二人の宣教師の光と影に

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 1924年に、パリで開催されたオリンピックに、イギリス代表で、短距離走に出場するように選ばれたのが、エリック・リデルでした。その100mの決勝の日は、日曜日であることが、前もってわかっていたので、厳格なクリスチャンだったエリックは、礼拝出席を優先して、代表を辞退してしまいます。ご両親が宣教師で、中国の赴任地であった天津で生まれておいでです。

 ところが、400m競技に出場の決まっていたリンゼーが、そんなエリックのためにに、その出場枠を譲ったのです。その好意に応えて、練習に励んで、オリンピックに参加することができました。彼は、優勝候補を押さえて、一位で入賞し、何と世界新記録を打ち立てて、金メダルを獲得することができたのです。

 オリンピックでの優勝の栄冠を得たエリックは、1925年エジンバラ大学を卒業して、父と同じ道に従うのです。両親を助けるために、天津に戻ったエリックは、1932年に教職者の任職を受け、カナダ人の女性と結婚し、3人の娘が授かります。すでに1931年には満州事変が起こっていた時期でした。

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 日本の支配が強固になる中、1941年、妻子をカナダへ送り返し、エリックだけが単身天津に残ったのです。1943年、日本軍により捕虜になり、山東省濰県の濰県収容所に収容されます。その収容所の中で、教育用の教材を編纂したり、文化・スポーツ活動を組織したのだそうです。ところが、1945年2月21日、脳腫瘍のため収容所で病死するのです。このリデルの獄中記が残されてい、生前に一人の少年との出会いがありました。

 収容所でのある日、エリックが導いていた聖書クラスで「山上の説教(マタイ5~7章)」を、子どもたちに教えていた時のことです。神さまに喜ばれて生きることについて話したのです。『自分の敵を愛しなさい!』と言うイエスさまのことばに、生徒たちが反発したのです。彼らの目の前の「敵」は、日本兵でした。彼らを愛することなどできません。『理想に過ぎない!』と思っている生徒たちに、エリックは続けて話したのです。

 『僕もそう思う。だけど、このことばには、「迫害する者のために祈りなさい」という続きがあることに気がついたんだ。僕たちは愛する者のためなら、言われなくても時間を費やして祈るだろう。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われた。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自己中心の人間になる。でも祈る時、君たちは神中心の人間になる。神さまが愛する人を憎むことはできない。祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。』

 エリックは、自分のはいていた靴を、オンボロになってしまった靴を履いていた一人の少年にあげたのです。彼は、エリックの話を聞いた後、日本と日本人のため祈り始めていたのです。もらったその靴は、天津での陸上競技にも出走していて、その競技会で、エリックが履いていた靴でした。そのことがあった後、間も無くしてエリックは亡くなるのです。

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 そんな交流があって間も無く、日本軍は降伏して、戦争が終わり、収容所から捕虜は解放され、この少年もイギリスに帰国するのです。エリックの話を聞き、ひどい仕打ちをした日本人のために祈り続けた、この少年は、聖書学校で学び、日本への重荷を持って、日本宣教に志すのです。それが、スティーブン・メティカフ宣教師です。

 1952年、このメティカフ宣教師は、日本宣教のために来日しています。青森県の金木町、青森市、五所川原などで活動をして、教会を建て上げていくのです。第二次世界大戦のさなか、中国で日本軍の捕虜となった14歳のイギリス人スティーブン少年は、収容所で出会った、エリック・リデルから、敵を赦し、敵のために祈ることを教えられました。

 その人物とは、映画「炎のランナー」の主人公として描かれたオリンピックのゴールド・メダリストだったのです。やがて少年は大人になり、かつての敵国、日本へ宣教師となって来日することに。歴史に翻弄されながらも、怒りと憎しみに押しつぶされることなく、愛と平和を伝える使者となった著者の半生を綴っています。  

 母は、子どもの頃に、カナダから来られた宣教師さんと出会って、信仰を持つようになりました。その母と同じく、私たち兄弟四人も、アメリカからの宣教師さんの教会で救いを告白をしました。父も、その教会の牧師となった上の兄の導きで、信仰を告白しました。

 また家内も家内の家族も、戦後間なく、日系アメリカ人の宣教師の伝道の中で、バプテスマを受けています。教会を受け継いだ宣教師さんのご家族に伴って、私たちは開拓伝道の補助者として、母教会から祝福されて出掛けることが許されました。

 『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』とのイエスさまの宣教命令に従った方々の学校でも学べました。文化も経済力も話す言語も違う国々に出掛けて行った人たちによって、福音が宣べ伝えられ、教会が誕生してきています。エリックもスティーブンも、その一人でした。

(“ウイキペディア”による現在の天津市、天津の五大道、パリのエッフェル塔です)

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輝きには表と影があること

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 スポーツには、「夢」があるのではないでしょうか。実際に闘う選手たちにも、それをすることはなく観戦し、応援するフアンにも、夢があります。選手の直向(ひたむ)きさがいいですね。野球やサッカーなどはメジャーなスポーツですが、そんなに華やかではなくても、どのスポーツにも、それに関わる選手にもスタッフにも、血を踊らせるものがあるのでしょう。

 そう言った輝かしい面の背後には、名選手でも、例えば、野球の打撃を見ても、5割を打つ選手はいません、ほとんどが3割

がトップの打率なのです。10回打席についても6〜7回はヒットにはならない、3回に1回だけがヒットなわけです。それと共に、高い調子を続けられなくなる「スランプ(slump)」に陥ることもあるようです。肉体的にも、心理的にも、原因不明の低調や不調に見舞われることがあるのです。ベーブルースを凌ぐような、あんなに好成績を打ち出す大選手でさえも、この経験があるのです。

 年齢的にも、まだ若いのに、原因不明の不振の時を迎えます。人か抱える限界だって、やがてやってきます。強烈で、長期に亘る絶調を経験しているのに、突如として不振に見舞われてしまいます。それは、名選手を謙らせられる時なのでしょうか。不可避の限界点の経験なのです。

 突然に、自分の思い通りのプレー(動き)ができなくなる、「イップス(yips)」もあります。野球やゴルフ、テニスなどのスポーツに多く見られる経験なのだそうです。緊張や不安などが原因するのでしょうか、精神医学的な症状と診られこともありそうです。神経疾患にもなるのかも知れません。期待過剰を感じて、それに応えられにように努力するからでしょうか。どうして、そんな時期がくるのかは説明できない状態です。

 また「プレッシャー(pressure)」があるのでしょう。期待の重さにつぶれそうになることもあり、自分がそれを満たさなければならない、責任を果たさなければならないと言う思いの中に入ってしまうことがあります。心理的な重圧感も感じるからなのでしょう。褒められると、飛び上がって、アドレナリンが増し加わるのでしょうか活躍できる人もいれば、そうでなく重圧に負けてしまう人もいます。これらは人生の縮図のような一面でもあります。
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 メジャーリーガーの鈴木誠也選手は、『野球はみんなが打てるわけではなく、助け合いです!』と、今回の大会後のインタビューに答えていたのを聞きました。本試合の打撃でも守備でも、そこで立って活躍できるのは、ほんの一部の選手であって、一緒に練習し合っている選手が多くいて、スタッフがいて、フアンがいて成り立つわけです。野球の寵児である大谷翔平選手は、自分の球団のスタッフに、心からの感謝を表す、もう一つ隠された面があるのです。

 例えば、駐車場の係の方の名前を覚えていて、病気で休むとお見舞いに行ったり、掃除をされる方の名前を覚えていて、一人一人を名前で呼んで感謝を表したりするのです。自分が野球ができるのは、そう言った裏方さんがいて可能なのだと、感謝できる人なのです。それは、成績よりも凄いことなのではないでしょうか。この大谷翔平選手には、全チームへの献身と感謝があるのです。

 フェアーな精神、対戦相手への想い、スポーツそのものへの愛、自分の球団に関わる方々への敬意などが、スポーツを娯楽以上のものにしているから、「夢」がふくらみ、叶えられのでしょう。脚光を浴びる試合に出て活躍するために、グラウンドで汗💦まみれ、泥まみれになってなされる隠れた練習が積まれ、重圧に押しつぶされそうになっていることを知ると、それらがあるから、それを克服しようとする影の部分があって、さらに興味を倍増させるのでしょう。
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 そこで野球に関する、私の大好きな話しを一つしてみましょう。大分県別府の出身の稲尾和久選手は、漁師の子で、1937年に7人兄弟の末っ子として生まれています。お父さんは人の手で艪を漕ぐ舟に乗り、漁をします。お母さんは夫が獲った魚の行商に出て、売り歩いたのです。その最中に、産気づいて和久を産んでいます。漁師を継がせたいと考えていたお父さんの願いで、小学校に入学すると、和久少年を伝馬舟に同乗させて、舟の艪を漕がせたのです。

 稲尾和久選手は、『薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日でしたが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついきました!』と子どもの頃を述懐しています。肩や下半身の強さは、お父さんの漁の手助けで鍛え上げられたことで、名投手となって、日本プロ野球に名を残したのです。

 そればかりではなく、投手として登板し、次の投手にマウンドを、稲尾和久選手が任す時に、必ず自分の使って荒れたマウンドを、手で整え直して、ロジンバッグを元の位置に置き直し、ボールを渡したのです。そんな、だれにもできないことのできる名投手でもありました。表と影との、そんな調和を持っていたのは、この時代に大活躍している大平翔平選手のしていることに並び評される野球人だったのです。

 夢を見るのは、年齢に関係ありません。聖書には、「老人は夢を見(る)」とあります。みんな夢を見ながら、今を生きるのでしょうか。若い人たちには夢を、もっと見て欲しいものです。

(“いらすとや”の投手と、グラウンド整備、漁をする人と舟です)

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気になさらないでください、と

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 60年振りの天皇ご夫妻と愛子さんが、WBC観戦後、お帰えりになられる時に、それを見上げながら、村上選手が、腕組みをし、ガムを噛んでいた態度は、不敬なのでしょうか?

 礼節って、守るべきなのでしょうか?

 接戦を闘い終えた野球選手は、緊張を解かれている時に、礼節が要求されるべきものなのでしょうか?

 どんな態度でも、常軌を失していなければよいのではないでしょうか。

 愛子さんに、礼節欠如をお詫びした人に、『気になさらないでください!』と言われたそうで、それでいいのではないでしょうか。

 みんなが同じでなくてもいいのではないでしょうか。違った様子や態度の人がいてもいいのでは。刺々しい方がこわいし、娯楽のひと時を共に過ごしているのですから。

 揶揄された村上選手も、ご退場時の始めの頃、しっかりご三方に拍手を送っていたではないでしょうか。

 あまり騒がずにやり過ごしたいものです。

 次戦、敵も味方も、応援の観客も、みんなで試合を楽しみたいものです。

(“いらすとや”の野球選手です)

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廃墟でのショパンのバラード第一

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 「戦場のピアニスト」と言う映画がありました。主人公のユダヤ人のピアニストのシュピルマンの回想をもとに、フランス、ドイツ、ポーランドの合作映画で、2002年に公開されたのです。私も観ました。時は1939年9月、 舞台は、ポーランドの首都ワルシャワで、ラジオ局の放送に、シュピルマンが出演して、ピアノ演奏をして生活をし、家族の助けをしていたのです。

 ところが、1939年9月に、突如、ナチスドイツ軍が、国境を超えてポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発するのです。その侵攻によって、ワルシャワでの日常が破られ、占領されてしまいます。やがてヨーロッパ最大の「ゲットー」と言われる「隔離居住区(高い塀で囲まれた地区)」の中に、ユダヤ人が閉じ込められ、そこから各地の収容所に送られたのです。人類最悪の犯罪、「ホロコースト(大虐殺)」が、狂気に駆られたナチスによって行われていったのです。

 そのような状況下で、奇跡的に生き延びたのがシュピルマンでした。映画の観せ場は、ドイツ軍の爆撃で建物は崩れ落ち、その瓦礫の中を、飢餓に見舞われ、あてどもなく彷徨う様子です。その姿は、戦争を、どんな理由があっても肯定できない悪に対する憎悪と否定の思いでいっぱいにされるのです。その建物の中で、食べ物を探し回るシュピルマンは、棚の中から、缶詰を見つけます。ところが、缶切りがありませんので、開けたくても開けられないままでした。

 そうこうしている内に、廃墟の建物の中で、ドイツ軍将校と鉢合わせをするのです。職業を聞かれて、シュピルマンは、ピアニストだと答えると、ピアノを弾くように言われるのです。躊躇しながら、ピアノの前の椅子を引いて座り、おもむろに、祖国ポーランド出身の作曲家、ショパンの「バラード第一」を弾くのです。その曲が廃墟の崩れ落ちたコンクリートの間に流れていきます。心も街も、何もかもが壊され、いのちを失った死の世界に、メロディーが美しく響き渡るのです。

 ナチスの横暴による迫害にさらされて、家族も仕事も失い、廃墟を彷徨うスピルマンの指は、鍵盤の上で力強くいのちに溢れるのです。その曲が奏でられる中を、ドイツ軍の将校ホーゼンフェルトは去り、翌日でしょうか、再び廃墟にやって来た彼から、ライ麦パンとジャム、それに缶切りを与えられるのです。音楽を愛するナチス将校とユダ人ピアニストの光と影とが、対照的に描かれていました。ロシア軍の捕虜となったホーゼンフェルトは、シュペルマンを助けたことを主張するのですが、助命は叶わず、後に収容所で亡くなります。

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 そんなシュピルマンを父に持つ、息子のシュピルマンの講演会が、2003年の7月に、当時住んでいた街の隣町の公民館であって、家内と教会に来ていた女子高校生と3人で聴きに出掛けたのです。子シュピルマン、は、拓殖大学で客員教授をされていて、「日本史」を研究されておいででした。しばらく九州産業大学で教えておいででした。また奥さまは日本人で、同じく大学の教員をされておいで、今は退職されていることでしょう。

 戦争が終わって、お父さまは結婚をされてから生まれたお子さんで、父の世代が被った「ホロコースト」を知らない世代で、子どもの頃、お父さんからは一度も、その体験を聞かなかったのだそうです。それに、父には親戚が全くいなく、ほとんど一族は、収容所送りで亡くなっていたので、戦時下の迫害の体験談を聞く機会が全くなかったと、子シュピルマンが語っておいででした。

 彼が、12才になった時に、父が1945年に書き著した「戦場のピアニスト」と言う本を読んで、初めて知ったようです。息子が大きくなるにつれ、ポツリポツリと体験談を話し聞かせてくれたのです。異常な体験者は、なかなか過去を語れないのでしょう。彼は、『父は真面目な人だったのです。』と、その講演の中で言っておいででした。一つは、音楽を家族を養うための手段にしなかったことです。父シュピルマンが、精神的に発狂したり、自殺に誘われたりしないですんだのは、音楽に関心を向け、ピアノを弾けたことだったのです。どんなジャンルの音楽にも興味を示し続けたと言っておいででした。

 もう一つは、お父さんが、「個人的な憎悪の思いを持たなかったこと」だったのです。父シュピルマンは、『人を個人として見るよう!』と、自分に言い聞かせたそうです。どの民族にも良い人と、そうでない人がいて、ドイツ人だってみんなが悪かったのではないこと、そう言った信念で解放後を父親は生きたのです。

 父スピルマンは、ユダヤ人的な物の考え方の人だったからでしょうか。今、イランとの戦争が勃発して、国際社会が緊張状態にあります。パレスチナだけの問題ではなく、全世界を巻き込みかねない情勢にあります。

『見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(新改訳聖書 詩篇121篇4~8節)』

『エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。」(詩篇122篇6節)』

 神に選ばれた民であり、神に愛されたアブラハムの篤い信仰のゆえに、民族として神に祝福されているのです。『アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶため(ガラテア3章13節)』との聖書によって、キリストの教会も、このアブラハムのゆえに、神に祝福されているわけです。それで「エルサレムの平和」を祈り、イスラエルの民のために、私は祈っています。イスラエルの動向は、「神の日時計」だと言われていまして、今がどのような時か、これからの時に、何が起ころうとしているかを、イスラエルが示すことでしょう。

(“ウイキペディア“の対戦下のワルシャワ市街地、”いらすとや”のピアノです)

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漢字を思い故郷と人を思う

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 古代の中国の「四大発明」は、羅針盤、火薬、紙、印刷だと言われます。この中で、紙と印刷に関わって、忘れられないのが、「漢字」です。私たちの国には、文字がありませんでしたので、口承で意思を伝えていましたから、何が起こったか、どんなことを考えていたかの伝達や記録を残せませんでした。ところが大陸との交流の中で4世紀後半に、朝鮮半島の百済(古代の韓半島西部にあった国)から日本に、論語や千字文を記す「漢字」が伝えられてきたのは画期的なことでした。

 この漢字伝来の担い手が、王仁(わに)でした。この人が、儒教の教えなどの学問を伝えてくれ、その教えが漢字で記してあって、文字がもたらされたのです。王仁は、十五代の応神天皇の招待によって、日本に来た時に中華思想をもたらしました。私が、若い頃に出会った研究者は、この「千字文」の研究をされた方でした。

 お隣りに、高校で国語を教えておいでの先生が住んでいて、交流があります。わが家に食事にお招きした時に、国語教育の話題があって、「義」と言う文字の成り立ちについて、門外漢の私が、お話したのです。これは「羊」を頭に戴いた「我」の合字であり、人が義とされるのは、「我(私)」が、頭に羊を戴く時、神の前に「義」とされると言うのです、と。少なくとも、漢代に、漢字が作られ、編集された折には、漢民族はこの意味を知っていたと言うことになります。

 また、「北」と言う文字は、次のように国語学者が、図表で解説しています。

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 この「北」の文字は、人と人とが、背中合わせでいる様を描いていると言うのです。意見や思想や生き方の違う二人の人が、相反して、離れていくことなのでしょうか。そして人は、失恋や喧嘩別れなどによって、相手と別れて、北に逃れて行くのでしょうか。作家の五味康祐が、次のように言っています。「逃げる」を、「北げる」と表記しているのです。『通常、人は南から北に逃げるのだ!』そうで、だから「北げる」で好いのだそうです。

 また、「背く」と言う意味も、この「北」を含めての合字になっています。顔の向く方向が、正面ですから、背は、敵となって背く側、逃げて行く方向になります。そう言った行為を、「背信」と言います。「乖離(かいり)」と言う言葉がありますが、この「乖」も、「北」が文字を形成していているのです。小説や映画は、南にではなく、北の北海道を逃亡先に、よく選ぶようです。

 渡り鳥に、「北帰行」をする鳥が何種類かいます。白鳥は、暖かくなると、北の故郷に帰っていく習性があり、食糧を求めたり、次の世代を産むために、想像を絶するほどの距離を行き来をするのです。その道を誤ることなく、ほとんど同じ飛行経路を繰り返してたどるのです。次の世代も、その次の世代も同じようなサイクルで生きるのです。 

 わが家の脇を流れる巴波川に、かつての舟運で係留した「河岸(かし)」の跡が残されていて、荷を運んだと同じ「都賀舟」が、遊覧船として観光客を乗せるのです。最近は、とみに観光客が増えてきていて、週末は、とてものにぎわいです。この時期、観光客の投げ与える餌を求めて、鴨が賑やかなのです。彼らも渡り鳥で、たまに留鳥がいますが、北帰行の時期には、川面にいなくなってしまうと寂しいのですが、また戻ってくるのが楽しみになっています。

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 文字が渡来する以前から、この鴨たちも、幾く世代にもわたって、故郷とこことを行き来していたわけです。その習性を、創造者が与えたのは、自然界の神秘でもあります。危険を伴う渡りをする彼らは、あんな小さな体で、よくするなあと思うのです。私にも帰っていく故郷があります。生まれ故郷ではなく、古来、そこへの帰還の約束に励まされて、創造者なる神さまを信じ続けてきた人が多くいて、そう願ったのです。聖書に、次のように記されてあります。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(新改訳聖書 ヘブル11章13~16節)』

 私たちの死は、人生の旅を終えて、この故郷への帰還だと信じています。どこか暗く不安な世界を彷徨うのではなく、本物の「故郷」に帰ることなのでしょう。独身の頃から、何かあると週日や、夏期や冬期の休みに訪ねてきて、色々と出来事を話してくれ、感謝な交わりをしてくれた兄弟がいました。桃やさくらんぼを栽培している実家から、時季の果物をよく持参してくれた方でした。昨秋も美味しい桃を送ってくれたのですが、一週間ほど前に、召されたと知らされたです。この約束の故郷にお帰りになったに違いありません。あの時々の素敵な交わりに感謝している夕べです。

(“ウイキペディア”による牛骨に記された漢字の原型、巴波川のカモです)

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蠢動の季節の到来が

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 「陸蒸気(おかじょうき)」と、わが国で呼ばれた蒸気機関車は、1814年、イギリスで、鉱山で採掘した鉱石を運ぶために、リチャード・トレビシックによって、産業革命期に発明され、工業用の資材の輸送に活用されています。1830年には、リヴァプールとマンチェスター間に、人を乗せて運ぶ「旅客鉄道」が開業されています。

 人車鉄道や馬車鉄道などに替わる、新しい動力が使われて、世界は一大変化を遂げていきます。輸送の量も質も格段の差が見られ、瞬く間に世界大に開ろげられていきました。栃木県下、とくに、ここ栃木市でも、鍋山から産する石灰が、人力によって鉄路の上を運ばれる貨車があって、私たちの住むそばを通っていたのだそうです。

 日本では、明治5年(1872年)に、お雇い外国人の指導を得て、明治維新政府の肝入りで、新橋と横浜(桜木町)間で、この蒸気機関車が、明治天皇を乗せて走って、華々しく開業しているそうです。これに端を発して、瞬く間に日本全土に鉄道網が増え広げられていきます。

 作詞が、大和田建樹、作曲が多梅稚の「鉄道唱歌」が、機関車が牽引する列車が、日本全国の町々を結んでいく様子を唄っていくのです。

汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後までも

窓より近く品c川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か

鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーション
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがす

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 この日本国有鉄道の勢いは、大陸中国でも、旧満州の大連と奉天(現在の瀋陽です)間で、撫順の石炭の輸送のために、南満州鉄道が敷かれていきます。その鉄路の上を、当時、世界最速と言われた「ハシナ号」と呼ばれた蒸気機関車が牽引した「亜細亜号」は、満鉄の誇った、日本の中国大陸進出と支配の大動脈となったのです。

 そのように大陸支配を続けましたが、戦争に負けて、一切のものを残して日本は、大陸から引き揚げることになったのです。王道楽土の夢は潰(つい)えてしまいました。当時の若者が夢を求めたのでしょうか、私の父親も、若い時に玄界灘を越え、外海を渡って、満州の地で過ごしています。

 敗戦のつらい経験を通った日本は、戦争の終わった後、平和憲法をいただいて、平和産業に従って、復興していきます。その際たるものが、1964年に開催された「東京オリンピック」の年に、それに併せて開業された、「東海道新幹線」でした。夢の超特急は、敗戦から立ち上がった標(しるし)のような思いを担って、東京と大阪を結んだのです。

 「禊ぎ(みそぎ)」と言う言葉があります。過去の罪や穢(けが)れを洗い清めるための神道(しんとう)の行事で、白装束で水ごりをとることを言っています。新幹線の車両を設計したのは、三木忠直さんでした。戦時中、「桜花」と言う戦闘機を設計した人で、多くの若者が、それに搭乗してアメリカの軍艦に体当たりをさせたことへの悔いの思い、禊の思いを込め、平和利用の化身のように、新幹線の車両を設計したのだそうです。

 自分は、61才で責任を負っていた教会を退職し、隣国の学校で日本語を教える機会を得たのです。出掛けて行って出会った方の推薦で、『日本語を教えて欲しいのですが!』と、言われてでした。そこで、またとない機会を頂いたのです。日本語の文化・政治・経済の講座と、作文指導を担当させて頂きました。日本人を「日本鬼子ribenguizi」と蔑(さげす)んだ反日教育を受けてきた中国の若い人に、侵略の過去をお詫びして、教壇に私は立たせていただきました。そして日本が開発し、その技術を導入して始まった中国新幹線の背景にある、日本新幹線の車両の設立者の戦後の思いを伝えたくて、三木忠直さんを、みなさんに紹介したのです。



 父も戦時中、戦闘機の防弾ガラスの原料の石英採掘の国策事業に携わって、侵略の一端を担った過去がありました。父が軍からの俸給で、ミルクを買い、産着を着せられて育てられた私の思いに、中国の町々に爆撃機が爆弾を投下して、夥しい数のみなさんを死なせ、街を破壊したことへのお詫びの思いが、強く若い頃からありました。それで、いつかそれを実現しようと思っていたのです。それが、まさに叶ったわけです。

 学生さんたちは、『你没有責任nimeiyouzeren(先生には責任がありませんから、ご自分を責めないでください!)』、と言ってくれました。でも自責の念が私には強かったのです。その教えの学生さんたちからの反響は、かなり大きかったと思います。それは、大学のクリスチャンの先生方の秘密裡に行われた聖会でもお詫びしたことでもありました。

 そんなことをさせて頂いた大陸の13年を、今朝、思い出しています。春になって、芭蕉のように「漂白の思い」が、フツフツと湧き上がってまいります。ポッポーと汽車に乗って、と言っても汽車ではなく電車でしょうか、県北においでの同世代、同業の知人を訪ねたいとの思いが長く温められています。また、子どもたちの住む街も訪ねたいな、と思う、人や虫や電車でさえも動き出す「蠢動(しゅんどう)の季節」になったようです。

(“ウイキペディア”による車両の写真です)

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麗な春がやってきて

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 晴れやかで美しいという意味の「麗(うらら)の春」、弥生三月の始まりです。やけに寒く、日本海側や北海道には、例年にない降雪の多さで、難儀された年末年始でしたが、もう春です。月末に始まる甲子園の時期にさえ、雪が降ったこともありましたが、やっとの春でしょうか。

 父も母も上の兄も、早生まれのこの月に生まれています。望まれなく生まれた両親でしたが、それぞれの定められた時に、主なる救い主に出会って、永遠のいのちの書に、その名を記されることが叶ったのです。兄は大きな期待のうちに、この両親から生まれたことでしょうか。いのちの創造者、支配者、付与者には間違いがありませんので、父と呼ばれた神さまに期待されての誕生だったのです。

 もうすでに家内は、春をみつけに出掛けて、探し当てて帰って来ました。13年、共に過ごした隣国は、春待望の強烈な人たちの国でした。火薬を発明したこの民は、それで「鞭炮bianbao🧨(爆竹)」を作り出し、まだ春には遠い時期に、それを打ち鳴らして、貧しさや寒気を追い払ったのでしょうか。あの炸裂音は、春待望の叫び声なのです。

 北の街で、気象台への道を歩いていた時に、足元で、爆竹の炸裂音で驚かされるとともに、真っ赤な紙片が飛び散り、火薬の匂いが立ち込めていました。夕方、外国人アパートに帰ると、今度は路地で、今度は花火を打ち上げに直面したのです。高度を取れない花火は、七階の窓の真横で、破裂音と共に炸裂して、火花が飛び散るのです。『こんな所で、花火を上げないで!』と言えないままでいたた思い出です。

 この春節の時期には、花火や爆竹を売る店の周辺で、爆発事故が起こり、火が燃え移って延焼してまう事故が、中国中で起こるのが常でした。それでも売って、買って、火をつけて春を喜ぶのです。長女が10年ほど住んでいたシンガポールで、この春節を迎えたことが、一度ありました。中華街の周辺は、大きな太鼓を積んだ車が練り歩いて、それを打ち鳴らして爆竹の代替にしていたのです。

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 〈所変われば品変わる!〉で、さすが治安の良いシンガポールならではの春節だったのです。その街に、甘粛省の「蘭州拉麺」の手延べ実演を、店主が見せてくれる有名店がありました。娘の贔屓の店で、美味しいのです。初めて行った時に、両親だと紹介してくれて、その店長が撮ってくれた写真が、店の壁に貼られていて、来店記念にしてくれているのです。

 その商店街の中には、広東省や福州省などからの移民の歴史館があって、「苦力kuli」のみなさんの生活ぶりが、振り返られて展示されてありました。その出稼ぎや移民のことについて、一人の姉妹の親族の「兄弟愛の話」を聞いたことがありました。もう退職をしていた元大学の先生が、教会の姉妹の故郷に招待してくださって、私たちを暖かく迎え入れてくださって、食事会を催して親族の交わりの中で、その会食中に、こんな話をしてくれたのです。

 「打工dagon出稼ぎ」先のシンガポールから、お兄さんの送金で、大学に行くことができ、大学院にも進んで、大学教授になれたという美談でした。激しい労働に耐えて、得た収入を送金し続けてくれたお兄さんに、とても感謝して、そう話してくれました。そう言った話が、教会の他の愛兄姉に幾例かあったようです。

 春が来ると、この爆竹や花火、シンガポー風の春節の様子が思い出されてまいります。日本とは違った春を愛でる様子は、とても新鮮でしたし、ある面では羨ましくも思えたのです。貧しい過去があって、民族民族の歴史性があって、春待望の様子の違いがあるのでしょう。私たちにとっても、家族が与えられて、いっしょに寒い季節を越えて、やってきた春の思い出は、新しい決心を持って、それぞれの世界に出立していった、四人の子どもたちの姿が、懐かしく思い出されてまいります。

 多難な世界情勢の様相を見せております。希望に溢れる、いのちの再生と躍動の弥生三月、春の始まりを期待して迎えたいものです。祝福をお祈りいたします。

(“いらすとや”の爆竹、“ウイキペディア”のシンガポールの中華街です)

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明治の世のボランティア

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  私たちの住む建物の西側に、明治初年に、写真館を始められて、今では五代目が営業をされておいでの写真館があります。初代は、日光東照宮を警護する役割を担った、日光勤番の武士だったそうです。明治の維新で、職を失った初代は、写真技術を学んで、初めは宇都宮で開業したのですが、県庁が栃木に移ったのを機に、ここ栃木に店を移したのです。

 幕末に、日光東照宮を守るために、命をかけて攻めくる薩長の官軍に、勇敢に立ち向かった一人が、この館主の片岡如松さんで、明治維新後、巴波川の河岸で、写真業を始められたのです。日露戦争が勃発して、ここ栃木からも、何人もの兵士が出征して行ったそうです。その兵士の出征記念の写真を、この方が撮影しています。その他にも、栃木の街の様子を、代々受継いだ館主が撮り続けてきました。

 明治期に、この街で、社会的な弱者に対して、国家施策としての援助が、今のようになかった明治期に、「喜捨函(きしゃばこ)」という箱をリヤカーに載せて、篤志家が街中の各戸を訪ねて歩いて、紙や布を求めて歩いたようです。その集められた物をお金に換えて、生活に困窮した貧窮者や寡婦や孤児のみなさんに配って支えていた方が、ここ栃木においででした。

 初代の片岡如松さんご自分が、戊辰戦争で戦った武士でありましたから、出征兵士の武運長久を願って、精いっぱいにシャッターを切って撮影したのだそうです。この写真館に一様の写真が残されています(片岡写真館蔵)。「栃木婦人協会 喜(七を三つの漢字です)捨函」と木製の箱に墨書された箱を載せて、リヤカーで曳く男性が写っているのです。その方が穏やかな目をした、冒頭の写真の平岩幸吉氏でした。

 この平岩幸吉さんは、安政三年(1856年)に、江戸の日本橋の裕福な米問屋の子として生を受けましたが、13才の時の明治維新の激変にあって、家業がつぶれてしまいます。その変化について行かれずに 、生活が定まらずにいて,とうとう23歳で家を追い出されてしまいます。それで知り合いのいる,ここ栃木に移ったのです。心を入れ替えた幸吉は、巴波川の辺りで料亭を始めます。

 商売は順調で、39才の時に結婚をし、養子をとります。落ち着いた44才で塾に通い、学問をし始めるのです。塾頭の久松義典から、「窮民救護」の考えを学び、その教えを実践し,救済団体を興し、栃木婦人協会も興すのです。あの「喜捨函」のリヤカーを曳いて、遠くまで出掛けるようになるのです。

 明治22年になると、両毛線が開通すると、それまで盛況だった舟運が斜陽になって、栃木の町の景気が悪くなり、病気をしても医者に診てもらえない人や老人や寡婦などの生活が急に悪化して、問題が生じ始めたのです。そこでやち上がって,困窮者を助け始めたのです。郷土栃木の誇る逸材の一人が,弱者救済に奔走したにが、この平岩幸吉です。この写真を撮られた方から五代目の後継者が,私たちのラジオ体操仲間です。昨秋,岩魚を釣られて届けてくださいました。美味しかったのです。

過去が変えられる秘訣が

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 イギリスでもドイツでも、欧州リーグで、女子サッカーが大人気のようです。ことに157cm、47kgの長谷川唯選手は、マンチェスター・シティ・ウィメンズ・フットボールクラブManchester City Women’s Football Club)のMFでチームの中心の動きを担っているのです。もう二十代後半で、驚くのは、黄色や赤色のカードのペナルティーがないことです。

 このサッカーに「PK」とか「GK」があるのをご存知と思います。サッカーのペナル・ティーキックやゴール・キックのことではありません。「パスターズ・キッヅ」の略で、「牧師の子」と言う意味で、「PK」があります。また「宣教師の子」のことを、「MK(ミッショナリーズ・キッヅ)」とも言うのです。

 これらの呼称は、教会用語の隠れた一部で、時には皮肉や軽蔑や非難を込めた言い回しで用いられることもあるようです。牧師さんや宣教師さんは、教会で高い所から説教をするけど、『家庭での子育てでは失敗者だ!』と言う酷評が込められているのです。でも、多くは、そのままでは終わらないのです。

 アメリカ大陸の太平洋沿岸部の大きな街の牧師に、3人の息子がいました。その十代だった長男は、その街の札付きの悪だったのです。自動車は盗むし、ありとあらゆる悪をしていて、警察に捕まえられては留置されることを繰り返していたそうです。地元の警察からは、厳重な監視をされていた少年だったのです。

 「ウエストサイド物語」は、ニューヨークのポーランド系とプエリトリコ系の非行少年の両グループの抗争の物語を、ミュージカル風に映画化したのですが、アメリカの社会問題を取り扱ったものでした。十代の少年たちの非行は、西海岸にもあったのです。東京にも大阪にも、そんなことがあったお話をよく聞いたことがあります。

 ところが、太平洋戦争に従軍して、帰還してから、彼は、急激な心の変化を見せて、悔い改めて、信仰が恢復されたのです。幼い日には、可愛い教会の子でしたが、心に植え付けられた良い芽は、温存されていて、この若者を恢復させたのです。.

 牧師の子は、自動的にクリスチャンにはならないのです。この方は、死線を超えて、生死の危機の中で、さまざまな心の葛藤を経て、主のみ前に謙らされた時、札付きのヤンチャさは消えてなくなり、元の鞘(さや)に収まったのです。

 最善な恢復の業がなされるのです。そして彼は宣教師となって日本に来ました。「選び」とか「予定」を信じない人は、そんな十代を生きた者を、宣教師に選ばれる神に、轟々の非難をぶつけて、躓いてしまうことでしょうか。それとも、神の恵みや憐れみの驚くべき深さを認めることでしょうか。どうも「放蕩息子の物語」は聖書の中にあるだけではなさそうです。

 ご家族にも、そして私たちにも、十代の所業の影一つ見せなかった謙遜さに溢れていたのが、この方でした。柔和そのもので、長年付き添った奥さまも、もちろんお子さんたちも全く気づかなかったほどだったのです。そんな宣教師さんは、私たち家族を招いてくださって、祝福の交わりをさせて頂いたのは、二度や三度だけではありませんでした。お宅のテーブルを囲んで、食事をしたり、交わりの中で、至福の時を過ごさせて頂いたのです。

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 この方が、天のふるさとに帰られ、アメリカに亡骸が軍の飛行機で戻って、母教会で、改めて葬儀が行われたのです。その時に、一緒に十代の時を過ごした弟さんが、この方の過去を、そう語られたのそうです。熱心な宣教師やよい夫を、彼が演じたのではないのです。すっかり変えられたわけです。この方に5人のお子さんがいます。異口同音、『素晴らしいパパだった!』とお父さんを懐かしんで言うのです。

 みなさん、牧師になったり、教会の中心的なメンバーとなっておいです。素晴らしいことであります。あんなに柔和だったけど、『パパは、とてもいたずら好きだったのです!』と、ご子息が言っておられました。

 人は変えられるのです。神さまに、変えられない人はいません。それが、神さまのお仕事だからです。どんな過去があってもいいのです。虐待されてもレイプされても、指を詰めても刺青をしても、警察に目を付けられでも、どんな過去があっても、イエスさまは、すべてを赦し、傷跡でさえも消して、快復させてくださるのです。

『・・ご自分の血によって民を聖なるものとするために(新改訳聖書 ヘブル13:12)』

  イエスさまは十字架で血を流してくださったのです。どうしようもないほどの汚れた私たちを、「聖なるものとするために」でした。感謝なことです。さあ、すべてのPKもMKも、そしてだれでもが、「GK」になることが出来るのです。「GK」って、ゴール・キーパーのことでは、もちろん違っていて、「ガッズ・キッズ(神の子)」のことです。

 人が救われるのは、ただ恵みによるからです。ただ赦され、恢復された人に残るのは、感謝なのです。救いの喜びです。栄光化への望みです。なんと驚くべき恵みではないでしょうか!〈長谷川唯も、最近よくスタメンなどで出場してる、若干20歳の藤野あおばも、直向きさがいいね。男子にない素直さ、隠れた闘志がいいね。反則や凶暴さがないのがいいかな。〉

(“いらすとや”のGK、ミモザです)

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春の陽光に誘われて

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 京都の同志社大学を起こした新島襄は、江戸の上屋敷で誕生していますが、お隣の上州安中藩の武家の出でした。子どもの頃から、街中や田舎にある神社に祀られている神が、神だとは思わないでいたそうです。蝦夷の函館からアメリカへの密航を果たして、香港に行く途中、中国船の中で、漢訳聖書を読みます。その巻頭に、『起初神創造天地』とあるのを読んで、『神いるとしたら、この方が神だ!』と思ったのだそうです。

 この新島襄は、在米中にキリスト信仰に預かり、帰国してから、同志社を開学します。彼の伝記の中に、その開学の経緯が述べられています。当時の文部大臣の森有礼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》でした。やがて日本が軍国主義化していく発端となるのですが。そういった動きの中で、一人の青年の思いに、危機感を覚え、そう思いの中に働かれたのは、主でいらったに違いありません。

 アメリカのアマースト大学で学んだ新島は、私立学校を建てる必要性を強く感じたのです。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる《自由教育》をしていきます。彼自身が、自由と自治の国、アメリカで学んだからでした。私は、この新島襄の大学に入りたかったのです。

 実は、中学の修学旅行で、京都と奈良を訪ねました。日本のことの佇まいは、関東とは違っていて、物珍しいものがあって、同じ日本でもその違いに驚いたり、強く惹かれるものがありました。二条城の広さや、龍安寺の石庭、清水の舞台、鴨川の流れ、古代建築の法隆寺の広大さなど、日光や鎌倉とは、また様子が違っていて、二、三日の歴史的な様子に、中学生ながら魅了されたのです。それで、『また来よう!』、中学3年、14才の私は、そう決心したほどでした。  

 ところが、中学生の感動は、日常生活に戻ると、すぐに忘れ去られてしまいました。なんとなく運動部に所属しながら3年が過ぎ、系列の高校に進学したのです。三年になって、進学を考える段になって、ギターを肩にかけて楽しそうに輝いた、B大に進学した2年先輩に久し振りに、駅で会って、その学校の様子を聞いたりしたのです。

 そのアメリカ人宣教師の設立した学校の入学案内を取り寄せて、読む内に、京都の同志社志向だった私の願いは、いつの間にか入れー変わってしまい、親元から通える、その学校に決めてしまったのです。その学校に、入学させてもらえました。けっこう、その4年間は、泣いたり、笑ったり、そして楽しく過ごさせてもらったのです。『猛烈に勉強をした!』と言うよりは、残念ながら、アルバイトをしての社会勉強をした年月でもありました。

 でも、本をよく読んだり、渋谷や新宿の喫茶店で、未熟な考えで自己主張のぶつかり合いや、新しく違った物の考え方に感心したり、議論したり、納得したりした時が楽しかったのです。同志社ではなかったのですが、それなりに心が高揚したり、落胆したり、将来に夢を繋いだり、意義深いものの有った4年間だったでしょうか。

 未熟で、何も知らなかった自分にとっては、世間の広さを知らされた時でした。思い出してみますと、その新しい人や考えとの出会いは偶然ではなく、基礎づくりの年月だったようです。どの時代の若者が通る道筋だったのでしょうか。人の考えや思いをはるかに越えて、そのすべての歩みに意味があったように感じるのです。青年期の仕上げに、創造主を信じることができて、自分が「神の子」とされたのは幸いでした。自分の生涯に起った、すべての出来事に、意味や価値のあったことが、今は分るのです。

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 新島襄の青年期の転機が、彼の生涯を導き、祝福し、有為な青年たちを教育し、キリスト信仰へと導いたことは意味深かったわけです。明治の初期には、信仰の自由はありませんでした。切支丹伴天連、耶蘇教は、まだ江戸期に続いて、禁教だったのです。そんな中で、新島襄が、大胆にもキリスト教主義の学校を、京都に起こしたことは驚くべきことでありました。

 新島襄の夫人になった八重は、隣県の福島の会津藩の武家の家の出身で、父親は藩の砲術師範でした。日本を変え、欧米諸国に追いつこうとした官軍に対して、女だてらに、スペンサー銃と刀を手に立ち向かい、「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われた武家の娘の八重でした。新島襄と出会って、キリスト信仰を共有して、同志社の建学の助け手となっていきます。明治期には、「日本のナイチン・ゲール」と称されたほど、日清・日露の戦争時には看護活動に奔走した、「赤十字精神」に立った明治屈指の女性でした。

 今も、教育の行方に、また若者の価値観や生き方やあり方に、大きな変化がありそうです。この21世紀にも、聖書の巻頭言を読んで、信仰を持つ信仰者たちが生まれて、明日の日本を変えていく人が起こり、二十一世紀の新島襄や新島八重が起こることを願う、2026年の早春です。

 その会津には、弁慶や義経がなめたと宣伝する「五郎米飴」が、今も名物としてあるのだそうです。そうしますと、八重もなめたのかも知れません。安中や京都へも、そして東武日光線、鬼怒川線、野岩鉄道線、会津鉄道線を乗り継いで、会津にも行ってみようかと誘われる春の到来です。

(”ウイキペディア“の会津若松市の市花の立葵、安中市の市花の梅です)

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