時はありますが、毎朝、陽は昇り、日は巡って来ます。

 今日も、全世界で、神さまがほめたたえられますように!

(家内が撮った日の出です)

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山歩きの備え

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 最近聞いたところによりますと、「銃砲刀剣不法所持」の疑いで送検された方が、無罪判決を受けました。この一件は、公園の駐車場で、車内にいた時、防犯警戒中の警察官2名に職務質問を受け、『危ないものがないか確認させてください。』とのことだったそうです。その時、後部座席に置いてあった透明ケースの中に「ノコギリ」と「鎌」とがあって、これが銃刀法違反と判断され、送検されてしまったのです。

 昨年、『大平山にイノシシが出ますよ!」と言われて、ナタを買ったのです。散歩に出かける時に、ザックの中に入れて出かけていたのですが、この話を聞いてから、ナタなんて銃砲刀剣の類の中に入ることになるので、携行するのはやめにしたのです。もちろんきちんとケースに入れ、布で包んであっても、所持違反になります。

 この方も、きちんと刃を、危険のないように包んで、二重にケースに入れていたのに違反だったわけです。近辺の山中で、熊が出たというニュースは、この四年の間に聞いたことがありませんので、大丈夫かとも思うのです。2年ほど前に、「呼び子」のついた wristband を買ってくれたので、熊に出会って、クマったら、左腕の呼子を拭く訓練だけはしてあるのです。

 また、行き倒れだってありそうなので、以前、首にかける「迷子札」も買ってあるのです。そろそろ、猪が出没しそうな雰囲気になって来ましたので、首掛けを注意してみましたら、この紐の間に、whistle がついているではありませんか。襲われても、まだ息があったら、撃退音を上げるか、どなたか助けを呼ぶために吹けるといいのですが。

 以前は、山道に入って、すぐに藪の中に入って、木の枝を探して、杖代わりにしていたのですが、今は、しっかりした折りたたみ式の杖も手に入れて、装備が整っているのです。散歩に出るときには、『「イノシシ鍋」ができるように、担いで帰って来るね!』と家内に言い、『行って帰ります!』と言って出るのですが、まだ鍋食材には出会っていません。

 イノシシがやって来たら、さっと身を翻して仕舞えば、猛進する習性だそうで、突っ走って茂みの中に、転がり込んでしまうでしょうから、大丈夫です。でも〈熊が出たら〉を想定して、冬に向かって散歩装束を整えようと思っているのです。熊と会ってしまったら、一番いいのは、『音を出せ!』と言われましたので、金盥(かなだらい)がいいのですが、かさばってしまうので携行できませんから躊躇しています。

 そう、〈cracker(紐を引くと大きな爆発音のする代物)〉が、よさそうです。でも、とっさに、ポケットから出して、あの細い糸を弾けるかが問題です。人は山を捨てて里に下りたのですから、山は人間の領域ではなく、彼らに優先権があるわけです。でも、あの爪で引っ掻かれたくないのです。まあ謙虚な思いで、彼らの領域に入らせてもらうと思っている晩秋、初冬の夕べです。.

 

まだ咲き続ける花です

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 雨の朝です。昼前には上がるように、Weather News が伝えています.もう日の出の時間が、北関東では6時半頃になっているのですね。11月も下旬ですし、今週水曜日は「勤労感謝の日」です。

 初めてTurkey を食べたのが、今頃でした。色々と教えてくださったアメリカ人宣教師が、どなたかに頂いたのを〈おすそ分け〉で食べたのです。Thank Giving Day の定番で、アメリカ人の家庭では必須のテーブル料理なのです。何時かお腹いっぱい食べてみたいと思ったままの今です。 

 子どもたちがアメリカにいた時に、学校の近くのSUBWAY Tukey サンドを食べたのですが、American sizeを、家内が、『こんなに食べられないは!』と言ったのに反して、ペロリと平らげてしまったのに驚かされたこともあります。

 華南の街の銀座のような繁華街の一郭に、SUBWAY があって、家内を誘って何度か、市バスに乗って、食べに出掛けたのです。もちろんTurkey サンドを注文しました。近くに高中(高校)があって、高校生が大勢いて、たいそう景気良く注文して食べていました。細々のわれわれとは大違いでした。

 『何時かは!』と期しつつの雨の朝です。昨日撮ったベランダの花です。大好きなアサガオがまだ咲いています。ツメレンゲの小さな花が溢れています。

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