今頃でしょうか、秋になると、決まって、「二十世紀梨」が、わが家に送られてきました。母の出身地で、親戚のようにして交わりにあった近所の方で、戦争中に、予科練に志願した方がいました。戦後、中部地方の山の中で、木材業をしていた父を手伝っていた方です。この方が、父への感謝を、父の四人の子の私たち一軒一軒に、それは美味しく瑞々(みずみず)しい梨を届けてくれたのです。
それは鳥取の砂丘に栽培されたもので、今の幸水や豊水と言った種類の梨の原種になるのではないでしょうか。千葉県松戸市で、「青梨」が見つかって、それを品種改良したのでしょうか、「二十世紀梨」が誕生し、生育地として条件の整っていた鳥取砂丘で生産が行われ、一躍鳥取県の名産品となったのです。
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そう言うことで、私と「二十世紀梨」とのとりもつ縁で、「鳥取県」があります。山陰地方と呼ばれている県名の由来が、「古事記」にあるそうです。湿地の多いこの地方では、鳥を捕まえて生業(なりわい)にしていた狩猟家たちが多かったことが記されているようです。それで、「鳥取」という県名が決まったのだそうです。
律令制下では、「山陰道」で、「因幡国(いなばのくに)」、伯耆国(ほうきのくに)」と呼ばれていました。江戸期には「鳥取藩」で、池田氏が治めていました。県都は「鳥取市」、県花は「二十世紀梨の花」、県木は「大山伽羅木(だいせんきゃらぼく)」、県鳥は「オシドリ」、人口は59万人です。
最初の職場に3年いたのですが、この鳥取県の教員研修会が、「倉吉市」であって、出張したことがありました。母の親戚や知人のいる出雲市に行った記憶があっても、仕事の記憶が飛んでしまっています。さして大きな出来事がなかったからでしょうか。
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これは、母から聞かされた話なのですが、『歩かないわたしを、茂ちゃんが泣きながら背負って、山道を歩いてくれたのよ!』、と聞きました。予科練に行った屈強なまだ若いこの方を泣かすほどに、自分が我儘だったのです。大人になって、倉吉に出張で行った帰りに、足を伸ばして、お宅にお寄りした時に、母に聞いた話をして、詫びたのです。ただニコニコと笑いながら、「茂ちゃん」が聞いておいででした。
今わたしたちの住む栃木県には、「空港」はないのですが、鳥取県には、鳥取空港と美保空港(一部米子市ですから米子空港と言います)と2ケ所にあります。人口の最も少ない県なのに、それは驚くべきことです。ラッキョウ、スイカ、松葉ガニが特産品で有名です。父の若い日の写真の中に、海沿いの温泉地で撮ったものが残っています。多分、日本海に面した米子市にある「皆生温泉(かいけおんせん)」でのものかも知れません。
(「皆生温泉」の全貌の写真です)
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