自分で復讐してはいけません

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 少々怖いお話を、聖書から取り上げてみましょう。

 『彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕らえ、その手足の親指を切り取った。 すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。(士師157節)』

 これを「聖書的応報の原則」とか「蒔いた種の刈り取り」と名づけてみました。「手足の親指を切られる」と言うのは、手足が機能しなくなってしまうことになりますから、物を掴んだり、立ったり、歩いたり、走ったりすることが難しくなります。そんな仕打ちを受けたのが、アドニ・ゼデクでした。彼自身が、捕虜として捉えられた七十人の王にしたとおりに、その報いを受けて、親指を切り取られ、そして死んでしまったのです。

 〈人にした通りのことが返って来る!〉、これは因果を言っているのではありません。神に造られた人の尊厳を傷つけ、肉体をも損ない、その機能を失わせてしまう虐待に対する、造物主のなさることであります。蒔いた種が良ければ、良い収穫がありますし、その逆もまた真で、アドニ・ゼデキは、自分が七十人の王にしたとおりのことが、神によって〈報い〉として見舞われ、自分に帰ってきたことが分かったのです。    

 地上に悪が満ちる時、罪が満ちる時、神の忍耐を超えたことをし続けると、必ず報いを受けます。私は、人のことを悪く思ったり、憎んだりした時に、その直後に、包丁で指先を怪我したり、頭を壁にぶっつけたり、自転車から転んだり、病気になったりしたことと、関連させて納得して生きてきました。きっと神さまは、それ以上の罪を犯さないようないようにと、制御機能のスイッチを入れて働かせておいでなのでしょう。罰とは考えません。

 なぜなら、この神さまは、「忍耐の神」でいらっしゃるからです。よく警察が容疑者を捕まえないで、〈泳がせる〉ことがあるのですが、それに似ているかなあと、個人的に思っているのです。神さまは、見逃すのでも、猶予しているのでもなく、〈罪が満ちる時〉を、きっと待っておられるのでしょう。神さまが、“ Noのサイン、『これまで!』と決められる時、あのヒットラーは自害し、スターリンは脳卒中を起こし、金正日は急性心筋梗塞を起こし、アミンは多臓器不全で、チャウセスクはルーマニアの国民に処刑されて果てています。

 命の付与者は、だれでも生まれる時と死ぬ時を定めておいでです。突然死ぬのではありません。罪の結果死ぬのです。でも、自分の罪の身代わりになってくださった神の御子を、「キリスト」と心で信じ、口で告白するなら、永遠の命の救いをいただけるのです。パウロは斬首刑で、キリストの弟子のポリュカルポスは火炙り刑で、私の敬愛した宣教師は脳腫瘍で、もう一人の宣教師は前立腺癌で、父は脳溢血で死にましたが、キリスト者のいただく永遠の命を、これらのみなさんはいただいて死んでいかれたのです。

 私は、自分が〈赦された罪人〉だと自認しています。赦されるべきではないのに、神の憐れみと予定とによって、罪赦されのです。キリストが、私の身代わりに罪となられて、十字架に死なれたことによって、罪が処分されたのだと信じています。それで、神の子の身分をいただき、義と聖と、やがて栄光化される望みの中に入れていただいたと、信じているのです。

 『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 (ロマ1219節)』

 聖書は、復讐を禁じています。それは神さまだけがなさることだからなのです。だから、極悪人、人を人とも思わぬ者、独裁者、侵略者、虐待者たちの死を願うことは、決してしてはなりません。私たちができることは、彼らが悔い改めて、神に立ち返るように祈ることです。人には生きながらえている間中、救いの可能性は残されているからです。復讐は主に任せること、これが聖書の命令であります。

(キリスト教クリップアートのイラストです)

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