褒められることなくとも

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 今まさに迎えている「秋」は、《褒賞の時》でもあります。父は、男の子を四人与えられて、その養育をしながら、この四人のだれか一人くらいは、プロのスポーツ選手になってか、学術部門で顕著な研究や功績を残してか、社会のために何がしか貢献してか、賞を取れる様な人になって欲しかったのかどうか、今頃、考えています。

 思い返してみますと、そう言ったプレッシャーを、子どもの頃に、掛けられたことはありませんでした。『学問だけはさせてやるが、金は残さない。後は自分で生きていけ!』、そんな育て方をしたのだと思います。上の兄が、大学受験を迎えた時、兄は、文学部に進学して、高校の国語の教員になりたかったようです。

 ところが足が早かったので、大学の運動部に入って活躍して欲しかったのか、別の道を兄に勧めたのです。その父の思いが叶ったのでしょうか、大学選手権をとったときのスタメンで、テレビにも映るほどになったのです。そして、上場一部の会社にも就職し、将来は取締役員にでもと期待したのかも知れません。父の期待の星でした。

 自分たちの老後を、兄に面倒を見て欲しい思いが、少しはあったのではないか、そんなことを今になって思い返しています。ところが、その会社を、兄は中途で辞めてしまって、アメリカ人宣教師の助手、伝道者になってしまったのです。それには、父が目に見えるほど落胆していたのが分かりました。

 そんなことがあったのですが、両親の面倒をみたのは、父の次男、すぐ上の兄でした。上の兄ほどの期待はかけられなかったのですが、この兄が、61歳で父が亡くなり、95歳で母が亡くなるまで面倒を見てくれたのです。人の計画や願いと、実際とには違いがあるのですね。

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 この兄は、父が長生きすることを願っていたので、『生きていたら温泉に連れて行って、背中を流して上げたかったな!』と、しみじみと言葉を漏らしていたことがありました。父は、この兄を、そうとう厳しく躾て育てていたのに、父に一番優しく接していたのは、4人の中で、この兄だったのです。

 四人兄弟も今や、兄たちは八十路、わたしも弟も七十路ですが、もうすぐ八十路に突入しそうです。みんな、父を年齢的に追い越してしまって、父が一番若くなってしまった様に思えるのです。四人が、仲良くできているのは感謝なことです。それこそが、父と母の切に願ったことだったに違いありません。何の褒賞を得ることはなくとも、一市民として、凡々と課せられた責務を誠実に務め上げたのではないかと思っています。

 そんなことを思っていたら、福沢諭吉が、明治維新政府から、何かの褒賞を贈りたいとの話が起った時、屁理屈を言ったのを思い出したのです。『車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐をこしらえ、書生は書を読む。人間当然の仕事をしているのだ。政府が褒めるというのなら、まず隣の豆腐屋から褒めてもらわなければならぬ!』と言って、それを辞退した話を思い出しました。

 『褒められることの少ない人生だったなあ!』と思う昨今、「収活(終活にしたくないので、こう言います)」を始めつつあるこの頃ですが、褒められずとも、もう少しすべき事が残っている、そう感じている「秋」の午後であります。