生きよ

.

.

 『わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ──だから、悔い改めて、生きよ (エレミヤ1832節)』

 『わたしを求めて生きよ (アモス54節)』

 人の一生って、瞬(まばた)きの間のように短いんです。死に急いではもったいないのではないでしょうか。すべきことが多いのです。し忘れないように、生きている間に一つ一つしなければなりません。

 戦時下、山奥の村で、村長さんの奥さんに取り上げてもらったのが、昨日のことだったかのように(これって記憶にないのですが、母に言われて知りました)思えるのに、もう喜寿を迎えてしまい、もういつでも、主の元に帰ってもおかしくない年齢になりました。

 先頃、同じ時代の空気を吸い、吹く風の中を生きてきた同世代の中村吉右衛門が亡くなったのを知って、そんなことを思っています。美男美女の子の美女に生まれて、誰もが羨むように生きてきたのですが、心の中の寂しさはどうしようもなかったのでしょうか。神田沙也加さんが亡くなってしまいました。

 恋に命をかけるのですが、みんな上手ではありません。結婚を急ぐのですが、失敗してしまいます。正しい女性性が育っていないからです。男を見る目が未熟で、少女のような恋愛をして、現実に対応できなくて敗れてしまします。寂しいので、また恋に恋しますが、自信がありません。

 そんな時に、どなたかに腹を割って話せる人がいたらいいのです。ところが、二親は離婚してしまって、正しい結婚観を持つ機会を失い、結婚の結末を考えて、『わたしも!』と不安に苛まれてしまうのです。同じようになる、言い知れない恐れを感じながらの恋は辛いでしょうね。

 『何でも話せる友を持て!』と、若い時に言われました。人生上の葛藤、戦いを、隠さず洗いざらい話せる人がいたら、大きな救いになるからです。自分の性、恋、悪癖、恐れなど一切合切です。話してしまって、問題の柵(しがらみ)から解放され、解決の糸口が見つけられるのです。

 車を運転して、愛媛県に出かけたことがありました。母と同世代の牧師さんでした。快く受け入れてくれ、一日共に過ごして語り、聞き、泊めていただいたのです。そんな若い日がありました。逃げず、隠さず、正直に物事に直面する術(すべ)を教えていただいたのです。

 それから今日まで生きてきました。昨日、『オギャア!』だったのに、今日は、同世代の知人の死の報を聞き、生を全うした同世代の死、死に急いだ女優の死のニュースを耳にし、「いのちの重さ」をひしと感じているのです。下の図表は、自殺に原因です。tap すると大きくなり見えやすいです。

.

.

『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1章10節)』

 ドイツ人のルツ・ヘトカンプ宣教師が、1971年に「東京いのちの電話」を開始しています。電話による相談によって、悩んで苦しむ人や自殺願望者のお相手をして、人生の危機を回避する働きなのです。その協力者が、当時、東京下谷で牧会をしていた菊池吉彌牧師でした。

 背景はキリスト教ですが、日本社会では超教派が好いということで、今日まで続けられています。

「東京いのちの電話」

03ー3264-4343(二人で語ろうよ、しみじみ)

.

 .

特定非営利活動法人自殺対策支援センター「ライフリンク」

 この支援センターの相談員として、長男が奉仕に関わっています。苦しくっても人は生きなければなりません。生きていくための支援や援助はあるからです。究極は、《創造者とに出会い》です。なぜ生きているのか、どうして生きなければならないのかが、この出会いで、その極意やきっかけを見つけられるに違いありません。

(「キリスト教クリップアート」、「2013年度自殺白書」からです)

.

桜花と新幹線

.

. 

 すでに十年近く経ちましたが、「日本文化と経済」の講座の担当を打診されて、承諾をしました。翌年の学期の授業に備えて、教材の準備をする中で、「東海道新幹線の開発」を取り上げたいと思ったのです。それで授業の中で、NHK制作の「プロジェクトX」を、中国の学生さんたちに観てもらったのです。

 この日本の新幹線を取り上げたのには、理由がありました。単に日本の技術を誇るためではなかったのです。その事業の責任者の一人で、設計を担当した、三木忠直氏のインタビューを知ったからです。この方は、こう言いました。

 『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんです。』

 技術畑ではありましたが、戦争責任者であった人が、敗戦後をどう生きるかを考えた時に、《平和》を希求したことに、私は共感を覚えたからでした。三木忠直は、父と同じ学年でした。二人とも技術畑で働こうとしていて、三木忠直は東大の工学部で船舶工学を学び、父は、秋田高専で鉱山採掘学を学んだのです。

 そして二人とも戦時下で、軍事産業に従事したのです。三木忠直は、爆撃機の桜花や銀河の開発に携わりました。上官の命令で製造した「桜花」には、地上を滑走する車輪が取り付けてありませんでした。大型機に抱えられて飛び立ち、ちょうどglider のように滑空しながら敵艦に体当たりする片道飛行の爆撃機だったのです。


.

 そんな無謀な戦争に加担して、多くの同世代の犠牲を生み出したことへの悔恨の思いが三木忠直にありました。そん中で、戦後間もなく、銀座教会に渡辺善太牧師を訪ねて、その交わりの中で入信し、バプテスマを受けて基督者となるのです。それで戦後を新しい気持ちで生きる覚悟を決めたわけです。

 誰もが暗中模索だったわけです。三木や父の同学年に、青森県津軽の出の太宰治がいました。何度も自殺未遂を繰り返し、ついには玉川上水で情死を遂げてしまいます。文壇の寵児、優れた小説家でしたが、生き方を見つけられなかった人だったのです。

 ところが生き方を見出した三木忠直は、その設計に没頭します。殺人機を生み出した頭脳を平和に利用しようとしたのです。新幹線開業の時を同じくして、私はアルバイトをしながら、電車内の buffer(ビュッフェ/食堂車)の食材搬入のアルバイトを、東京駅でしていました。

 私の父も、その桜花に搭載した防弾ガラスの製造に関わり、あの戦争に加担したこと、その飛行機が、東アジア諸国を爆撃して、人や物に被害を与えた者の子として、償いの思いで、中国に参りました。私の計画にはなかったのですが、天津での一年の語学の学びを終えると、華南に導かれ、そこで日本の大学院で博士号を取られて、大学の法学部で教師をしていた方が訪ねて来られ、お交わりに中で、日本語教師を求めているとのことで、その機会を得たのです。

 日本文化や経済なども教える機会が与えられて、戦後の日本のあり方が、平和を願い、戦争相手国への謝罪といった意味でも、鉄道事業を紹介できたのは、中国版の新幹線が開業しようとしていた頃で、時宜を得たことだったと思ったのです。その授業を終えて、帰国して、京都から新幹線に乗った時、何度も乗ったのことがある新幹線でしたが、なんとも重い気持ちと、平和の響きがレールの上を走る車軸の擦れる音から聞こえたのです。

(「初代の新幹線」、「桜花」、「プロジェクトX」です)

.