父ちゃんがいたら俺だって

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 カナダ人宣教師のご子息が、韓国系の婦人と結婚をされました。彼女は、1950年代初頭に勃発した「朝鮮戦争」の戦時下に、韓国人のお母さんと進駐軍のアメリカ兵との間に生まれた、いわゆる混血孤児でした。生まれると間もなく、彼女は棄てられて、ストリート・チルドレンとなったのです。そして動乱の中を生き延びていきました。その壮絶な過去を、彼女はアメリカの教会で、証詞をしたのです。その証詞のテープを聞かせていただいたのは、もう30年近く前になるでしょうか。それは衝撃的なものでした。

 私の小学校時代、新宿の東口と西口を結ぶガード下には、垢で黒光りをした同世代のボロを身にまとった子どもたちが沢山いました。戦争で両親に死に別れた子たちや、彼女と同じように進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれて棄てられた子たちでした。ものすごい形相でにらまれたのを覚えています。『俺にだって、とうちゃんが生きていてくれたら、おめえたちのように風呂に入れて、腹いっぱい飯が食えたんだ。戦争のせいなんだ。バカヤロー!』と、きっと言いたかったに違いありません。

 私の父が戦死しないで、生き延びてくれて、育ててくれた恵みに、どっぷりつかっていた私には、彼らの痛みや苦しみに理解を示すことができなかったのです。それでも、同級生に親のいない極貧の子がいました。2歳上でしたが、一緒のクラスにいて、みんなから10円づつ集めてカンパしたことがあります。彼は私の〈立たされ仲間〉でした。『どうしているんだろうか?』と、彼のことが今でも、時々気がかりです。

 さて彼女のことですが、彼女のような出生の背景を持った子は、ほとんどが産まれると間もなく、母親の手で殺されたのだそうです。『私は母に感謝しているんです。母は私を殺さないで棄ててくれたから、それで私は生き延びることが出来たのです!』と言っていました。何でも食べて生き延びたのです。あるときビルの一室に投げ込まれた時、猫ほどもあるネズミが、仲間の幼い子を食べるのを何度も目撃するのです。でも助けてやれなかったことを悔やんでいました。

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 その筆舌に尽くしがたい体験を通りながら、15才の時に、「ワールド・ビジョン」の働きの中で保護されるのです。アメリカ人のクリスチャン夫妻の養女となって、アメリカで育ちます。家庭の中で、養父母の喜ばれるように生活をし、教会生活もして行くのですが、それは身に着けた孤児の、したたかな処世術の1つでした。ところが、ついにはっきりとイエスさまの恵みを知らされて、傷ついた心を癒やされて行くのです。そして、今でもなお、そのトラウマ(心的外傷)を癒やされる必要のあること、そのために夫の助けがあることをお話されていました。

 戦争には、必ず悲劇が伴います。今まさにウクライナの地に戦争が展開されています。戦死者や戦災者、孤児を出し、戦時下の異常心理や占領下の緊張は、兵士たちを、常軌を逸した非人間的で、肉欲だけの行動に駆り立てています。まるで獣のようにしてです。死に直面して、厭世的な思いで心を満たしてしまうからでしょう。地域紛争やテロ攻撃で戦乱の中にある国々、民族の間に、いつも見られることであります。人の争いや欲望は、世界を暗くしました。しかし、「福音の光」は、人間の傷ついた尊厳を回復させ、負った心の傷をも癒やしたのです。

(韓国の大邸の孤児院で食事を前にする男の子、戦場です)

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