中国の諺に、「死屍(しし)に鞭打つ」があります。故事熟語辞典によりますと、
『【由来】 「史記 伍子胥伝(ごししょでん)」に出てくる話から。紀元前六世紀、春秋時代の中国でのこと。楚(そ)の国に仕えていた伍子胥は、父と兄を楚の平王に殺され、亡命して呉(ご)という国に仕えることになりました。仇討ちのため、すぐにでも楚と戦いたかった伍子胥ですが、呉の国情が許さず、時機を待ち続けます。そして一六年後、呉軍を率いてついに楚へと攻め込んだ伍子胥は、都を占領。しかし、平王はすでに亡くなっていました。すると伍子胥は、平王の墓を暴き、「其尸(しかばね)を出し、之を鞭うつこと三百(その死体を引きずり出して、三〇〇回、鞭で打ち)」、積年の復讐の念を晴らします。しかし、その行為は旧友からでさえ、あまりにもひどいと非難されたのでした。』とあります。
当時、中国の指導的な地位にあった鄧小平は、日本を訪問しました。中国の経済を活性化した人でした。東京から京阪神圏への移動には、新幹線を利用したのです。『速い。とても速い! まるで後ろからムチで追い立てられているかのようだ。これこそ私たちが今、求めている速さだ!』と、1978年10月に乗車した時の印象を、驚きをもって、そう語りました。
大阪では、松下電器(Panasonic)創業者の松下幸之助と会見し、その工場を見学をしました。そして、中国の復興のための助力を、鄧小平は松下幸之助に依頼し、技術援助等の約束を交わしたのです。その甲斐あって、低迷していた中国の経済は、羽ばたくように復興を遂げていき、今日に至っています。
鄧小平は、自らを「小平xiao ping 」と名乗るほどに小躯でしたが、フランスの留学体験があったからでしょうか、華魂洋才(これは私の造語です)で、欧米諸国や日本の技術や know-how をうけ入れていきました。初めて私が中国に行きました時、広東省の省都の広東の街には、もう亡くなっていたのですが、その鄧小平の大きな写真の看板が、掲げられていました。若い人たちの思慕を、死しても得ていたのです。
在華中に聞いた話ですが、1997年2月に、北京で鄧小平が亡くなったのですが、遺言があったのだそうです。国家再建の貢献者ですから、丁重な葬儀や埋葬が行われてよかったのですが、遺体は「検体」にするように、自らは願ったのです。しかし娘の決断で、その遺灰は中国の領海に撒かれました。ですから、鄧小平の「墓」はないのです。彼や娘が恐れたのは、墓が暴かれて、死して亡骸が鞭打たれることで、それを避けたのでしょうか。
『十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23章39~43節)』
自分も、かつては、この犯罪者のように罪人でしたから、当然、永遠の死の刑罰に処せられるところ、神の憐れみによって、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることができたのです。たとえ病や事故で死んだとしてもも、「パラダイス」に行くことができ、永遠のいのちをいただけると確信しています。それは思い出してもらう以上の映えあることなのです。
だれも、私の亡骸を鞭打つことはないと思いますが、家内には、葬儀不要、遺骨不要、埋葬不要で遺灰にして、どこかの川か海に流して欲しいと伝えてあります。栄光の体に復活の望みがありますので、そう、お願いしてあります。
(「広州市のイラストです)