詩人の辻征夫に、「まつおかさんの家 」という題の詩があります。
ランドセルしょった
六歳のぼく
学校へ行くとき
いつもまつおかさんちの前で
泣きたくなった
うちから 四軒さきの
小さな小さな家だったが
いつも そこから
ひきかえしたくなった
がまんして 泣かないで
学校へは行ったのだが
ランドセルしょった
六歳の弟
ぶかぶかの帽子かぶって
学校へ行くのを
窓から見ていた
ぼくは中学生だった
弟は
うつむいてのろのろ
歩いていたが
いきなり 大声で
泣きだした
まつおかさんちの前だった
ときどき
未知の場所へ
行こうとするとき
いまでも ぼくに
まつおかさんちがある
こころぼそさと かなしみが
いちどきに あふれてくる
ぼくは べつだん泣いたって
かまわないのだが
叫んだって いっこうに
かまわないのだがと
かんがえながら 黙って
とおりすぎる
松岡さんの家に、よく吠える犬がいたのでしょうか。それとも怖いお爺ちゃんが、家の前を通ると、彼らをにらんでいたのでしょうか、お兄ちゃんも弟も、通学路、しかも家の近くに「難関」があったようです。それでなくとも、初めての一人での登校で、気の弱い兄、そして弟が、同じような体験を、小学校一年時に繰り返したのです。
「初めての学校(幼稚園)」、「初めてのお使い」などは、多くの子は、ドキドキものなのでしょうね。私は、そう言ったドキドキ感とか、親と離れがたい経験とかがないのです。幼稚園などなかった山村に住んでいたので、幼稚園通いなどありませんでした。お遊戯とかブランコ遊びとか積木などで遊んだ経験もありませんでした。小学校の入学式にも、入院中で行けなかったのです。幼児教育の欠落です。
父が、靴から靴下、Yシャツ、帽子、制服からランドセルに上履き入れなど、全てを買い揃えてもらったのに、退院後に写真を撮っただけだったのです。東京に出て、時々、行った小学校では、家で甘やかされた<内弁慶>の私でしたが、それでも物怖じも、登校拒否はなかったのです。違った環境には、順応できたのでしょう。ですから、体調がよくて、たまに行く学校の教室に、同級生が何人もいるのが珍しくて、いたずらをしては、叱られていたのです。だから叱られ経験は溢れるほどにありました。
ですから私には、「まつおかさんの家」経験がないことになります。東京に出て来て住んだ街の近所に、守田さん、権藤さん、月下さんなどの家がありました。四十過ぎになってでしょうか、ある時、その隣近所の家の前を、市内のミニバスに乗って通過したのです。どなたも引っ越してしまっていた様です。思い出の中にだけ残っている風景になっていて、寂しい思いをしたのです。
華南の街で、幼稚園のそばに住んでいたことがありました。年度初めの登園風景をよく目にしたことがあります。泣きじゃくって、送ってきてくれたお父さんやお母さん、お爺ちゃんやおばあちゃんから離れられない子が、必ずいました。今でも、ぐずってる子がいそうですね。きっと自立の時期の早い欧米では、そんな光景は見られないのでしょうか。
で松岡兄弟は、どうなったのでしょうか。家に逃げ帰らないで、通り過ぎたのは偉かったですね。浅草生まれの彼が育ったのは、向島の「花街」と「鳩の街」の間でした。戦後の東京の復興の中を過ごした方なのでしょう。きっと小学生のお二人は、浅草から東武鉄道で大平下駅まで来て、大平山に遠足で来たこともあったのでしょうか。山にない浅草周辺の子供にとっての山は、大平山だったことでしょう。14歳で詩作を始めています。育ったのは東京の歓楽街でしたが、詩情を持った少年になって、教師をしながらの詩人として生涯を終えています。
(「向島」の古写真です)
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