先日、近所のみなさんに誘われて、バスに乗って、栃木市の北に位置する出流山に、紅葉刈りに行き、こちらでは名物の蕎麦を食べに出かけた時に、十歳ほど年上の方と、テーブルを囲みながら話をしていました。戦争体験者で、地元でのことをお聞きました。また、家内が行っているリハビリ仲間のご婦人が、週初めに訪ねて来られて、ご自分の子供時代の「薙刀教練」のことなどを話してくれたのです。
ここも空襲があったそうです。宇都宮には、航空基地があったので標的にされたのだそうですが、ここは、群馬県の太田市の空襲の帰り道に、余った爆弾を落として、米機が帰還したんだそうです。なぜ、太田市街が爆撃されたのかと言いましと、そこに、主に軍用の飛行機の製造工場があったからだそうです。
太田市は、北関東随一の工業都市であったそうで、今でも日本有数の街だそうです。この街には、「SUBAR U(富士重工業)」があります。この会社、その前身は、日本の航空機やエンジンメーカーとしてアジアで最大、そして世界有数の航空機メーカーの「中島飛行機製作所」だったのです。
その製造の記録が残されています。会社が始まってから終戦まで、製作された機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種でした。総生産機数は2万5935機もあったのです。ものすごい数の飛行機がつくられたまちだったわけです。その太田市の工場では、陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を製造しています。
立川や横田の基地の近くで少年時代を送った私は、戦後、米軍機の爆音を聞きながら過ごしたのです。時々、墜落したことがあって、煙が上がるのをみたことがありました。弟は、何か拾って帰って来たことがあったかも知れません。中島飛行機の会社ですが、地下工場の建設計画があって、その途中に、戦争が終結してしまったのです。
ですから、徹底的に爆撃された街でした。その爆撃機の帰り道に、栃木が爆撃されたのを、70年も経つと、笑って話せるようになるのですね。様々な戦後があり、その体験を語る人も少なくなって来ているようです。家内のお父さんは、その中島飛行機で仕事をしていました。私の父は、飛行機の防弾ガラスの製造に関わっていますから、戦争とは無縁ではありません。県都、宇都宮にも「中島飛行機製作所」の工場がありました。
平和の時代に、自分は育って、子どもはもちろん、孫たちも、戦争とは無関係に生きていけるようにと願っています。孫たちの年齢では、もう兵士になって戦場に駆り出された、暗い歴史があるわけです。平和を希求すべきなのに、世界は戦争の火種を抱えたり、現に戦争が避けられない危機的な状況にあるのは悲しいことです。そんな今だからこそ、平和であることを願う年の暮れです。
(「群青色」による太田市の市立美術館です)
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