教師を見続ける

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 『たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。 (イザヤ3020節)』

 もう今では、卒業式に歌わなくなったと言われる「仰げば尊し」ですが、恩師への感謝が溢れていて、素晴らしい歌だと思っているのは、もうわれわれの世代だけなのかも知れません。

 諸国漫遊をしていた河井継之助が、備中松山を訪ねています。道後温泉に入るためではありませんでした。そこに農の出で、漢学者となり、武士の身分を授けられて、松山藩の財政危機を救う敏腕を振るった、山田方谷がいました。十万両(今のお金に換算して三百億円)の財政赤字を、七年間で黒字に転じた藩財政の担い手でした。

 松山藩の領地であった西方村(現高梁市中井町西方)で生まれていますが、五歳の年に、丸川松庵の門に入って学ぶほどの「神童(しんどう)」の誉れが高く、京都で学び、帰藩すると、松山藩の有習館の会頭(教師)となり、三十五歳で学頭(校長)になっています。

 四十五歳で、松山藩主、勝静から元締役兼吟味役(財政担当責任者)に任命されて、その財政改革を行ったのです。主君が徳川幕府の「老中」になると、それを補佐したり、家老として藩政に関わっています。ですから、その方谷の名は、全国に広まり、多くの他藩の若者たちが、方谷のもとを訪ねています。

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 後に長岡藩の家老となる河井継之助も、その一人でした。西方村にいた方谷を、安政六年(1859年)に訪ねたのです。方谷が五十五歳、継之助が三十二歳ほどでした。訪ねて来た継之助の卓見ぶりを見抜いた方谷は、継之助を村外れまで見送ったのです。継之助は、川を渡って少し行きますと、継之助は立ち止まって振り返り、笠を取って、地に土下座して方谷を拝しています。また歩き、また歩いて、このことを三度も繰り返したのだそうです。

 ですから戊辰戦争で亡くなった継之助が、どれほどの人物だったかが分かります。小藩には、そんな世に隠れた逸材がいたことになります。戊辰戦争が、箱館戦争で終結して、明治維新政府が、薩摩、長州、土佐などの藩の藩士たちによって、機能していく上で、さまざまな身勝手さがあったのですが、朝敵で反旗を上げた河井継之助の様な人物がいたら、明治の世は、もっと違って、国民主導の政が行われていたことでしょう。

 そうならない歴史の不思議さに、残念な思いがありますが、責務を正しく果たさない者への審判は、後の世に任せて、自分は、真実、誠実、忠実に、創造者の前にあり続けたい者です。今日でも、この困難な国際情勢のもとで、他者のために働ける人材が、多く隠れているのではないでしょうか。

 わたしは、良き師に恵まれて、今日をあるを得ているのを覚えて、心からの感謝を覚えるのです。学校でもそうでしたし、教会でも伝道訓練でも、愛と仰いで学んだみなさんは、病んで召されてましたが、天に凱旋されて、喜び迎えられる、主の僕たちでした。その教えは残り、真理に目を開き続けています。わが救いの君、イエスさまは、今も「まことの師」であり続けていらっしゃるのです。

(“ キリスト教クリップアート “ からです)

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