桜花と新幹線

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 すでに十年近く経ちましたが、「日本文化と経済」の講座の担当を打診されて、承諾をしました。翌年の学期の授業に備えて、教材の準備をする中で、「東海道新幹線の開発」を取り上げたいと思ったのです。それで授業の中で、NHK制作の「プロジェクトX」を、中国の学生さんたちに観てもらったのです。

 この日本の新幹線を取り上げたのには、理由がありました。単に日本の技術を誇るためではなかったのです。その事業の責任者の一人で、設計を担当した、三木忠直氏のインタビューを知ったからです。この方は、こう言いました。

 『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんです。』

 技術畑ではありましたが、戦争責任者であった人が、敗戦後をどう生きるかを考えた時に、《平和》を希求したことに、私は共感を覚えたからでした。三木忠直は、父と同じ学年でした。二人とも技術畑で働こうとしていて、三木忠直は東大の工学部で船舶工学を学び、父は、秋田高専で鉱山採掘学を学んだのです。

 そして二人とも戦時下で、軍事産業に従事したのです。三木忠直は、爆撃機の桜花や銀河の開発に携わりました。上官の命令で製造した「桜花」には、地上を滑走する車輪が取り付けてありませんでした。大型機に抱えられて飛び立ち、ちょうどglider のように滑空しながら敵艦に体当たりする片道飛行の爆撃機だったのです。


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 そんな無謀な戦争に加担して、多くの同世代の犠牲を生み出したことへの悔恨の思いが三木忠直にありました。そん中で、戦後間もなく、銀座教会に渡辺善太牧師を訪ねて、その交わりの中で入信し、バプテスマを受けて基督者となるのです。それで戦後を新しい気持ちで生きる覚悟を決めたわけです。

 誰もが暗中模索だったわけです。三木や父の同学年に、青森県津軽の出の太宰治がいました。何度も自殺未遂を繰り返し、ついには玉川上水で情死を遂げてしまいます。文壇の寵児、優れた小説家でしたが、生き方を見つけられなかった人だったのです。

 ところが生き方を見出した三木忠直は、その設計に没頭します。殺人機を生み出した頭脳を平和に利用しようとしたのです。新幹線開業の時を同じくして、私はアルバイトをしながら、電車内の buffer(ビュッフェ/食堂車)の食材搬入のアルバイトを、東京駅でしていました。

 私の父も、その桜花に搭載した防弾ガラスの製造に関わり、あの戦争に加担したこと、その飛行機が、東アジア諸国を爆撃して、人や物に被害を与えた者の子として、償いの思いで、中国に参りました。私の計画にはなかったのですが、天津での一年の語学の学びを終えると、華南に導かれ、そこで日本の大学院で博士号を取られて、大学の法学部で教師をしていた方が訪ねて来られ、お交わりに中で、日本語教師を求めているとのことで、その機会を得たのです。

 日本文化や経済なども教える機会が与えられて、戦後の日本のあり方が、平和を願い、戦争相手国への謝罪といった意味でも、鉄道事業を紹介できたのは、中国版の新幹線が開業しようとしていた頃で、時宜を得たことだったと思ったのです。その授業を終えて、帰国して、京都から新幹線に乗った時、何度も乗ったのことがある新幹線でしたが、なんとも重い気持ちと、平和の響きがレールの上を走る車軸の擦れる音から聞こえたのです。

(「初代の新幹線」、「桜花」、「プロジェクトX」です)

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