焼き鳥の味などを

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included meatball, grilled chicken with leeks, grilled liver.

 

 幼かった頃の子どもたちの写真が、今でも冷蔵庫や壁に掲げられてあります。あどけない表情は、良心への全幅の信頼に満ちて穏やかです。

 ツギを当てたズボンを履いたり、シャボン玉を膨らませ飛ばしたり、おんぶされていたり、お母さんのスカートを掴んでいたり、桜の下でに全員写真も、写真入れにはあることでしょう。

 まだ車を持てない頃、りんご箱を自転車の荷台につけて移動したり、オートバイに乗せたり、車が来て夏休みや正月休みには、いろいろなところに連れて行った時の写真もあります。

 子育ては、もう遠い昔の出来事のようになって、ちょっと色褪せた写真のように、記憶も薄れつつあります。

 新米の親をしていた街で、近所のお母さんたちが三、四人、アパートのわが家を見上げながら、越して来たばかりの親子の様子を、心配してくれていたこともありました。そのお母さんたちの子を集めて、公民館で、日曜学校をしたりしてたのです。

 あの子たちは、もう六十代になっているのでしょうか。話すことのできなかった静ちゃん、イタズラなトンちゃん、お転婆なマキちゃん、カッコつけの男の子もいました。『そう、もう六十か!』の今日ですが、彼らも何か思い出しているでしょうか。

 救急車を呼んだことも、大怪我も、手術も、入院もありました。道路工事でガス管が損傷してしまい、『シュー!』と漏れ出して、消防士の促しで避難したことも、上階の家のガス爆発で、命からがら助かったことも、すんでの自動車事故もあったのです。

 海水浴に行くのに、気持ちよく坂道を下っていたら、突然前方に躍り出た旗振りの警察官に停止させられ、丘の陰の机の上でキップを切られたこともありました。白バイを追尾して叱られたこともあったのです。子どもたちは、『お父さん、悪くないよね!』と同情してくれました。

 そう言えば、人を送る車が、カーブでドアーが開いてしまって、次男をこぼしてしまったことがありました。ルームミラーに、道路の上にに座っている姿を見て気づいたのです。大ごとにならなかったのも、神さまの憐れみでした。

 ラーメンを食べたことも、小僧寿しを買ってきたことも、サーティーワンのアイスクリームを食べたことも、ケンタッキーフライドチキンを食べ、コーラと焼き鳥の秘密バーティを開いたこともありました。そんなでみんな大きくなって、独立(でていって)しまいました。

 今や関東平野の北辺の街で、二人だけの生活になって、思い出すことの多い日々を送っているこの頃です。やっぱり自慢できる道のりではなく、恥多き一生だったのでしょう。でも、聖書に次のようにあります。

 『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。 (イザヤ544節)』

 これは、不実なイスラエルに送った神ことばですが、短気で欠点ばかりで顔を赤らめて、過去を思い出している今の私への神の憐れみでもありそうです。人の一生は、やり直せないところが、好いのかも知れません。秋の日を窓辺で浴びながら、巴波川の流れのほとりで、大平山の上に輝く陽を、穏やかに仰ぎ、来し方を懐かしんでいる、静かな秋の午後です。

 ええ、もちろん、孫たちの写真も、冷蔵庫に、磁石て貼り付けてあります。これからは進学、恋愛、就職、家庭建設と、いろいろな節目が待っていそうです。富士も、男体山も、筑波山も、まぢかな大平山も、秋景色の中に見え隠れしています。

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