ふるさとを想う

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 作詞が山口洋子、作曲が平尾昌晃の「ふるさと」を耳にしたのは、長男が産まれた翌年の1973年でした。私のふるさとに、宣教師のお供で帰って来ていました。私が産まれたのは、後に町村合併した山深い村だったのです。

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが
荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が
日暮りゃ恋しく なるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で
妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに
仔馬は集い 鳥はなく

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを
待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは
杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば
月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと
想い出します 囲炉裏ばた

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

 兄たちが八十代、弟と私が七十代後半、父が召されたのが六十一歳でしたから、《これからの親孝行》ができずに、父を天の御国に送ってしまいました。ゲンコツをもらい、小遣いをもらい、restaurant に連れて行ってもらった子どもの頃、長じてから教育を受けさせてもらい、財産は、小さな家を残しただけの人で、太く短い一生でした。

 でも、父の大きさ、何でも知ってる、恰幅やカッコのよさ、教育を受けさせてくれたことなどは、子どもの私の誇りでした。故郷は、やはり、人を抜きにしては語れないのではないでしょうか。大平山を越え、群馬の赤城山、埼玉の秩父山地、信州に連なる山また山を越えたあたりに、私の生まれた山村があるのです。

 石英採掘の仕事を任されて、山形からでしょうか、軍命で転勤になったのでしょう、三十代初めに赴いた地で、私と弟が生まれました。父の仕事に関わった方でしょうか、父だけではなく、私の名前を覚えていた方と、その村の宿泊施設で、偶然会って、あちらも、こちらも驚いて見つめ合ったことがありました。

 自分を覚えていた方がいたら、そこが故郷なのでしょうけど、父の世代の方でしたから、もうとうにお亡くなりになっていらっしゃることで、縁者は皆無です。とすると、小学校時代を過ごした街こそが、「ふるさと」と呼べるのでしょうか。ウサギを追ったことはありませんが、ヤマメの魚影を見たり、ハヤを捕まえたり、トンボやホタルを追ったりしたことも、栗やイチゴやイチジクやドドメ(桑の実)を積んだこともあります。

 夕日を見たり、墜落した米軍機の破片を見付けて持ち帰ったり、怖い場面を見たり、祭りの囃子に誘われて、小屋掛のチャンバラ劇の舞台を見たり、カンテラの灯りのもとでヨウヨウをつり落としたり、綿飴を買って頬張ったり、たい焼きを買ったりしたのです。

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 街のおじさんたちの仕事っぷりを眺めたり、桶屋のヒノキのカンナっくずに鼻を当ててかいだり、電車の踏切の遮断器の上げ下げに手をそわせてもらったり、保線区の工具を触ったり、バタ屋のおじさんの手伝いで小川に入って鉄屑を拾ったりしました。かくれんぼ、鬼ゴッっこ、宝島、馬乗り、馬跳び、メンコ、ベー駒、三角ベース野球、防空壕跡の探検、貝塚で土器の破片や鏃を拾ったりしたのです。

 遠ざかっていく様で、寂しい思いがありますが、《永遠のふるさと》が、私にはあるのです。

 『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル1116節)』

 ペンネーム「寄留者」の私にとって、ここへの帰郷こそが、私の旅の終点です。セピア色になり、うすはかなくなった地上のふるさとは見えなくなりますが、この私を迎えてくれる「永遠の都」が待っていてくれます。ここへの憧れに浸る今なのです。

(石英の原石です)

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