楽しき生涯

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我の諂ふべき人なし(我に、取り入ろうとする人はいない)
我の組すべき党派なし(我に、派閥のようなものはない)
我の戴くべき僧侶なし(我に、上におしいただく僧侶はない)
我の維持すべき爵位なし(我に、維持すべき勲章はない)

我に事ふべきの神あり(我につかえるべき神あり)
我に愛すべきの国あり(我に愛すべき国あり)
我に救ふべきの人あり(我に救うべき人あり)
我に養ふべきの父母と妻子あり(我に養うべき父母と妻子あり)

四囲の山何ぞ青き(周りの山はなんと青く)
加茂の水何ぞ清き(加茂の水(信濃川の支流)はなんと清き)
空の星何ぞ高き(空の星はなんと高く)
朝の風何ぞ爽《さは》き(朝の風はなんと爽やかか)

一函の書に千古の智恵あり(ひと箱の書物に永久の知恵あり)
以て英雄と共に語るを得べし(もって、英雄とともに語る機会を得られる)
一茎の筆に奇異の力あり(一つの筆には力があり)
以て志を千載に述るを得べし(よって、志を千年述べ続けることができる)

我に友を容るゝの室あり(我に友を招く部屋があり)
我に情を綴るゝのペンあり(我に気持ちを綴るペンがあり)
炉辺団坐して時事を慨し (炬燵等に坐して時事を語り)
異域書を飛して孤独を慰む(海外なそどの本を読んで孤独を安らぐ)

翁は机に凭れ(おじいさんは机にもたれ)
媼は針にあり(おばあさんは針仕事)
婦は厨《くりや》に急《せ》はしく(主妻は炊事に忙しく)
児は万歳を舞ふ(子供は万歳をしている)

感謝して日光を迎へ(感謝して日光を迎え)
感謝して麁膳に対し(感謝して粗食を食べ)
感謝して天職を執り(感謝して天職を行い)
感謝して眠に就く (感謝して眠りに就く)

生を得る何ぞ楽しき(生きていることのなんと楽しきことか)
讃歌絶ゆる間なし(神への讃歌は絶えることがない)

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 この「楽しき生涯」は、内村鑑三、三十五歳の時の詩です。明治維新の七年前、万延二年(1861年)に、高崎藩江戸藩邸の長屋(江戸小石川)に、長男として生まれた人でした。藩邸にも長屋にも内村家にも、維新後に帰郷して住んだ高崎にも、神々が祀られ、街のそこかしこには神社仏閣がある中で生まれ育っています。 

 幼児期に父親から儒学を、十二で上州高崎の有馬英学校で英語を、東京の外国語学校でも英語を学んで、十七歳で札幌農学校に入学しています。神社の前を通ると、立ち止まっては拝礼するような若者でしたが、農学校のクラークから聖書を学んだ上級生から伝えられた神を信じ、明治10(1878年)に、アメリカ人宣教師ハリスを介して、札幌のキリスト教会で洗礼を受けています。

 鑑三の受けた教育、宗教的な影響力、十代後半での信仰覚醒、決断、回心には、「福音の力」が、どれほど大きかったかが伺えます。《2つのJ》、つまり《Jesus》と《Japan》への愛を、鑑三は掲げましたが、「日本人」への拘りはなく、日本精神でも日本魂もなく、「神の子」に的を得ていたのでしょう。神からの赦し、受容を感謝した生涯だったのです。

 それにしても、この当時の人の語彙力に、昭和戦時下に生まれ、戦後の平和教育を受けて育った私は、到底及びもつかない日本語力の違いに驚かされます。例えば「麁膳(そぜん)」など、辞書を引いても出て来ませんし、中国のサイトの「漢語辞書」で調べて出てくるほどで、現在では、「麁」は、「粗」に変えられて使われていいる様です。

 鑑三ですが、お父さんの宣之も、1882年になって洗礼を受け、晩年は東京下谷の教会で信仰生活をしています。弟も、子も信仰を継承しているのです。キリスト伝道の難しいと言われる日本、しかも明治期に、札幌でも、熊本でも、神戸でも、松江でも、弘前でも、そして多くの農山漁村でも、仏教や神道の感化を受けて来た日本人が、イエス・キリストを信じる者を産んできたのです。キリストの十字架の福音は、人を変えてきたことになります。

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