身震いを感じるほどの

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 『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。(イザヤ544節)』

 生きていく術を教えていただいた宣教師さんから、よく言われたのは、『何をしたかではなく、何であったかが、人に問われるのです!』とい言うことでした。

 成功や成果こそが、人生の重要なことだ、との教えが、本屋にも社会にも満ち溢れています。キリスト教界にでさえ、〈成功の教え〉が取り込まれてしまっています。けっきょく人は何も持たないで生まれてきて、何も持たずに去っていくのですね。褒め言葉も褒章もtitleも、みんな置いていくわけです。

 恥じずに、私も生きようとしたつもりですが、多くの恥を残していくのでしょうか。時々、〈若かったころの恥〉が思い出されて、追い迫られることがありましたが、キリストの十字架は、私の罪も恥も、身代わりに負ってくださったことを信じて、無垢のようにされ、命からがら赦されたことを確信できたことは、感謝に尽きません。

 『数えてみよ主の恵み』と言う聖歌があります。どんなに素晴らしいことが、歌う人のこれまでの人生にあったかを『数えてみよ!』と歌いつつ感謝するのです。私は「憐れみ」の数々を思い出すので、これを数えることにしているのです。

 昨日、前橋の書店で、一冊の本を買いしました。戦時下、治安維持法違反で有罪となり、執行猶予付きの判決に服した、寺尾喜七氏の警察での尋問調書を掲載した、「知られなかった信仰者たち 耶蘇基督之新約教会への弾圧と寺尾喜七[尋問調書]」川口葉子、山口陽一著〈いのちのことば社〉」です。

 今、その本にある「調書」の箇所を読んでいるところです。この教会関係者の検挙に関わった立場の係官たちの様子を、次のように記しています。『刑事も警察関係の人々も、拘束して時たつとともに、容疑者をひそかに真の愛国者とほめ、次第に信者達を尊敬して寛大に取り扱った。中でも寺尾喜七氏をまことにえらい人と驚嘆していた。』とです。

 取調官を驚かせたほどの寺尾喜七氏は、信仰を捨てることをしないで、執行猶予で帰宅してから、自室に閉じこもって、聖書と讃美歌に四六時中親しみ、敗戦直後の1945924日、68歳で亡くなったと、この本は伝えています。

 美濃ミッションやホーリネス教会への迫害は、よく聞きましたが、こう言った信仰を持たれて、「非国民」と呼ばれて刑に服した「恥」を負いながらも、キリスト信仰を全された、《真の信仰者であったこと》に身震いを感じるほどであります。

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