にがくも楽しい思い出が

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 まだ熊本の天草では、「ハマボウ」が綺麗に咲いているでしょうか。18の夏に、九州旅行に出かけ、小倉や別府や宮崎、長崎と平戸、熊本や鹿児島を訪ねました。結構大掛かりな貧乏旅行で、そこを訪ねたのです。

 熊本から、船で天草に行きました。まだ島と島とを結ぶ橋ができる前だったのです。天草の本渡に着いた日は、『台風が来る!』言っていた日でした。宿を、案内所で見つけたのですが、夜中の暴雨風で、窓が壊れてしまい、その晩は眠ることができなかったのです。天気予報に注意していたら、別のコースをとれたのにと、悔やんだものでした。でも実に美しい海の景色を見せてくれた所でした。

 そこ天草は、江戸時代の初期に、「天草四郎」という人物がいて、今の長崎県で起こった「島原の乱」のことを学んでいましたので、そこが、天草四郎の生まれた地であったことを思って、はるか昔に思いを馳せることができました。この天草四郎も、「ハマボウ」を眺め、朝日や夕日に映える故郷を楽しんでいたのでしょうか。

 ここは、島原半島と並んで、「からゆきさん(唐行きさん/”とは外国のことを意味していました)」として、東南アジアに売られて行った女性を、多く輩出した地であったそうです。「サンダカン八番娼館(山崎朋子作)」で有名になったのですが(ボルネオ島の西部にある街)、そこに、「娼館」があって、異国の地で亡くなった方の墓があったりと、悲しい物語を伝えています。

 この天草は、もう一度行って見たい思いがしています。滞華中に訪ねました、友人の故郷の東シナ海の「東壁島」も美しい島でした。そこで生活をするのは、かつては大変な苦労があったことが分かる、島の雰囲気を感じたのです。貧しさを克服するために、海外に出ていかざるを得なかったのでしょう。その海外からの仕送りで建てられた、まるで御殿の様に石造りの家が立ち並んでいたのです。また弟のために、シンガポールで働き、激しい労働で稼いだ金の仕送りで、大学で学ばせてくれた兄への想いを、大学教授を退職した弟さんがが話してくれました。

 それを見るほどに、漁業だけでは生きて行けませんし、農業にも土地が向いていない、さらに工業誘致もままならない中で、豪華な家々は、ミスマッチだったのです。一年に一度、「春節」に帰って来て、親族を招き合って、共に交わりをするための家なのです。計り知れない苦労や刻苦が感じられてなりませんでした。その様な光景は、天草では見られなかったのです。その島で、「ハマボウ」の様な花を見かけませんでした。

 わたしたちの世代は、日本が一番元気になろうとしていた時代、地方から大都市に向かって、中学校を卒業して、集団就職列車に乗って、大阪、名古屋、東京に十五歳のみなさんが出掛けていきました。一所懸命に働き、伴侶と出会って、家庭を築き、子育てをして、この国を支えて来た世代です。今温泉は、仕事を終えた企業戦士たちが、静かに目を閉じて湯に浸かり、椅子に座して時を静かに過ごしています。

 ハマボウの花ことばは、「楽しい思い出」なのだそうです。苦しさも、年を重ねた今になると、苦しかったことは忘れてしまい、全てが懐かしく、思い出にふけるのでしょうか。楽しかった過去の思い出が、一コマ一コマと瞼(まぶた)映し出されて来ます。悔いも涙もないのです。

(天草市の市の花のハマボウです)

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