別離

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 『心頭滅却すれば火もまた涼し!』と言われても、2022年夏の日本列島は、もうしょうがないほどの「猛暑」、「酷暑」です。言うまいと思いますが、どなたの口からも、“ ATUI ❗️がもれてしまっています。この七月、どうなるやら心配ですが、荒野の40年、雲が人々を覆って守られた様に、21世紀の私たちの「覆い」は、主でいらっしゃいます。『外出しないで!』、『エアコンつけて!』、『水分摂って!』、『梅干し食べて!』と、Message が、子どもたちから届いています。

 大平山の紫陽花を観に、親しくさせていただいているご婦人が、お連れくださる約束が、昨日あったのですが、一昨日、友人の招きで、県南の野木まで出掛けて、疲れたこともあり、子どもたちの忠告もあって、申し訳なくもお断りしてしまいました。蕎麦、卵焼き、焼き鳥は、次の機会に延期になってしまったのです。

 戦争や酷暑の夏、砲弾炸裂のウクライナの地に、平和が回復されることを祈り続けていますが、人や国の欲や憎しみや謀略はやみません。でも、主なる神さまは、全てをご覧になっていらっしゃいます。「人の血を流す罪」」は、決して蔑ろにはされないからです。

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 良くしてくださった方が、亡くなられたとの知らせが、昨日、アメリカにおいでのお嬢さまからありました。中国に参ります前、週日の夕方、この方の会社の売り上げ計算のアルバイトの機会を、わざわざ設けてくださったのです。1時間ほどの作業に携わったことがありました。

 交わりをしたい、助けたいと言う思いがあって、そうしてくれた、同じ時代の風を浴びながら生きて来た、一歳上の同世代の兄の様な方でした。仕事が終わると、焼き鳥屋、鰻屋、寿司屋、中華料理店と連れ出してくれました。帰りには、必ずと言っていいほど、帰りを待つ家内に、その「折り詰め」を用意させていただき、持たせてくださったのです。その家内も、鰻屋さんや中華飯店に同席したことがありました。

 子どものような目を向けて、シャイな兄でした。彼もまた、天に凱旋しているのでしょう。良き理解者、友、兄でありました。主に仕える者への敬意を示してくださったのです。愛する方を亡くされた奥さま、お嬢さま、息子さん、お孫さんたちの悲しみを、主が涙を拭って慰めてくださいますように願う、文月七月であります。

 そう言えば、あの何種類もの鳥の部位を、注文して焼いてもらい、日に二串ほどしかない希少部位まで注文してくれたのです。25でやめた酒でしたが、『これは美味しいから、今日だけ、猪口いっぱいだけ!!』と、菊ちゃんに言われて、30年ぶりに飲んだこともありました。あれ以来、口にしていないお酒ですが、美味しかったのです。つい1週間ほど前に、そんなこと思い出して、家内と懐かしく話していた矢先の人生の後半に出会った友との別離でした。主の平安!

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教師を見続ける

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 『たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。 (イザヤ3020節)』

 もう今では、卒業式に歌わなくなったと言われる「仰げば尊し」ですが、恩師への感謝が溢れていて、素晴らしい歌だと思っているのは、もうわれわれの世代だけなのかも知れません。

 諸国漫遊をしていた河井継之助が、備中松山を訪ねています。道後温泉に入るためではありませんでした。そこに農の出で、漢学者となり、武士の身分を授けられて、松山藩の財政危機を救う敏腕を振るった、山田方谷がいました。十万両(今のお金に換算して三百億円)の財政赤字を、七年間で黒字に転じた藩財政の担い手でした。

 松山藩の領地であった西方村(現高梁市中井町西方)で生まれていますが、五歳の年に、丸川松庵の門に入って学ぶほどの「神童(しんどう)」の誉れが高く、京都で学び、帰藩すると、松山藩の有習館の会頭(教師)となり、三十五歳で学頭(校長)になっています。

 四十五歳で、松山藩主、勝静から元締役兼吟味役(財政担当責任者)に任命されて、その財政改革を行ったのです。主君が徳川幕府の「老中」になると、それを補佐したり、家老として藩政に関わっています。ですから、その方谷の名は、全国に広まり、多くの他藩の若者たちが、方谷のもとを訪ねています。

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 後に長岡藩の家老となる河井継之助も、その一人でした。西方村にいた方谷を、安政六年(1859年)に訪ねたのです。方谷が五十五歳、継之助が三十二歳ほどでした。訪ねて来た継之助の卓見ぶりを見抜いた方谷は、継之助を村外れまで見送ったのです。継之助は、川を渡って少し行きますと、継之助は立ち止まって振り返り、笠を取って、地に土下座して方谷を拝しています。また歩き、また歩いて、このことを三度も繰り返したのだそうです。

 ですから戊辰戦争で亡くなった継之助が、どれほどの人物だったかが分かります。小藩には、そんな世に隠れた逸材がいたことになります。戊辰戦争が、箱館戦争で終結して、明治維新政府が、薩摩、長州、土佐などの藩の藩士たちによって、機能していく上で、さまざまな身勝手さがあったのですが、朝敵で反旗を上げた河井継之助の様な人物がいたら、明治の世は、もっと違って、国民主導の政が行われていたことでしょう。

 そうならない歴史の不思議さに、残念な思いがありますが、責務を正しく果たさない者への審判は、後の世に任せて、自分は、真実、誠実、忠実に、創造者の前にあり続けたい者です。今日でも、この困難な国際情勢のもとで、他者のために働ける人材が、多く隠れているのではないでしょうか。

 わたしは、良き師に恵まれて、今日をあるを得ているのを覚えて、心からの感謝を覚えるのです。学校でもそうでしたし、教会でも伝道訓練でも、愛と仰いで学んだみなさんは、病んで召されてましたが、天に凱旋されて、喜び迎えられる、主の僕たちでした。その教えは残り、真理に目を開き続けています。わが救いの君、イエスさまは、今も「まことの師」であり続けていらっしゃるのです。

(“ キリスト教クリップアート “ からです)

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