聞かれ答えてくださる

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 『ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。 (イザヤ3019節)』

 一人っ子で、養父母の家庭にもらわれたのですが、養父は、物心がつく前に亡くなって、養母と二人の家庭で育った母は、『寂しかった。自分には、友だちの家のように兄弟姉妹がいなかったの!』と、私に言ったことがありました。わたしが育った家の中では、親子や兄弟のケンカがよくあって、それがかえって母の寂しかった子どもの時の記憶を消し飛ばしていたのでしょう。

 そんな母は、4人の男の子を産んで、懸命に育ててくれました。三男の私は、小学校入学前に、肺炎に罹り、街の国立病院に入院したのです。母は、奥深い渓谷沿いの家に兄たちと弟を残して、今にも死にそうな私の寝台の下で寝て、入院中、懸命の世話をし続けてくれました。

 また当時、高価だったペニシリンを、父は使うように主治医に言ったようです。このペニシリンは、1928年にイギリス・スコットランドのアレクサンダー・フレミングによって発見された、抗生物質でした。母の献身的な世話と、この父の犠牲的な出費で使ってくれた薬のおかげで、死ぬところを、生き返すことができたのです。親への感謝は尽きません。

 父も、母に似た家庭環境の中で育っていて、「めんこい仔馬」とか「主我を愛す」を涙ぐんで歌うほどで、実母の愛に恵まれない子ども時代を過ごしているのです。あの時代、「庶子(しょし/父親の最初の男でありながら相続権のない子)」としての父の境遇は、辛いものがあったに違いありません。

 でも、そんな背景の父も母も、よく、わたしたち4人を育ててくれたのです。上の兄の子、父の孫二人は抱いたことがありましたが、すぐ上の兄と弟、そして私の子を抱くことなく、帰天しています。人の一生とは、ままならないものですが、しっかりと受け留める時を経て、自分の子たちを一人前に育て上げてくれたのです。

 だれも、人は孤独なのですが、ことさらに今日日、物や情報は溢れ、人は増え、生活は便利になり、美味し物を食べられ、世界中に出掛けられるのに、心の空洞が大きな問題とされる時代になっているようです。身の回りに、心を打ち明ける人を持たない時代であります。

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 人がいないことはないのに、打ち解けて、心の思を吐露できる間柄の人、家族でさえも何か疎遠な時代になってしまっています。先日、ラジオに出ていた方が、弟さんを「孤独死」で失ったと言っていました。現代人は、他者に迷惑をかけることのないような生き方をしているようで、かえってそれが迷惑になってるのです。心の内にあることを、兄にでさえも漏らすことのできない、そんな身近な関係を持っていない人の多い現代なのでしょう。

 そして、人に会わないですむ生き方をしている人が多そうです。生まれて、甲斐甲斐しく世話をしてくれた母親がいて、下の世話から食べ物や洗濯やPTA出席、喧嘩で怪我をさせてお詫びに行ったりしてくれた親がいて、大きくなっているのを忘れてしまっています。今や〈関係の疎遠〉の時代になってしまっているのです。

 まだ若かった時に受けた教えの中に、“ heart knitting (心と心を編み合して重ね合うこと)の勧めがありました。一番は、心の中で鬩(せめぎ)合う思い、肉の欲、異性からの誘惑など、なんでも話せる友、祈り手、先輩、同輩、助言者、叱責者を持つことの大切さを学んだのです。

 今は、人と関わらなくなって、関係が希薄になっています。億劫になっているのです。人と関わらないで、多くの人が生きています。独りぼっちなら、相手に気遣いしないですむし、言葉や態度で傷つかないですむからです。いよいよ、人はそうなっていきます。

 よく行く日帰り温泉の横に、〈⬜︎⬜︎ club〉と看板のある “ internet cafe “ があります。そこには個室があって、何時間も、何日も、何週も過ごすことができる生活空間なのです。トラブルを避けたいなら、独りぼっちで過ごせるので、そう言った cafe 、食事もできる場が多くでき始めています。

 かたや温泉は、今は〈黙浴〉ですが、裃も鎧兜もつけないで、裸で行き合う、湯気の立つ空間なのです。初老、中老、長老、たまに若者のいる、わたしの行く入浴施設です。譲り合い、気遣いしながら垢と過去を洗い落とそうとして、神経系統をしっかり緩めて、ボーッとして時を過ごしているお湯空間です。脛に、お腹に、背中に、そして心に傷を負う老人たちの憩いの場です。

 『これまで何をなさって生きて来られたのですか?』と、喉まで言葉が上がってきますが、その言葉を飲み込んで、空を見つめている2時間ほどの時間は、至福の時です。回数券のお得意さんばかりのようで、曜日によりますが、もう顔馴になってしまっています。このオジイさんたちは、面倒な人間関係を嫌わず、避けないで生きてきたのでしょう。お湯をかぶるにも、飛び散らないような工夫の人も、相手構わずの人もいて、さまざまな人間模様の世界なのです。

 きっと今日日の若い世代の人たちの多くは、〈お金で済ませたい〉と言う生き方なのでしょう。相手に迷惑や面倒をかけて、生きない生き方に拘るのです。聞かなくてもいいことを、あえて聞いたりしないのです。人と人に接点を置かないで、〈ボッチ〉の世界は、人間の世界ではないようです。

 私たちの創造主でいらっしゃる神さまは、私たちの魂の叫び、声にならない声をお聞きくださるのです。そして、優しく、静かな細い声で、語ってくださるのです。その孤独を熟知される神さまが、慰め、励ますように、ある時は叱るようにも語ってくださいます。

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