天狗党

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 「出流天狗党」の事件が、幕末維新にあったようです。ここは水戸藩が近かったからでしょうか、そこでも「水戸天狗党」の蜂起があったと言われています。さらに北関東で江戸との関わりが強かったからでしょうか、討幕の拠点とされたのでしょう。「戊辰(ぼしん)戦争」の発端になった事件だったのです。鍋山村(今の栃木市出流)の出流山万願寺に立て籠って、尊皇討幕を期す一団が、慶応3年の晩秋に蜂起をしたのだそうです。

 今では、平和な村で、蕎麦が名物で名を馳せていますが、幕末に起こったことも、150年も経つと忘れられてしまっているように、蕎麦祭りに大勢の人が訪ねていました。市営の「ふれあいバス」に乗るために、幸来橋のたもとの停留所から、紅葉狩りに出かけたのですが、巴波川に架かる、この橋は、以前は、「念仏橋」と呼んでいたそうで、ここで、「念仏橋の戦い」があったのです。そこには、栃木宿の四方にあった一つの「木戸(宿場の入口)」があり、その辺での戦だったそうです。

 住んでいるアパートのそばに、「うずま公園」があって、そこに一基の供養塔があります。石塔に「西山尚義(謙之助)」と刻まれています。美濃国の人で、勤皇の志士、23歳で、その戦いで戦死した後、そこに葬られたのです。イギリス支配で、麻薬中毒者で溢れていた、清国の上海の街の植民地支配の惨憺とした窮状を、つぶさに見た高杉晋作の恐れは、当時の若者たちに共通する思いであったのでしょう。

 家族連れの子どもたちが遊具に乗ったり、お年寄りが談笑したりする、長閑な公園の近場で、そんな戦闘があり、死者が出たとは思えないほど、隔世の感がいたします。

 こんな近くに、幕末を感じさせ、その激しい時代の動きが、北の方の鍋山や出流山、日光例幣使街道の宿場町にもあったわけです。日本の歴史の中で、最も大きな動きのあった時期でした。

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希求

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 先日、近所のみなさんに誘われて、バスに乗って、栃木市の北に位置する出流山に、紅葉刈りに行き、こちらでは名物の蕎麦を食べに出かけた時に、十歳ほど年上の方と、テーブルを囲みながら話をしていました。戦争体験者で、地元でのことをお聞きました。また、家内が行っているリハビリ仲間のご婦人が、週初めに訪ねて来られて、ご自分の子供時代の「薙刀教練」のことなどを話してくれたのです。

 ここも空襲があったそうです。宇都宮には、航空基地があったので標的にされたのだそうですが、ここは、群馬県の太田市の空襲の帰り道に、余った爆弾を落として、米機が帰還したんだそうです。なぜ、太田市街が爆撃されたのかと言いましと、そこに、主に軍用の飛行機の製造工場があったからだそうです。

 太田市は、北関東随一の工業都市であったそうで、今でも日本有数の街だそうです。この街には、「SUBAR U(富士重工業)」があります。この会社、その前身は、日本の航空機やエンジンメーカーとしてアジアで最大、そして世界有数の航空機メーカーの「中島飛行機製作所」だったのです。

 その製造の記録が残されています。会社が始まってから終戦まで、製作された機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種でした。総生産機数は2万5935機もあったのです。ものすごい数の飛行機がつくられたまちだったわけです。その太田市の工場では、陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を製造しています。

 立川や横田の基地の近くで少年時代を送った私は、戦後、米軍機の爆音を聞きながら過ごしたのです。時々、墜落したことがあって、煙が上がるのをみたことがありました。弟は、何か拾って帰って来たことがあったかも知れません。中島飛行機の会社ですが、地下工場の建設計画があって、その途中に、戦争が終結してしまったのです。

 ですから、徹底的に爆撃された街でした。その爆撃機の帰り道に、栃木が爆撃されたのを、70年も経つと、笑って話せるようになるのですね。様々な戦後があり、その体験を語る人も少なくなって来ているようです。家内のお父さんは、その中島飛行機で仕事をしていました。私の父は、飛行機の防弾ガラスの製造に関わっていますから、戦争とは無縁ではありません。県都、宇都宮にも「中島飛行機製作所」の工場がありました。

 平和の時代に、自分は育って、子どもはもちろん、孫たちも、戦争とは無関係に生きていけるようにと願っています。孫たちの年齢では、もう兵士になって戦場に駆り出された、暗い歴史があるわけです。平和を希求すべきなのに、世界は戦争の火種を抱えたり、現に戦争が避けられない危機的な状況にあるのは悲しいことです。そんな今だからこそ、平和であることを願う年の暮れです。

(「群青色」による太田市の市立美術館です)

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山梨県

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 中部山岳地帯に金峰山があります。標高が2599mあり、山梨と長野の県境に位置しています。その一帯には、水晶の鉱床があって、およそ千年ほど前に発見されてから、掘り出されてきているそうです。この水晶の基盤が「石英」で、これが、硬質な防弾ガラスの原料として使われています。

 旧軍隊の戦闘機や爆撃機には、この防弾ガラスが使われ、国策事業として、その採掘が、山梨県の「黒平(くろびら〈地元の人は“くろべら”と言っています〉鉱山」で始められました。若干、三十代初めの父は、鉱山学を学んだ関係で、その軍需工場に、軍命で遣わされました。

 その赴任の山奥の旅館の別館が、家族の宿舎とされ、そこで、父母の三男坊として、12月に私は生まれ、2年後の晩秋に弟が誕生しています。父は、そこから山奥の採掘現場に通い、甲府の街に事務所を持っていて、馬で行き来をしていたようです。鉱山から索道ケーブルで、沢違いの村に石英が運ばれ、トラックで甲府駅に運び、京浜地帯のガラス工場などに届けられていたのです。

 上の兄は、甲府の街の上空が、アメリカ軍の空襲で、真っ赤になっていたのを覚えているそうです。大きな被害を被った街でしたが、山奥は平穏だったそうです。その石英の採掘の鉱山は、敗戦と同時に閉山となり、父は、県有林から木材を切り出して、しばらく事業をしていましたが、四人の男の子の教育を考えて、東京に出たのです。小学校一年の一学期まで、その鉱石の集積場の近くの宿舎で生活をしていました。大きな倉庫があって、そこで遊んだり、秋には、山の中に入り込む兄たちについて行って、「木通(あけび)」採り、沢で「山女(やまめ)」追いにくっついて動いていました。いわゆる私の「ふるさと」なのです。

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 私は、昭和40年代には廃校になってしまった、沢違いの村の小学校に、昭和26年に入学したのです。二人の兄は、級長でした。村長、郵便局長に並ぶ、村での立場だったそうで、それで選ばれたのでしょう。私は、肺炎で入学式にも、授業にも出ないまま、東京都下の八王子に転校してしまったのです。学校の記憶は、病気をする前に、上の兄にくっついて行って、隣に椅子を出してもらって、それに座っていて、お昼になって、弁当を分けてもらい、脱脂粉乳を飲ませてもらっただけの学校の記憶があります。

 次兄は、その、学校の「分校(本校が火事で焼けた後、上の兄はお寺、次兄は別の箇所に通っていました。私が上の兄と机を並べたのは、お寺でした)」に通っていて、悪戯をしてるのを、父の仕事場から見つけられて叱られていたのを覚えています。それが、故郷の記憶です。猟師たちが仕留めたのでしょう、策動で運ばれて来た熊や鹿や雉(きじ)が、大きな motor の横に転がされているのも覚えています。

 そこに、私たちは生まれたばかりの長男と3人で、宣教師の助手としてやって来て、つまり「故郷回帰」で、中国に留学するまで、32年間過ごした街なのです。長女、次女、次男は、その隣町の「母子センター」で産婆さんのお世話で誕生しました。ハエがブンブン飛んでいて、当時流行りの無菌室には真反対の施設でした。子どもたちにも私たち親にとっては、忘れられない地なのです。


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 城を持たなかった、「風林火山」で名を馳せた武田信玄の館のあった街です。「ほうとう(味噌煮込みうどん)」、「ぶどう」、「桃」の美味しい地なのです。「甲斐国」、「甲州」、日本橋を発って、内藤新宿、八王子、上野原を経て、信州の下諏訪宿で中山道に至る「甲州街道」の重要な役割を担った街でした。甲府は、江戸幕府の親藩で、江戸防備のための役割を果たしたそうです。それで「粋(いき)」な雰囲気の残る街でした。

 聞くところによりますと、新しい事業を始めるに当たって、テスト的に始める街なのだそうです。ここで成功したら、全国展開していくと言われていました。現在は、80万人強の人口を擁する県です。長く住んだ街から、富士山が見えるのですが、御坂山地が間に遮って、頂上付近しか見えないのは残念でした。何と、今住んでいます栃木市の四階の窓からは、富士の裾まで遠望することができるのです。

 右肩の腱板断裂の手術で手術を受けた時、入院した市立病院の同室に、教会においでの方のお兄さんがいて、しばらくご一緒でした。沢違いの山の中の出身で、同じ年の同じ月の生まれでした。この方にバプテスマをさせていただいたのが、日本での最後の機会でした。そして間もなく、中国の天津に出かけたのです。

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 多くの人と出会い、助けられながら子育てと、奉仕をさせていただいた県で、今でも、様々な出来事が、夢の中に出て来ます。自分の生涯で、生まれてから小学校入学まで過ごし、二十代の中頃から、一番好い時を過ごした街、県なのです。山歩き、温泉行き、葡萄や桃の収穫、蚕の世話などもさせてもらった地でした。「ふるさと」を、室生犀星は次のように詠みました。

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの

 そう、犀星は、「好ましからざる地」のように詠んだのです。ここから、さほど遠くではありませんが、私の「ふるさと」は、記憶の中に鮮明です。若かった父や母の姿、元気な兄たち、可愛い弟の姿が、あの時のまま思い出されて来ます。悲しくもないのに、懐かしさは涙を誘うのでしょうか。

 なぜ中国で13年もの間過ごしたのかと言いますと、父の掘った原石で作られた防弾ガラスを搭載した爆撃機が、中国の諸都市に爆弾を落として、多くの命を奪い、傷を追わせ、家財産を焼き壊したことへの「償いの思い」が止み難かったからでした。三人の兄弟たちには、そんな思いはなかったのでしょうけれど、私には、ズシンと重く迫ったのです。13年も過ごした華南の街も、その中心の市街地が爆撃され、三十数人が亡くなったと、河岸の歴史石板に事実が刻まれていました。

 人の世の歴史には、様々な繋がりがあるのでしょう。父と子、国と国、業と業、時と時には連続性があるというのが、不思議なのです。父の家の床の間には、長く、父の堀った石英の上に、見事に結晶した水晶が、置かれていました。どなたに上げたのでしょうか、いつの間にか無くなっていました。父の加担戦争は、その事で集結させたのかも知れません。

 今日は、日本軍が真珠湾攻撃をした、80周年の記念日になるのです。昨夕、訪ねて来られた家内の「rehabilitation」の仲間のご婦人は、二人のお兄様を、戦争で亡くされ、薙刀(なぎなた)の教練をしたとおっしゃっておいででした。「平和」や「平安」を、『祈りなさい!』と仰る神の願いが、高く掲げられるのを求めてやみません。

(「アケビ の花」、「甲州種のぶどう」、「石英」です)

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大雪

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 今日は、二十四節気の「大雪(たいせつ)」、ここ栃木市は、奥日光や那須に比べて、降雪量は少ないそうです。住み始めて、これまで、空に舞う雪はあったのですが、積もったのはまだ見ていません。

 雪景色が見られる前に、雨混じりの「霙(みぞれ)」の素手に触る冷たさの記憶があります。そんな中、丘陵の崖から、兄たちが作った橇(そり)で雪遊びをしたのが楽しい思い出です。

 中国に行く数年前に、古着をたくさん持って冬の大連に、家内と2人で、知人を訪ねました。ちょうど日本の正月で、中国の春節には、まだもう少し日がありましたが、街中は、降った雪が踏み固められていて、路面凍結でした。

 雪の多い土地に住んだことがないので、冬用の spike の付いた靴を履いたことが無かったので、まさか大連で、歩いたことがないほどの氷の上を歩かされたのには、驚きと、油断だったのです。

 覚悟をしてましたが、厳冬の大陸の寒さは聞きしに勝るものでした。降り積もった雪が、ice burn (路面凍結)で、家内が何度も転びそうになったのです。それで、天津の語学学校に留学する時に、次女の婿殿に、靴にはめる spike と、降雪時用のコートを送ってもらい、備えをしました。

 生乳工場のアルバイトで、アイスクリームの貯蔵庫に、箱入りの製品を積む作業をした時、零下35の冷蔵庫にいたことがありましたが、あの痛寒さを、大連で感じたのです。靴屋を探して家内に靴を買いましたが、spike は天津では不要だったのです。中国にいる間中、押入れのケースの中にしまったまま、帰国時に、置いて帰って来てしまいました。

 いくつも街に住んで、大雪(おおゆき)の経験は、子どもの頃と、中部山岳の街の三十数年の間に、2回ほどあったでしょうか。ここでも山を越すと、新潟県に寄った地には、これから積雪の季節がやってくるのでしょうか。そうしたらローカル線に乗って、駅弁を持ち込んで、車窓から雪景色、窓ガラスを打つ「霙」を眺めてみたいものです。

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物を大切にする

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 『わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。(箴言18節)』

 『負うた子に教えられ!』、行き道に迷った時に、背中の子が、『お父さん右の方!』と言って教えられることなのですが、長男と同い年の一人の野球人から教えられたことがあります。

 今、時の人となった日本ハム・ ファイターズの監督に就任した新庄剛志のことなのです。就任以降の言動でもありません。BIGBOSS が、プロ野球選手として、阪神タイガースや日本ハムやMLB(米リーグ)で活躍していた現役時代のことなのです。

 私の育った街の家の近くの空き地、旧国鉄の貨物の積み込み積み下ろしに作業上の空き地で、学校から帰ると、三角ベース野球をやっていました。軟球で、ほとんどが素手で球を取り、棒切れを加工したバットででした。庶民の子たちが夢を見ながらの遊びだったのです。

 私たちの長男が、『野球をしたい!』と言うことで、「スポ少」に入った時に、練習着とクローブとバットを買って上げました。『プロの選手になったら、お父さんとお母さんに自動車と家を買って上げるね!』と、野球小僧の常套句を言っていましたが、その言葉は果たすじまいに、野球から、息子は離れてしまいました。

 新庄剛志は、プロ野球選手になった時に、初任給でグローブを買いました。大阪に本社のあるZETT社製で、7500円だったそうです。プロ野球選手としての17年の間、修理を重ねながら、それを使い続けたのです。NLB日本プロ野球では、守備への高評価の《golden globe 賞》を、「10回」も獲得していた選手でした

 プロともなれば、〈使い捨て〉が当然のように思われますが、17年もの間、同じグローブを使い続けると言うことの中に、驚くべき決心や物への愛や感謝などがあるのが感じられるのです。お父さんが、『商売道具は大切にしろ!』が言った、その一言が、その動機付けだったのです。

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 《物を大切にする》と言うと、私の弟の使っている皮の肩掛けバッグを見て、その言葉の意味が分かるのです。当に処分すべき代物で、皮はハゲ縫い目はほつれたのを、自分の手で縫い直しては、手入れをして、今なお現役で、誇らしく使い続けているのです。ほんとうに見栄えの全くない、老いぼれたバッグです。それなのに、教え子たちが、恩師への感謝で贈答してくれた《宝物》は、捨てられないでいるのです。教え子のみなさんが知ったら、どんなに嬉しいことでしょうか。

 家を持たない家内と私のために、中国にいる間中、帰国時に過ごすために、彼の退職金などで買ったマンションの一室を、《私たちのための部屋》として用意してくれていたのです。なんと兄夫婦想いの優しいことでしょうか。家内の帰国時の通院、そして発病、入院、通院で、さらにはコロナ禍で、この部屋は使えないままでいます。

 彼は、シャツの襟を裏返しにして、自分の手で、針と糸で縫い直して着続けているのです。そう言った事を、父を見てたのでしょう。良質な物を使うのを旨としていた父は、誂えたワイシャツの襟が擦り切れると、裏返しにしてもらって着続ける人でした。一棹(ひとさお)のタンスと本箱だけを持つだけの《簡素な生き方》をし続けていたのです。そのタンスの上に背広や小物を入れた紙箱が二つほどあったでしょうか。天に召された時、何も持っていませんでした。物への執着のない人で、持っている物も大切にしたわけです。新庄剛志と弟と父の生き方を思い出した、物の溢れる師走です。

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危機の時代

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 「日本語」について、こんなことが言われています。『世界の言語の中で、<植民地化>されていない唯一のものです!』とです。

 アジア圏では、インドやフィリピンやシンガポールやマレーシアの公用語は、英語です。イギリスには、海外に60ヵ国もの植民地があったのですが、その内のアジア圏の国々ででのことです。日本でも、そうなる可能性がありながらも、国体を守って、植民地になることから守られてきたのです。ポルトガルやイギリスの経済力に包み込まれていたら、早い時期に、ポルトガル語や英語が公用語となていたかも知れませんね。

 戦争に負けた後も、そんな危機感があったのですが、避けられたわけです。それと関係があるのでしょうか、日本人の英語力が弱くて、外交上に折衝時に、自国の主張が語られないもどかしさを産んでいる様です。島国の中でことが足りるという状況が、未だに続いているからでしょうか。私は、子どもたちを、私の手元に置いておきたかったのですが、おやにねがいとうらはらに、彼らは英語圏のアメリカで教育を受けたのです。でも、今思うに、彼らが英語を駆使できるということは、好かったと思えるのです。

 在華中に、日本語を学びたいと願って、住んでいた家にやって来ている子どもたちが何人もいました。その学習動機は、日本のアニメと漫画なのです。これは、中国だけではなく、世界中で、漫画とアニメの「日本文化」が、ブームを起こしていると言うことのようです。

 中国の中学生に、『「食戟のソーマ」って何ですか?』と尋ねられたのですが、「食戟」も「ソーマ」も日本語である事を、彼に教えられて、ネットで調べたのです。それは漫画とテレビアニメの主題でした。調理学校を舞台に、その漫画の主人公が「ソーマ」で、調理の対決が「食戟」なのだそうです。

 手塚治虫の「鉄腕アトム」から始まり、宮崎駿のアニメが、大人気を博して、そのブームになっています。今では、「鬼滅の刃」が注目されてるのでしょう。確かに、若手の漫画作家たちの作風や内容には、驚くほどに目を見張るものがあります。梅雨の新宿御苑を舞台にした「言の葉の庭(新海誠監督)」の、冒頭のアニメには驚かされてしまいました。雨に降る様子を描いた動画が、実写で見ているかの様に描かれていたからです。

 そんな作品を、翻訳ではなく、日本語で理解したいのが、現代の世界の若者たちで、<日本語ブーム>が起こっているわけです。東洋の神秘性ではなく、狭い国土の中でつちかわれてきた独自の文化が、脚光を浴びてきているのでしょう。日本文化が解き放つ「感性」に共鳴する人が、世界中に多くいると言うことです。

 NHKのラジオニュースを聞いていますと、「アルファベット化する日本語」が、ますます進んでいるのが分かります。英語やフランス語を日本語の中に入れ込んで、古来ある言語表現を使わなくなっているのです。英和辞典が必要ですが、元の spell が分からないと、引きようがありません。『言葉は生きていて、時代が形作るもの!』だとするなら、それも、自然の流れなのでしょうか。

 「zengakuren」、「tunami」、「karaoke」などの日本語が、逆に外国語の中に入り込んでいるだけではなく、日本語化の傾向はまだまだ進みそうです。戦国時代の頃から「カステラ」、「合羽(かっぱ)」、「アルバイト」などの外国語を吸収しながら、「母語」として日本語を保ち続けてきた事は、驚くべきではないでしょうか。でも、言葉の危機の時代を迎えているのかも知れません。

(「言の葉の庭」の一場面から)

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感嘆の的

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 『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(詩篇4026節)』

 華南の街の学校の同僚に、「茜(あかね qiàn )」と言うお名前の女教師がおいででした。就学前の男の子さんを連れて、わが家にやって来られたことがありました。日本語の教師をされていて、博士号を、早稲田大学に留学して取りたいと願っておられました。それでも、なかなか道が開かれなかったのです。

 きっと、真っ赤な夕焼けの綺麗な夕方に生まれたのでしょうか、ご両親が、そう命名されたのです。寒くなって来たのでしょうか、北関東の太平山に沈んでいく太陽が、未練を残すかのように、茜色になって沈んでいきます。

 この「茜」は、根の部分が、「赤根」と呼ばれる植物で、草木染めに用いられてきました。野原や道端のどこでも生える草で、蔓は3mくらいにもなるようです。「茜さす」と言うように、枕詞にもなっています。

 あかねさす日の暮れゆけばすべをなみ 千たび嘆きて恋ひつつぞ居る

 万葉集の中にもみられます。「紅」でもなく、「赤」なのです。私の生まれた村は、奥深い山峡の渓谷でしたから陽の光は乏しく、朝焼けや夕焼けの記憶は全くありません。七十前半から住み始めた北関東は、関東平野の外れで、東に筑波山が見え、晴れた朝は、新しい一日を祝すかのように、その周りから陽が昇ってくるのを眺めることができるのです。それだけで、心が躍って来ます。

 夕べには、富士山から太平山にかけて、稜線をクッキリと浮かび上がらせるように、日が沈んでいきます。それに宵の明星が煌めきを添えています。創世の昔から輝き続けている天体を、地球は、一日をかけて自ら回転しながら、季節によって角度を変えながら眺められ、いつも勇気付けられ、励まされ、また慰められるてきているのです。

 内蒙古の呼和浩特 Hūhéhàotè の草原で見た星空は、驚天動地でした。その深遠

な輝きは、まさに神秘的でした。星雲の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えるほどだったのです。。八ヶ岳の自然の家の戸外で眺め、福岡の八女の星野村で見上げた星夜も素晴らしかったのですが、それとは規模が比べられないものでした。見上げる場所で、これほど違うものだと言うことに驚かされました。

 南十字星を見たかった私は、教会のセミナーに参加で行ったアルゼンチンと、義兄訪問で寄ったブラジルで、見る機会があったのですが、天気のせいでしょうか、眠かったからでしょうか、願いを果たせないまま帰国してしまいました。

 2006年の夏に、中国語の語学学校に留学するために、中国東北部の天津に出かけて、イギリスのNPO法人が探してくださったアパートの七階に住み始めたのです。。その 阳台 yangtai(ベランダ)から、大陸の地平線に沈んでいく真っ赤な色に染まった大きな太陽に、圧倒させられたのを、昨日のように覚えています。

 切なかったのは、子どもの頃に、枯れ草の中で見上げた夜空に輝いていた星々です。青く冷ややかだったのは、家出の身の上の寂しさゆえだったからなのでしょうか。同じ星の光なのに、境遇や立場によって、こんなにも違っていたのです。そう言えば、「星の王子様」も、星の追っかけをしていました。

 太陽を周回する「惑星」の一つの地球に、78億7500万もの人が住んでいて、様々な営みが繰り広げられているのですね。愛したり憎んだり、助けたり奪ったり、笑ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりしています。宇宙旅行もできそうな時代を、私たちは迎えているのですが、神秘の世界に、どこまで入っていけるのでしょうか。

最高の神秘は「人」ではないででしょうか。万物の創造の最高傑作です。茜色の夕空を染める空を造り、それに感動する人を造られた創造者がおいでです。このお方は、私たちの「感嘆の的」でいらっしゃいます。

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江戸の人

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 子どもたちが学んだ中学校が、わが家から歩いて5分ほどの所にありました。その裏門は「逆コの字」の道路の家の影にあって、そこに、忘れ物を持っては、届けさせられたことが何度かありました。正門は、大通りから入ったところにありました。

 まだ、わが家の子どもたちは小学校に通っている頃でした。その中学の正門から少し行った所に空き地があって、中学生が十数人たむろして、蠢(うごめ)いていたのです。そこを通りかかった時、二人が殴り合いをしていた、いえ、一方的に体の大きい、ヤンキーくんが相手を殴りつけていたのです。『さあ、そのくらいにしよう!』と言って、二人に間に、私は割って入ったのです。

 中学校の教師たちは、校門の中でウロウロ、ゴソゴソと遠目で眺めてるだけで、仲裁に入らなかったのです。そのヤンキーくんに、『俺知ってるか?』と聞いたら、『教会のオッチャンずら!』と答えたのです。教会の前を、小中と通学していたのでしょう。彼も、やめられない所に、私が、中に入ってホッとして、挙げた手を下ろしたのです。

 『何やってるんだ?』と聞いたら、『タイマン(一対一の喧嘩のことです)!』と答えたのです。相手は、中学校の生徒会長で、彼の方から、タイマンを挑んだのだそうです。喧嘩慣れしていたヤンキーくんの一方的な優勢だったのです。二人とも、ホッとして別れ、その中学生たちは散って、学校に引き上げて行きました。

 何日か経って、その生徒会長が、お母さんと一緒に、私たちの教会(横にある借家を借りていたのです)、家に訪ねて来られたのです。『先日はありがとうございました!』とお礼と、菓子折りをいただきました。お母さんに、暴力はともかく、お子さんの義に立った勇気を褒めて上げたのです。それっきりでした。

 今日、新聞の記事に、『中村吉右衛門、七十七歳で逝く!』と言う記事を読んで、同学年、戦争末期に生まれ、同じ時代の空気を吸いながら生きてきた〈一フアン〉の私は、重く思うことありなのです。歌舞伎役者の父の子として生まれた吉右衛門、軍需工場長の子として生まれた私、それぞれに生きてきたのですが、吉右衛門は病を得て亡くなり、私は生き残っているわけです。

 若い頃に、《同世代の星》、同じ学生として、東京のどこかですれ違ったかも知れませんが、全く接点などないのです。子どもに教えられて、華南の街の夕べ、youtube で、手に汗を握りながら、ネット配信の「鬼平犯科帳」を観て、同世代人の華々しい吉右衛門の活躍ぶりを観て、暫しの娯楽を取ったことを思い出したのです。

 吉右衛門にお嬢さんが四人おいでで、そのお嬢さんを連れて、Tokyo Disney land に行ったのだそうです。そうしましたら、すれ違った一人の男の子が、吉右衛門を見て、『あゝ《江戸の人》だ!』と言ったのだそうです。「鬼平」でも、「歌舞伎役者」でも、「播磨屋」でもなく、そう言われたことに、いたく感じ入ったのだそうです。

 テレビの画面で観た長谷川平蔵を、「江戸」と結び付けられたことが、吉右衛門には自慢だったわけです。この人の雰囲気が、男の子に「江戸」の風を感じさせた演技者だったわけです。そんな逸話を目にして、四十数年前のことを、私も思い出したのです。《教会のオッチャン》と、自分が〈キリストの教会〉と結び付けて呼ばれたことを、私も自慢にすることにいたしましょう。

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夕と朝

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 『 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(創世記15節)』

 初冬の朝晩、日の出と日の入りの北関東の空は、抜群に綺麗です。聖書は、夕があって、その後に朝があるという順序で書き記しています。暗くなる夜の到来と、陽が昇り明るくなる朝の到来が、人の世の移り変わりの順序なのでしょう。これまで明けなかった暗い夜はなかったのです。必ず陽の煌めく朝が来るからです。

 不安や恐怖の時代の只中で、人は楽観的なのか、困難さを考えようとしないでいるのか、けっこう、上手に生きられるのかも知れません。まだ貧しかった時代、欧米人が、日本にやって来て、庶民の生活を見て驚いたのは、〈お愛想(あいそ)笑い〉をする笑顔だったそうです。そのはにかむ様子を見せる日本人の笑いに、異質なものを感じたのだそうです。生きるのに厳しい状況下で、苦虫を噛み締めることだってできたのに、そうしないで、ヘラヘラと、ニコニコと笑えるのが、《日本人の特性》なのでょう。

 コロナの渦中で、仕事を失っても、食べ物がなくても、ドッコイ生きて行く法が、私たちには備わっているのでしょう。多くの人たちが、動じずに、静かに生きているのです。神を知っていたユダヤ人は、どんなに嫌われ、迫害されても、理不尽さや逆境の中で、望みを抱いて生き、そして死んでいきました。《神の顧みの日》が、必ずやって来るのを信じていたからです。

 『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ1633節)』

 同じく、神を知る、いえ神に知られている者として、明日に希望をつないで生きていける《基督者の特性》も、逆境に、真正面から立ち向かって、勇敢に生きられることを、代々(よよ)の基督者が証明して来ているのです。

 狡猾で、不可解なこの世の中で、イエスさまこそ、勇敢な一生を生き、十字架で死ぬことによって、宥めの供物の使命を果たし、死を打ち破って《甦られた》からです。今、父の右の座で、信じる私たちにために《執り成しの祈り》をされ、《助け主聖霊》を下さり、私たちを迎える場所を設けておられ、それが完成したら《迎えてくださる》のです。

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 義母は、終戦後の食糧難の時代、六人の子を養うために、自分の食べる分を削って子に与え、栄養不良で、「肺結核(肋膜炎)」に罹りました。そんな病いの中で、長女が手にして帰って来た、教会が配布した「ビラ(トラクト)を読んで、教会に跳んで行き、質問を繰り返した後、キリストの「十字架」の死、その死から蘇られたことを信じたのです。さらにキリストの「癒し」を信じて、癒され、102歳まで生きて、天に帰っていきました。

 私の母も、産みの両親のない養女の身の上の中で、幼い日にキリストを信じて、万物の創造の神、キリストの父なる神と出会います。その神を、自分の「父(アバ)」と呼んで、信頼して、従って生きました。48歳の時に「卵巣癌」で、余命半年を宣告されたのですが、

 『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(ヨハネの黙示録2212節)』

の聖書を読んで、癒されました。それから元気に生きて、95歳で、同じく天に帰っていきました。その信仰を継承して、私も家内も四人の子も、その配偶者たちも、孫たちも、私の兄弟たちも生きています。それって、神の「憐れみ」なのです。多くのことのあった2021年も、祝福の中を生かされたのです。ただ感謝あるのみの12月です。

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忘年か歳忘れか

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 今日は12月1日、『もう!」という、時の過ぎゆく早さです。老朽化と、一昨年の台風被害で、家の取り壊しが、この街のあちらこちらで行われ、通りに両側が歯が抜けるように、更地が増えている昨今です。かつては、『〈〇〇通り〉と呼ばれて、それはそれは賑やかでした!』と聞きます。先頃、〈銀座通り〉のアーケードの屋根が、取り払われ、昔の繁栄を知る地域の人は、肩を落としています。

 そんな駅前空洞化の進む街の外れに住み始めて、3年近くなります。江戸時代には、日光例幣使街道の宿場で賑わい、江戸との物資の輸送を担う「舟運」で栄えた地域なのに、お年寄りの多さが、目立ちます。日曜日の朝の〈ラジオ体操会〉に誘われ、〈脳梗塞に気をつけましょう!〉の講習会にも誘われ、先頃は〈老人会〉にも誘われ、紅葉狩り&蕎麦食べ会に参加するようになっています。

 すっかり地域に馴染んでしまいました。刻の野菜や果物を頂いたり、お土産のお裾分けも分けてもらい、なんだか父母の時代に住んだ街の〈隣組〉のような関わりができて来ました。そうしましたら、今度は、〈忘年会〉なのだそうです。お酒は飲まないし、今年だって、〈忘れてしまいたいこと〉など皆無な私たちで、感謝して生きた年だったので、参加を躊躇しています。

 この「忘年」という言葉は、中国の故事「忘年の交わり」に由来するのだそうです。もともとは「歳(とし)忘れ」の意味だったのだそうです。それが、過ぎて行一年の苦労を忘れる「年忘れ」に、摺り替わってしまったようです。

 昔は、高貴な人たちが、「歳忘れ」という会合をもっていたのだそうです。そこで和歌を詠み合い、連歌を詠む会が、いつの間にか定着してしまった〈忘年会〉なのです。職場にいた頃、言いたいことを普段は言えない人が、酒の勢いで何でも言ってしまうような無礼講になってしまって、責め合いになるので、嫌いでした。

 〈感謝会〉の方がいいですね。家族で参加するような食事会になるような会社もあったようです。まあ〈ご苦労様会〉で、賞品がもらえたり、プレゼントの交換会になるのならいいですね。そんな意識改革があったらいいのに、こう言ったことは旧態依然が、日本の社会なのでしょうか。

 昔の賑わいを忘れられないのは人の常、先日の年配者の紅葉狩りの遠足で、会長の床屋さんが、『俺のオヤジが、学童疎開の子どもたちの頭を刈って上げるために、バスに乗ってやって来たのは、この村だったよ!』と、オヤジさんの出身の村を語っていました。奥深い村から、賑やかな栃木の街に出て来て、丁稚奉公をして、〈暖簾分け〉で独立したのでしょうか、お嫁さんをもらって店を出して、二代目を継いだ会長も80後半のお爺さんです。折角の出会い、正月前に、二十年来自分で刈ってきた坊主頭を、綺麗にしてもらいに行こうか、思案中です。

(賑わっていた頃の栃木市の繁華街です)

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