百万都市の江戸との関わり

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 東京で、最も活気のある所は、人の集まる渋谷駅前の立体交差点ではなく、物資流通、とりわけ海産物の流通が行われてきた「魚河岸」でしょうか。現在では、「築地」から「豊洲(豊洲)」に卸売市場が移転しておりますが、われわれの世代では、築地に思い入れがあるのです。東京都の広報によると、次のように、その歴史が記されてあります。

 「市」と呼ばれる物々交換の場でした。これを制度化したものが、今日の「市場」です。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸城内で働く多くの人々の食材を用意するため、大坂の佃村から漁師たちを呼び寄せて、幕府に魚を納めさせました。一方、漁師たちは獲れた魚の残りを日本橋のたもとで売るようになり、これが「魚河岸(魚市場)」と呼ばれていたことから、現在の東京都の市場の始まりとされています。

 ほぼ同じ頃に青果市場も自然発生的に形成されたと伝えられていて、「江戸八辻ヶ原(現在の神田須田町あたり)」で始まった青果市場を基として発展してきました。

 当時、世界で最も整備され、機能的にも優れた都市であった江戸の住民のために、「市場」を設け、食品の流通を図ろうとしたのです。首都機能を円滑に進めるためでした。海産物や蔬菜を、「競り」にかけたのです。「競売」とか「オークション」と言われるのですが、生産者と消費者を結ぶ役割としては、実に優れた方法なのです。

 私は、学校に行っていた時に、蔬菜と果物の市場で、東京最大の「神田市場」でアルバイトをしたことがありました。また都下にあった、「多摩青果」でも働いたことがあったのです。「競り」で落とした蔬菜を、競場から「仲卸商」の店に運ぶ仕事でした。活気と威勢があって、楽しく働くことができたのです。

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 この「競り」には、「符牒(ふちょう)」という、専門用語があって、数字や野菜名や作業指示などが、一般消費者に分からない様に、仲間内だけ、同業者間でだけ通じる様にしてあります。「競り」には、<手ヤリ>とか<口ヤリ>と言って、値段や個数を提示するのです。やはり独特な伝統社会です。

 その「魚河岸」を豊洲へ移転するについて、問題が露呈してしまって、紛糾していましたが、先年無事に移転しました。その「築地卸売市場」は、江戸の昔から、「魚河岸」と呼ばれてきました。『魚市場のある河岸の意で、日本橋にかけての河岸に魚河岸があったことに由来する。日本橋の魚市場は,慶長年間 (15961615) に開かれたとされ,幕府の特許を得た魚問屋が営業,江戸の隆盛とともに,本小田原町,本船町,安針町を中心として栄えた。』とあります。

 食べ物が取引されるのですから、新市場も、衛生上の安全が確保されて開業しているのです。荷受や荷運びをした市場には、生鮮品の匂いだけではなく、独特な匂いが漂っていたのを思い出します。「百万都市」の江戸の胃袋を満たすためには、物流は大きな課題だったのでしょう。

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ここ下野栃木は、巴波川、渡瀬川、利根川の流れを利用して、上流から下流へ物資等を運搬した「舟運」で、江戸(東京)に物資を運び、帰り舟にも、物資をのせて運びました。たとえば山奥から伐採した木材や竹材などを、筏に組んで運ぶ、「筏流し」が昔から行われています。しかし、逆に下流から上流に向かって、舟により物資を運ぶという事は、自然の流れに逆らう事ではないかと思われました。ところが巴波川を利用した栃木の河岸では、栃木から江戸には米や大麻、薪炭、そして鍋山の石灰等を運んでいました。そして、江戸から栃木には、糖、干鰯、酒・酢・油などを運んでいたそうです。

 江戸は、栃木だけではなく、たくさんの物資、とくに食料が集積したわけです。それを市場で、公平な「競り」と言う方法で、商いをしたのは、実に賢かったことに驚かされます。そう言えば、市場で働いていた時に、あの「競り」に一度参加してみたかったのですが、叶わなかったのが、ちょっと残念な思い出の今です。

 その川辺にすみ始めてから3年、隣家の先祖は、この「舟運」を家業にしていたそうで、一度、当時の書類などを見せていただいたことがあります。その取引が盛んだったことが分かりました。そう、耳をすますと、人のpたや物、船の往来の物音が聞こえてきそうですが、普段は鴨や鯉や白鷺が住人なのです。

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