秋めく


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 散歩の道の途上の草むらの中に咲いていた花です。季節を彩る秋の空にも秋の雲、果物屋さんの店頭にも秋の果物、心の中には秋の思い出が蘇ってきます。明日からは9月です。どんな秋、どんな日々、どんな地球なのでしょうか。

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まるでビー玉のような

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 『わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(イザヤ457節)・・・このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。(イザヤ4512節)』

 ここ栃木でも、秋から冬にかけて、夜空が澄んで、星が瞬いている様子を、もう間もなく見上げることができるようになります。広大な宇宙への憧れは、どなたでもお持ちなのかも知れません。ご多聞にもれず、わたしも月や星を眺めるにつけ、そのはるか彼方で輝き続ける様子に圧倒され、打ちのめされるような感じがします。

 1971年、アポロ15号が打ち上げられ、その飛行士であった、ジェームス・アーウインは、その前後の様子を、次にように語っていました。

 『・・・打ちあげの朝、車を走らせながら自分の人生を振り返り、いろいろなことを考えた。自分の人生はあれでよかったのか、きょうはどこへ自分は行こうとしているのか。本当はどこへ行きたいのか。

 やがて、あたりが明るくなった。太陽が昇る。空には打ちあげをさまたげるような雲は見あたらない。小鳥のさえずりが聞こえてきそうだが、車のなかは物音一つしなかった。ふたりとも口をきかなかった。ただ、いよいよだなという思いを込めて見つめ合ってほほえんだ。あまりにも多くの思いが、頭の中を駆け巡った。でも、語る言葉はなかった。

 ロケット発射台に着く。エレベーターに向かう。あの朝はいつもよりゆっくり歩いたように思う。ふたりはあたりを見回した。これが地上の見納めになるかもしれないとも思った。なに一つ見逃したくなかった。ロケットは朝日を浴びて白く輝いていた。そのサタン5型ロケットのはるかてっぺんに、われわれの乗る小さなモジュールが見えた。

 ロケットがきょうは身近なものに見える。うまく動いてくれるだろうか。本当に月まで連れて行って、また地球に連れ帰ってくれるのだろうか。そんなことを考えていた。・・・』

『・・・遠ざかるにつれ、地球は小さくなって、とうとうビー玉ほどに縮んでしまった。想像できないほど美しいビー玉である。美しく、暖かく、そして生きている。それは非常に脆くてこわれやすく、指を触れたら粉々に砕け散ってしまいそうだった(月へ向かう軌道上)。』

 そして、アポロ15号で月に到達したジェームズ飛行士は言葉を失った手、次のように感嘆したのです。

 『ここには神がいる!』

 地球から一番近い星である、宇宙空間に浮かんでいる月は、その神秘さを眺め続けてきた人にとっては、特別な存在でした。ところが、ジェームス飛行士は、そんな月から地球を見た時、その美しさや暖かさやもろさ、生きているのを感じて、圧倒されたのです。〈ビー玉〉のようだったと言うのです。今もありますが、ラムネの瓶の中に、このビー玉があって、手に入れたいのですが、瓶を割らなければ手にできませんでした。

 玩具屋の店先に、ビー玉だけが売っているのに、閉じ込められていると、余計にそれをこじ開けたい衝動に、子どもは駆られるのでしょうか。地球が遠くに、ビー玉状に浮かんで見えると言うのは、月を見るよりは神秘的に違いありません。そこで生まれ、そこで育ち、社会活動をしているからでしょう。

 人生も、こう言った距離をおいて見たり、考えたりしたら、また別な意味が出てきそうです。詩篇の記者、ダビデは次のように言っています。

 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足のに置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。(詩篇839節)』

 万物の神の「注目の的」、創造者としての神の愛の対象としての「人間」なのです。その神が、全宇宙を支配しているのです。それ程偉大なのに、私たちを愛して、わたしたちの傍らに、いつもいてくださると約束してくださるのです(☞マタイ2820節)。

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島根県

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 母の出生地、出身地が、島根県出雲市ですから、わたしにとっては特別な県であります。それは、父が、母の出身地を本籍にしましたので、この父母の四人の子の私たちにとっても本籍でした。二人の兄たちは出雲で生まれています。多くの日本人が skip (飛び越えてしまう)してしまう県の一つで、今わたしたちの住む栃木や群馬と並ぶ、『どこにあるの?」と思う県なのでしょう。

 この街で伝道活動をしていたカナダ人宣教師の教会に、友人の誘いで、母は導かれてクリスチャンになっていますから、母への一番の感化、生きる道を示され、癒やされ励まされた街や県でもあるのが、この島根県出雲市でした。日本の神々が、「神無月(かんなづき/十月)」に集まるほどの宗教都市だとされてきた街に生まれて、天地万物の創造、統治の神を「神」と、母は信じることができたのです。

 さらに、この地域は、「神話のふるさと」と言われる地で、「大国主命」や「因幡の白兎」の話を、子どもの頃に聞かされています。母にとっての神は、「父なる神」だったのです「

 『私たちが神の子どもと呼ばれるために、--事実、いま私たちは神の子どもです--御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1ヨハネ31節)』

 〈父なし児(ててなしご)〉が、聖書に記された神、カナダ人宣教師が知らせてくれた神が、「父」であったことで、母は本物の父親を知ったのです。そんな出会いをして、生き直すことができたわけです。

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 出雲からも伯耆大山(鳥取県)が見えたでしょうか。山陰一の山なのですが、この山も富士山に似た形状をしています。島根県には、「しじみ漁」で有名な宍道湖があります、東に松江、西に出雲が位置していて、私たちが知らない「しじみ料理」が地元にはあるようです。

 安来市は、泥鰌(どじょう)が有名で、その「安来節」は、尻っぱしょりに鼻手拭いをして、どじょうをすくう竹製の手箕(てみ)をもって、腰には「魚籠(びく)」を下げて、面白おかしく歌って踊るのですが、そのせいで、父は、小川に入ってはドジョウすくいをするのが大好きだったようです。いつか、浅草に行って、父の約束を《お一人様成就》しようとは思っています。

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 県都は出雲市、県花はボタン、県鳥は白鳥、県木は黒松、県魚は飛魚、人口は66万人、これが島根県です。古代の書である「出雲風土記」が残されていて、律令制下では、出雲(いずも)国、石見(いわみ)国、隠岐(おき)国の三国がありました。 

 母は、自分に兄弟姉妹のいない一人娘でしたので、養父母に丁寧に育てられたようです。養父は早世して、母子家庭で育っています。「今市小町」と言われたと、親戚の叔母に聞き、相当のお転婆だったそうです。でも養母に、厳しく育てられたのでしょう、和裁が上手でした。父の和服を解(ほど)いて、洗って、独特な針棒で庭に干して、縫い直したりしていました。負けず嫌いで、家事一切が上手になされていました。

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 その養母が、五月の「端午の節句」には、この四人の男の子の無事と成長を願って、「ちまき」を作って、毎年送ってくれました。笹の棒に米粉の団子をつけ、笹の葉でくるんでありました。それを母が蒸してくれて、砂糖醤油で食べたのです。あの笹の蒸した匂いが、私たちの五月でした。母の養母の故郷は、雲南市だったのでしょう、その地域の季節の食べ物だったのかも知れません。

 合併前は、「大東(だいとう)」と言っていましたが、その街をわたしは訪ねたことがありました。出張の帰りに寄ったのです。立派な家で、「五右衛門風呂」に、簀(すのこ)の上にのって、鉄製の湯ぶねに入ったのです。あんなに体の芯までポカポカにえなったことがないほど、素敵なお風呂でした。都市部では体験できない、出雲地方に残された生活形式に触れたわけです。

 同じ雲南地方の「木次(きつぎ)」では、「たたら製鉄」が行われてきていました。とくに松江藩は、この製鉄に力を入れて、藩財政の基盤としていたようです。「たたら」は「鑪」と漢字表記され、木炭の温度を高めるために、空気を送るために使われた「鞴(ふいご/送風器)」のことです。

 古墳時代には、この製鉄が始まっていますが、製法の変遷を経て、揖斐川の流れが運んでくる砂鉄を原料に、木炭を使用した製法で、強度の強い「鉄」を生み出したのです。その鉄は、北前船に乗せられて、全国各地に運ばれ、刀剣、包丁、飾り物などに用いられたのだそうです。この種の製鉄は、全国各地で行われたようですが、「木次」のあったものが後世に受け継がれて、残されています。

 日本海に面した日御碕(ひのみさき)に灯台があって、そこに連れて行ってもらいました。母の遠足地でもあったようです。出雲大社は、小学校一年の母の家出で、母の帰郷に伴って出雲行った時に、あの茂ちゃんに連れて行かれて行ったことがありました。でも参拝した記憶がないほど、《真の神だけの礼拝》をする確かな信仰のクリスチャンの母の生き方に影響されていたのでしょう。

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 この地の名物が、「出雲蕎麦」なのです。三段重ねの小さめの「蒸籠(せいろ)」に入れられていて、何種類もの薬味を入れて食べるのです。信州そばも、ご当地・栃木の出流蕎麦も美味しいのですが、この出雲蕎麦は格段に美味しく感じられました。その蕎麦を、茂ちゃんが、「アゴの野焼き(飛魚で作られた練り物)」と一緒に、毎年年末に送られてきました。全く母のふるさとの味でした。

 「天然コケコッコー」と言う映画を見ていた時に、主人公だったと思いますが、家を出ていく時に、『行って帰ります!』とお母さんに言っていました。中国地方や山陰地方では、そう言うそうです。物をもらったりして、感謝する時に、『だんだん(ありがとう)!』とも言うのです。

 よく父が、母のふるさとの出雲弁を揶揄(からか)っていたことがあります。母は、父の歯切れの良い東京弁に好意を感じたようです。若い頃の父は、けっこう美男子だったようで、いく葉もの写真の中に、そんな父が見付けられます。

 都道府県の中で、鳥取に次いで、ここ島根県は人口の少ない県ですが、出雲、石見、隠岐の三か所に空港があるのです。今、ちょっと人気なのが、東京駅と出雲市駅を結ぶ、JR特急寝台の「サンライズ出雲・瀬戸号」が運行されていて、いつか乗って、母の故郷を訪ねてみたいな、と思っております。

(アゴの野焼き、たたら製鉄、宍道湖の夕陽、JRサンライズ出雲市です)

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一番美味しかったかな

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 驚かされるのが、ここ栃木市に珈琲店が多いことです。全国展開をしている珈琲屋が、今にぎやかです。気取っていない庶民的な空間、そしてメニューで人気を博していて、たまに、モーニングを孤食するのですが、学生の頃に、よく行った、JR駅前の〈ルノアール〉とは違って、椅子もテーブルも簡素でスッキリし、座り心地と居心地がよく、珈琲もおいしく、アンコの好きな自分には、老いのひと時の楽しき孤空間なのです。

 華南の街の古街が、瞬く間に都市観光整備で新しくされ、その道筋に、「星巴克(スターバックス)」ができて、おおにぎわいでした。建物も客も中国風ですが、そこに息づいているのは American culture で、中国語が聞こえなければ、まさにアメリカにいるようで、珈琲の値段もアメリカンだったのです。

 どこも同じで、卓上にパソコンを置いて、睨めっこをする若者、友人と来て無遠慮に大声で話し合うグループがいるのは特異で、雰囲気はロサンゼルスのStarbucks そのものでした。日本が米化をしていったように、その動きを中国も免れていません。ただ、スプーンで珈琲を口に運んで飲む人がいて、気になりました。どう飲んでもいいのですが。

 さて、宣伝がましいのですが、わたしが時たま行くのは、「コメダ珈琲店」です。散歩の途中や自転車で買い物の折に、チョコっと寄るのです。時には調べものをしたり、聖書研究をしたり、ブログを作ったりもします。

 二人席に陣どって、コンセントにiPad をつなぐのです。隣のbooth が気にならない、まさに自分の席になって、美味しい blend を飲みながら、トーストに餡子を載せて食べると、小ゼイタクをしているようですし、家で自分で入れて飲むのとは趣が違って、時には好いのです。

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 先日、自家焙煎のコーヒーをいただきました。ご自分で豆を買って炒るのだそうです。そこまで通の方がいて驚きますが、京都の若き友人が、先日も送ってくださって、アフリカの自然栽培のウガンダ産の豆が、気に入ってしまっています。でも、四つ葉生協で注文したりで、いつも産地も違っていて、そんなに拘っていません。

 初めて飲んだ時が、いつだったか覚えていません。父や母や兄たちや弟が、家でコーヒーを飲む姿はありませんでした。だれかが買ってきて、インスタントコーヒーが飲まれるようになった日は覚えていません。学校に行くようになってから、苦い飲み物に、ミルクと砂糖で飲み始めたと思います。自分で淹れて飲むようになったのは、一緒に働かせていただいた宣教師さんの《たった一つの贅沢》だった “ Blue mountain ” を、彼が淹れてくれて、ほんとうに美味しかった頃からです。それ以来、Blender を買って、自分で豆を挽いて、No milkNo sugar Mug (和製英語はマグカップ)の珈琲党になったのです。まだ買う豆はブルマンにはなっていません。

 『むかしアラブの国のお坊さんが・・・』と言う、Coffee rumba という歌を聴いて、珈琲の起源がアラブにあると思っていたのですが、やはりアラブで始まった飲み物だったそうです。初め苦くて大変だったのが、炒り方、淹れ方、飲み方が、工夫されていったのでしょう。今や世界中で飲まれるようになって、ここ栃木には、我々世代の珈琲党が大勢おいでです。

 戦争が終わって、アメリカの生活様式が入り込んできて、このコーヒーも、American の薄めの Coffee になったと思ったのですが、喫茶店のものは、実に濃かったのです。あの宣教師さんは、喫茶店に入ると、もう一カップのお湯をもらって、それで割って、嬉しそうに飲んでおいででした。でもこの方の入れてくださったのが、一番美味しかったかな!
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アメリカとわたし

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 今年も、〈八月〉が行こうとしています。終戦七十七年、わたしが八ヶ月の時に、日本は無条件降伏をしています。真珠湾を奇襲攻撃したのが、すぐ上の兄が生まれた昭和16年の年末でした。日本軍が米英に宣戦布告して、あの太平洋戦争が始まった時、この戦争に反対したのが、後に海軍最高司令長官となる山本五十六でした。

 彼は若き将校時代に、まだ親交のあったアメリカを訪問したことがあったのです。その折、テキサスの大油田と五大湖周辺の大工業地帯を見て、その規模の大きさに圧倒されていました。物量の多さと工業技術水準の高さは目を見張るものがあったからでした。

 その印象を思い出して、この戦いに勝つことは決してできないと、反対をしたわけです。ところが、ひとたび開戦が決まってしまった時、海軍の有能な軍人として、彼もまた参戦して行きました。

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 わたしは、次女の卒業式に出席した後、二人の娘と一緒に、オレゴンからワシントン、アイダホからモンタナ、そしてワイオミングと、5つの州を車で訪ねたのです。その道々感じたのは、アメリカの大農村部が、実に近代的な大規模・機械化農法で農業が行われている様子に驚かされたのです。

 すでに映画や写真で見て知ってはいましたが、この目で見たその大きさは圧倒的でした。この農村部の豊かな生産物が、工業地帯や都市部の必要を十二分に満たしていると言った、食糧の自給ができる国であるこを知らされたわけです。山本五十六は工業の立地国としてのアメリカに驚かされたのですが、わたし は農業立地に目を見張ったのです。  

 そればかりではなく、大都市以外のアメリカの農水産などを担う90%以上の地域で、勤勉に働いて、税を収める多くのアメリカ市民が、この国を支えているのも知ったのです。彼らは、週の初めの日曜日には、教会で礼拝を守って、「神の国」を第一に求め、週日は、食卓を囲んで、家族のため、近隣のため、国のため、世界のために祈る、忠実な市民がいて、この国を支えているのが分かったのです。

 その旅行の時に、私を導いてくださった宣教師が教えてくれた、「アメリカが崩壊しない3つの理由」を思い出したのです。1つは、建国の父たちの祈りとその祈りを祈っている現代のキリスト者たちの存在、2つは、献金をささげて、多くの宣教師を海外に送り出してきている宣教、3つは、アメリカの使命や存続のために海外のクリスチャンたちが祈っている祈りだそうです。

 そのアメリカで、わたしたちの四人の子どもたちが学ばせていただいたことに、心から感謝するのです。彼らが学びつつ教会生活をさせていただいた教会と牧師さんへの感謝をこめて、そのアメリカ北西部にある教会を訪問した時、この教会の牧師さんが、その日曜日の礼拝で、証詞をする機会を与えて下さったのです。何をお話しようかと考えていました時に、《自分の今とアメリカとの関連》について話すことにしました。

 わたしは、アメリカから来日された宣教師が建て上げられた教会で救われたこと。その後任の宣教師が、母教会から100キロメーターほどの距離で、開拓伝道をされると言うことで、開拓地を選ばれました。そのお手伝いをさせて頂きながら、私は伝道者となるための訓練を受けたこと。聖書の読み方や解釈の仕方、説教の仕方も伝道の仕方も、家内の愛し方も、この宣教師から学ばせて頂いたことを感謝をお話ししました。

 そして、戦争が終わった後、この国から送られた「ララ物質(LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)」から贈られた、滋養に富んだ粉ミルクを飲ませていただいたこと。そして、この国で作られた映画を観て、夢が育まれたこと。とくに、ジェームス・ディーンが主演した「エデンの東」や「理由なき反抗」や「ジャイアンツ」などを何度も観たことを、話したのです。感謝は、人を激励するのでしょう。

 当時のアメリカのブッシュ大統領の愛読書と、家内とわたしのものとが同じで、読者仲間だと言うことを知って、彼のために祈っていました。あれから何人もの大統領が交代していますが、混迷を深めている世界情勢の中で、正しい舵取りと、正しい判断を下すことと、相応しい助言者が与えられること、何よりも神を怖れる指導者が立てられるようの願い続けている、2022年の夏の終わりを告げるような虫の音がする夜半であります。

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高潔さ

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 信仰生活を始めて間もなくの頃でした、「いのちのことば社」の月刊誌「百万人の福音」に、オズワルド・チェンバースの「マイ・アットモスト・フォー・ヒズ・ハイエスト(彼の没後に神学校で教えた講義の原稿を夫人が筆記していたのを編集したそうです)」と言う通読日課の欄があって、1971年の9月号から翌年の8月号まで連載されていました。湖浜馨牧師の翻訳されたものでした。残念なことにスペースが限られていたので完訳ではなかったのです。

 それでも、その文章の格調の高さと忠実な翻訳とに、心動かされ教えられていた私は、それを切り抜いて合本にして、いつも手元において読んでいました。その後、英語版の原本 ”My utmost for his highest”を買い求めたのです。その英語は大変難しいもので、辞書と首っ引きで読むのですが、それでも大変手を焼かせるものでした。

 ところが、それから20年ほどたちました1990年に、「いと高き方のもとに」との題で、完訳本が出版されたのです。早速買い求めました。それ以後、数冊買ったのですが、今、次男のために家内が買い求めて『199915日「母」』と書き込まれたものが手元にあります。当時、次男が東京に行く際、置き忘れていったものです。

 それを家内と、朝食のテーブルで読んでいるのです。華南の街でも、今は栃木の街でも読み続けています。この著者は、レイモンド・エドマンという牧師が、『最高の生涯を送った聖徒です!』と紹介した人です。1874年にスコットランドで、バプテスト教会の牧師の子として生まれます。あのスポルジョンの説教を聴いて回心したと言われています。伝道者として生きた彼は、その生涯の最後の5年間、ロンドンの聖書学校で、多くの青年たちを教え、伝道者として養成しました。彼の講義は、青年たちの魂を感動させ、揺り動かしたのです。そして1917年、43才で天のホームに帰って行かれました。

 この本は、ホノルルやシンガポールや銀座でも、福音文書店で見つけることが出来るほど、世界中で、いまだに読み継がれているのです。中国語の翻訳もありますし、ネットでも読めます(もう店は閉鎖されています)。

 「霊性の高さ」とか「人格の高潔さ」とか言ったものが溢れているからであります。それは、聖書学校で、主に従って生きようとしていた青年たちに、真剣に語ろうとして語った事々だからでしょうか、聞き手の受けを狙おうとするところが見られません。聖書を忠実に解き明かし、実際の信仰生活にあてはめsているのです。

 私たちを育ててくれた宣教師の説教を、最近、テプで再度聞いています。語っている内容に感じ入ることが多いのですが、語っている彼らの人格や品性が、驚くほどに迫ってくるのです。彼らも、面白おかしく語ろうとしていませんでした。真剣に聞こうとする聞き手に、驚くほどの敬意を表しながら語っておられるのが感じられるのです。人の「霊的いのち」に対する責任と使命とが、彼らにあったからなのでしょう。実に感謝なことであります。
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鳥取県

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 今頃でしょうか、秋になると、決まって、「二十世紀梨」が、わが家に送られてきました。母の出身地で、親戚のようにして交わりにあった近所の方で、戦争中に、予科練に志願した方がいました。戦後、中部地方の山の中で、木材業をしていた父を手伝っていた方です。この方が、父への感謝を、父の四人の子の私たち一軒一軒に、それは美味しく瑞々(みずみず)しい梨を届けてくれたのです。

 それは鳥取の砂丘に栽培されたもので、今の幸水や豊水と言った種類の梨の原種になるのではないでしょうか。千葉県松戸市で、「青梨」が見つかって、それを品種改良したのでしょうか、「二十世紀梨」が誕生し、生育地として条件の整っていた鳥取砂丘で生産が行われ、一躍鳥取県の名産品となったのです。
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 そう言うことで、私と「二十世紀梨」とのとりもつ縁で、「鳥取県」があります。山陰地方と呼ばれている県名の由来が、「古事記」にあるそうです。湿地の多いこの地方では、鳥を捕まえて生業(なりわい)にしていた狩猟家たちが多かったことが記されているようです。それで、「鳥取」という県名が決まったのだそうです。

 律令制下では、「山陰道」で、「因幡国(いなばのくに)」、伯耆国(ほうきのくに)」と呼ばれていました。江戸期には「鳥取藩」で、池田氏が治めていました。県都は「鳥取市」、県花は「二十世紀梨の花」、県木は「大山伽羅木(だいせんきゃらぼく)」、県鳥は「オシドリ」、人口は59万人です。

 最初の職場に3年いたのですが、この鳥取県の教員研修会が、「倉吉市」であって、出張したことがありました。母の親戚や知人のいる出雲市に行った記憶があっても、仕事の記憶が飛んでしまっています。さして大きな出来事がなかったからでしょうか。
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 これは、母から聞かされた話なのですが、『歩かないわたしを、茂ちゃんが泣きながら背負って、山道を歩いてくれたのよ!』、と聞きました。予科練に行った屈強なまだ若いこの方を泣かすほどに、自分が我儘だったのです。大人になって、倉吉に出張で行った帰りに、足を伸ばして、お宅にお寄りした時に、母に聞いた話をして、詫びたのです。ただニコニコと笑いながら、「茂ちゃん」が聞いておいででした。

 今わたしたちの住む栃木県には、「空港」はないのですが、鳥取県には、鳥取空港と美保空港(一部米子市ですから米子空港と言います)と2ケ所にあります。人口の最も少ない県なのに、それは驚くべきことです。ラッキョウ、スイカ、松葉ガニが特産品で有名です。父の若い日の写真の中に、海沿いの温泉地で撮ったものが残っています。多分、日本海に面した米子市にある「皆生温泉(かいけおんせん)」でのものかも知れません。

(「皆生温泉」の全貌の写真です)

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兄貴

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 『準さん、あなたの探し物をしている時間ってとても多いように思うんだけれど!』と家内に、よく言われてきました。物の定位置管理が出来ていない私への彼女の五十年来の観察の結論なのでしょう。そう言えば、『あれは、どこだっけ?』とよく言っている自分に気付くのです。

 ところが、そう言った性行の人間には、失った物を見つけ出す喜びが人一倍あるのです。また、もうあきらめていた物を見つけられる醍醐味もあるので、物の置き忘れが、なかなか止まないのです。それは忘れ物をした副産物で、喜びも一入です。これ、言い訳に聞こえるでしょうか。

 先日も、《一万円札》が、ヒョコリと出てきたのです。帰国したばかりの頃に、すぐ上の兄にもらったものだと思うのですが、九万円ほど使ったものの残りが、普通の封筒に入っていたのを、「収活(〈終〉よりも、収束の〈収〉の方が良さそうなので)」を始めようと、書類の整理をして、捨てようとして、その封筒を灯りに向けたら、見つかったのです。

 「ルカの福音書15章」に、二人の息子を失った父親のことが記されてあります。息子たちは、同じ量と質の愛で父親に愛されたのですが、まったく違う生き方・在り方を選択しました。自分の感情に従って、弟は遠い国に旅立ちました。父親に相談した形跡もありません。ところが兄の方は、父の家にいて、父に従って精一杯生きているように見えたのですが、弟の出奔と帰還とで、潜んでいた父への不満の思いが暴露されます。

 日頃、父親に何でも話すことをしなかったからなのでしょう。弟は失敗と挫折と恥の体験を通して、自分の未熟さを知らされます。その体験の真只中で、父親を思い出すのです。どの時代を生きた若者でも、共通して持っている主張があります。《失敗する権利》です。だれも失敗しないで完璧には生きることは出来ないからで、人は大体、失敗や挫折を通過して、大人になっていくのではないでしょうか。

 そうしますと、兄息子は、弟のような権利主張をしないで、生きて来た人だったことになります。自分の感情を無理やりに押し潰して、生きたのではなかと想像してしまいます。弟に遊び友達がいたように、兄にも友達がいました。でも、彼は友人たちとは、心を正直に開いて挑戦し合ったり、喧嘩をしたりがなかったんでしょう。だから《赦し》を学んだことがないし『ごめん!』と言って《赦される》こともなかったのでしょう。

 放蕩の挙句、帰って来た弟を、責めもしないし、罰も与えないで、ありのまま赦して受け入れている父に向かって、厳しい言葉が、兄の口からこぼれ出ます。彼は、父親も弟も、まったく分かっていないのです。自分とは違った個性や過去を持っている弟を理解しようとしていません。彼は自分の物差しで弟を計るのです。イエスさまを計った律法学者のようにしてです。

 このお父さんは、「死んでいた・・いなくなっていた」弟息子が、「生き返って・・見つつかった」と言っています(32節)。それは父親でしか感じる事の出来ない極めて深い思いであります。自分の愛する息子を見つけ出したお父さんの当然の喜びが、どれ程のものであったかが私に、少し分り始めています。4人の子どもたちの父親にしてくださった神さまが、それを教えてくださいました。兄息子は、この父親の《当然の喜び》を知るなら、弟をありのままで喜び迎え、苦しみを分け合い(箴言1717節)、弟を楽しみ愛することができるに違いありません。

 駄目で愚図で分らず屋の弟の私を見捨てられないで救って下さった、主イエスさまは、父なる神さまが私にくださった特愛の「兄貴」なのであります。「友」だとも、「救い主」だとも、「弁護者」とも言われるお方です。17で信仰告白をしたのに back slide し、22でバプテスマを受けたのに back slide し、25で精霊にバプテスマされて、一度も迷わず、まっしぐらにおいた今まで歩んできました。いつも傍に、「兄貴」がいてくれました。

キリスト教クリップアートの「放蕩息子の帰還」です)
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三重県

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 新しい年を迎えてしばらく経った時に、その一月の末か、二月のはじめに、三重県の鳥羽で、キリストの教会に仕えるみなさんが集まって、大会を続けていました。牧師や夫人、宣教師夫妻、神学生、兄弟姉妹が参加していて、《年初行事》のようにして、ほぼ毎年、わたしも参加していました。そこには新たなる主の一面を知り、素敵な人、そして何よりも再び新たな経験と出会いと、素晴らしい学びと、激励や挑戦がありました。

 そこに参加されるみなさんは、超教派の教会からおいででした。共通していたのは初代教会が、聖霊体験をしていたように、二十世紀の教会に、聖霊が注がれて、その傾注に預かった人たち、その経験を願う人たちが、一堂に会していました。賛美礼拝をささげ、聖書のみことばに耳を傾け、日本や世界の霊的な変化の起こることを願って祈り、参加者の交わりを楽しんだのです。

 その集いに行く時に、自分の街から、東名高速を経て、渥美半島の突端の伊良子岬の港からフェリーに乗って参加しました。そこで食べたイカの炭焼きの味が忘れられません。渥美半島は暖かなのでしょう、海岸線の畑には、「菜の花」が満開でした。真っ黄色な春を感じて、『今年は何を語られるのだろうか?』という期待が膨らんでいたのです。真夏のひまわりの黄色よりも、一足早く訪れた黄色な春を感じて、そう思ったのです。

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 ある時は、名古屋から陸路をとって、この大会に集ったこともありました。宣教師さんの運転する車に同乗してでした。まだ小さく幼かった子どもを、一人ずつ連れて行きました。海が綺麗で、食べ物も美味しかったのです。帰りには、名物の「赤福」を買って、留守をしていた家内や子どもたちの土産としました。

 ある時、この三重から一人の青年が、日曜日の礼拝に参加されたことがありました。『富士五湖の街に出張に来たついでにお寄りしました。』と言われる素敵な穏やかな感じの青年だったでしょうか。戦前戦時中に、聖書信仰に立って、国家権力に屈しないで、立派に信仰を守り通された教会の牧師のご子息でした。近くの常葉神社への参拝を、早退をしてでも拒んだ小学生のいた群れです。伊勢神宮への修学旅行にも参加しませんでした。轟々の非難の中、妥協せずに、聖書に従ったのです。社会的に著名な教会人が、伊勢や明治の神社に戦勝祈願をした対極にいた群れです。

 同級生が勤めていたミキモトの〈真珠〉よりも、はるかに輝いていたのが印象的でした。絶対的な少数者の悲哀など、全く見せないで、神に従う姿勢には、驚くべき力が、上から与えられるに違いありません。〈非国民〉、〈日本人に非ず〉と言われたのですが、依って立っていた「神国日本」が、ついに戦争に負け、天皇が「人間宣言」をしてしまいます。

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 わたしが北から順序に取り上げている都道府県で、この三重県を忘れてしまって、本州から、福岡県に移る前に、思い出して、遅まきながらの掲載になってしまうほど、小さな県なのかも知れませんが、戦前の三重県下の小学生の選び取りは輝いているではありませんか。それほど注目されずにきた街にこそ、本物が見られるのでしょう。

 初めて、〈松坂牛〉のステーキを食べた時に、『こんなに美味いもんがあるのか!』と驚いた三重県なのです。県庁は津、県花はハナショウブ、県木は杉、県鳥はシロチドリ、人口は174万です。律令制下では、伊勢国、志摩国、伊賀国で、天皇家の祖を祀るという歴史的な背景があって、重要な地でありました。そういえば伊賀は、〈忍者の里〉であって、そこには今でも忍者屋敷があると聞きます。


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 下の息子が、5歳くらいの頃に、おばあちゃんに作ってもらった、忍者装束を着て、田んぼのいねの間から、ヒューっと出ては、忍者になりきっていたのです。ある聖会に招かれた時、この子を連れて行きました。その忍者服を着て、おどけて見せて、みなさんの人気の的だったのです。

 中京工業地帯に位置する四日市には、日本最大の石油コンビナートが、1960年頃からの高度成長期に、国の主導で誕生しています。その誕生と共に、四日市公害で、学童たちの喘息発生が、大きな社会問題とされたのです。大気汚染を生み出した、経済優先、国力増強の負の遺産と言ったら良いのでしょう。

 「奥の細道」の松尾芭蕉、「古事記」の研究者の本居宣長などを生み出した県として有名です。真っ直ぐ、東名を走ると、京都や大阪や神戸、その先の岡山や九州に目が向いてしまって、名古屋から、なかなか脇道にはそれないのです。伊賀上野に知人がいて、お邪魔したことがありました。もう何年も何年も前のことになります。

 熊野川の上流には、杉の木が生い茂って、江戸時代から、上質の建築材の宝庫として名を馳せていました。今では外国の木材の輸入が主流になってしまっていますから、筏流しが行われるようなこともなくなっているのでしょう。熊野の地には、「熊野古道」という道があって、鬱蒼とした杉林を眺めることができるそうです。

 

行く夏来る秋

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 隣町の小山の花火、市内の七カ所で打ち上げられたと、ニュースが伝えていました。わが家の3期目と4期目の胡蝶蘭です。そして今朝、ベランダで開いた朝顔です。

 みんな《行く夏を惜しむよう」に感じられます。巡りくる秋待望の季節ですね。虫の鳴く音が、強く感じられています。今年も好きな海を見に行けませんでした。来年こそはの2022年の初秋です。

 薩摩芋が美味しいのです。スイカを食べて、芋まで食べれるなんて、こんな贅沢ができて感謝です。孫たちの青年期に、色々なことがあるのを聞きます。

 どんな色々も、成長するために必要なことだと解るのは、今ではなく、記憶が薄れる頃になってからなのです。だから生きるって、辛いことがあっても、楽しいことがあっても、とても面白いのでしょう。

 自分の弱さと強さを発見して、大人になるのかも知れません。父が老いていくのを見ていた日々を思い出すと、今は見られている自分に気づきかされます。

 毛抜きで生えてきた白髪を抜いていた、父の気持ちが、「白頭掻けば更に短き」、と杜甫が詠んだのを思い出して、たとえ「詩聖」と呼ばれても旅の空で老いを迎えていくのは、きっと切なかったのでしょうか。父も杜甫も、六十になる少し前のことでした。

 髪の毛も一生も、けっこう短く少しなのだと、迎える秋に思いいたす、次男の誕生日であります。

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