まるでビー玉のような

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 『わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(イザヤ457節)・・・このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。(イザヤ4512節)』

 ここ栃木でも、秋から冬にかけて、夜空が澄んで、星が瞬いている様子を、もう間もなく見上げることができるようになります。広大な宇宙への憧れは、どなたでもお持ちなのかも知れません。ご多聞にもれず、わたしも月や星を眺めるにつけ、そのはるか彼方で輝き続ける様子に圧倒され、打ちのめされるような感じがします。

 1971年、アポロ15号が打ち上げられ、その飛行士であった、ジェームス・アーウインは、その前後の様子を、次にように語っていました。

 『・・・打ちあげの朝、車を走らせながら自分の人生を振り返り、いろいろなことを考えた。自分の人生はあれでよかったのか、きょうはどこへ自分は行こうとしているのか。本当はどこへ行きたいのか。

 やがて、あたりが明るくなった。太陽が昇る。空には打ちあげをさまたげるような雲は見あたらない。小鳥のさえずりが聞こえてきそうだが、車のなかは物音一つしなかった。ふたりとも口をきかなかった。ただ、いよいよだなという思いを込めて見つめ合ってほほえんだ。あまりにも多くの思いが、頭の中を駆け巡った。でも、語る言葉はなかった。

 ロケット発射台に着く。エレベーターに向かう。あの朝はいつもよりゆっくり歩いたように思う。ふたりはあたりを見回した。これが地上の見納めになるかもしれないとも思った。なに一つ見逃したくなかった。ロケットは朝日を浴びて白く輝いていた。そのサタン5型ロケットのはるかてっぺんに、われわれの乗る小さなモジュールが見えた。

 ロケットがきょうは身近なものに見える。うまく動いてくれるだろうか。本当に月まで連れて行って、また地球に連れ帰ってくれるのだろうか。そんなことを考えていた。・・・』

『・・・遠ざかるにつれ、地球は小さくなって、とうとうビー玉ほどに縮んでしまった。想像できないほど美しいビー玉である。美しく、暖かく、そして生きている。それは非常に脆くてこわれやすく、指を触れたら粉々に砕け散ってしまいそうだった(月へ向かう軌道上)。』

 そして、アポロ15号で月に到達したジェームズ飛行士は言葉を失った手、次のように感嘆したのです。

 『ここには神がいる!』

 地球から一番近い星である、宇宙空間に浮かんでいる月は、その神秘さを眺め続けてきた人にとっては、特別な存在でした。ところが、ジェームス飛行士は、そんな月から地球を見た時、その美しさや暖かさやもろさ、生きているのを感じて、圧倒されたのです。〈ビー玉〉のようだったと言うのです。今もありますが、ラムネの瓶の中に、このビー玉があって、手に入れたいのですが、瓶を割らなければ手にできませんでした。

 玩具屋の店先に、ビー玉だけが売っているのに、閉じ込められていると、余計にそれをこじ開けたい衝動に、子どもは駆られるのでしょうか。地球が遠くに、ビー玉状に浮かんで見えると言うのは、月を見るよりは神秘的に違いありません。そこで生まれ、そこで育ち、社会活動をしているからでしょう。

 人生も、こう言った距離をおいて見たり、考えたりしたら、また別な意味が出てきそうです。詩篇の記者、ダビデは次のように言っています。

 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足のに置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。(詩篇839節)』

 万物の神の「注目の的」、創造者としての神の愛の対象としての「人間」なのです。その神が、全宇宙を支配しているのです。それ程偉大なのに、私たちを愛して、わたしたちの傍らに、いつもいてくださると約束してくださるのです(☞マタイ2820節)。

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