山梨県

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 中部山岳地帯に金峰山があります。標高が2599mあり、山梨と長野の県境に位置しています。その一帯には、水晶の鉱床があって、およそ千年ほど前に発見されてから、掘り出されてきているそうです。この水晶の基盤が「石英」で、これが、硬質な防弾ガラスの原料として使われています。

 旧軍隊の戦闘機や爆撃機には、この防弾ガラスが使われ、国策事業として、その採掘が、山梨県の「黒平(くろびら〈地元の人は“くろべら”と言っています〉鉱山」で始められました。若干、三十代初めの父は、鉱山学を学んだ関係で、その軍需工場に、軍命で遣わされました。

 その赴任の山奥の旅館の別館が、家族の宿舎とされ、そこで、父母の三男坊として、12月に私は生まれ、2年後の晩秋に弟が誕生しています。父は、そこから山奥の採掘現場に通い、甲府の街に事務所を持っていて、馬で行き来をしていたようです。鉱山から索道ケーブルで、沢違いの村に石英が運ばれ、トラックで甲府駅に運び、京浜地帯のガラス工場などに届けられていたのです。

 上の兄は、甲府の街の上空が、アメリカ軍の空襲で、真っ赤になっていたのを覚えているそうです。大きな被害を被った街でしたが、山奥は平穏だったそうです。その石英の採掘の鉱山は、敗戦と同時に閉山となり、父は、県有林から木材を切り出して、しばらく事業をしていましたが、四人の男の子の教育を考えて、東京に出たのです。小学校一年の一学期まで、その鉱石の集積場の近くの宿舎で生活をしていました。大きな倉庫があって、そこで遊んだり、秋には、山の中に入り込む兄たちについて行って、「木通(あけび)」採り、沢で「山女(やまめ)」追いにくっついて動いていました。いわゆる私の「ふるさと」なのです。

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 私は、昭和40年代には廃校になってしまった、沢違いの村の小学校に、昭和26年に入学したのです。二人の兄は、級長でした。村長、郵便局長に並ぶ、村での立場だったそうで、それで選ばれたのでしょう。私は、肺炎で入学式にも、授業にも出ないまま、東京都下の八王子に転校してしまったのです。学校の記憶は、病気をする前に、上の兄にくっついて行って、隣に椅子を出してもらって、それに座っていて、お昼になって、弁当を分けてもらい、脱脂粉乳を飲ませてもらっただけの学校の記憶があります。

 次兄は、その、学校の「分校(本校が火事で焼けた後、上の兄はお寺、次兄は別の箇所に通っていました。私が上の兄と机を並べたのは、お寺でした)」に通っていて、悪戯をしてるのを、父の仕事場から見つけられて叱られていたのを覚えています。それが、故郷の記憶です。猟師たちが仕留めたのでしょう、策動で運ばれて来た熊や鹿や雉(きじ)が、大きな motor の横に転がされているのも覚えています。

 そこに、私たちは生まれたばかりの長男と3人で、宣教師の助手としてやって来て、つまり「故郷回帰」で、中国に留学するまで、32年間過ごした街なのです。長女、次女、次男は、その隣町の「母子センター」で産婆さんのお世話で誕生しました。ハエがブンブン飛んでいて、当時流行りの無菌室には真反対の施設でした。子どもたちにも私たち親にとっては、忘れられない地なのです。


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 城を持たなかった、「風林火山」で名を馳せた武田信玄の館のあった街です。「ほうとう(味噌煮込みうどん)」、「ぶどう」、「桃」の美味しい地なのです。「甲斐国」、「甲州」、日本橋を発って、内藤新宿、八王子、上野原を経て、信州の下諏訪宿で中山道に至る「甲州街道」の重要な役割を担った街でした。甲府は、江戸幕府の親藩で、江戸防備のための役割を果たしたそうです。それで「粋(いき)」な雰囲気の残る街でした。

 聞くところによりますと、新しい事業を始めるに当たって、テスト的に始める街なのだそうです。ここで成功したら、全国展開していくと言われていました。現在は、80万人強の人口を擁する県です。長く住んだ街から、富士山が見えるのですが、御坂山地が間に遮って、頂上付近しか見えないのは残念でした。何と、今住んでいます栃木市の四階の窓からは、富士の裾まで遠望することができるのです。

 右肩の腱板断裂の手術で手術を受けた時、入院した市立病院の同室に、教会においでの方のお兄さんがいて、しばらくご一緒でした。沢違いの山の中の出身で、同じ年の同じ月の生まれでした。この方にバプテスマをさせていただいたのが、日本での最後の機会でした。そして間もなく、中国の天津に出かけたのです。

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 多くの人と出会い、助けられながら子育てと、奉仕をさせていただいた県で、今でも、様々な出来事が、夢の中に出て来ます。自分の生涯で、生まれてから小学校入学まで過ごし、二十代の中頃から、一番好い時を過ごした街、県なのです。山歩き、温泉行き、葡萄や桃の収穫、蚕の世話などもさせてもらった地でした。「ふるさと」を、室生犀星は次のように詠みました。

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの

 そう、犀星は、「好ましからざる地」のように詠んだのです。ここから、さほど遠くではありませんが、私の「ふるさと」は、記憶の中に鮮明です。若かった父や母の姿、元気な兄たち、可愛い弟の姿が、あの時のまま思い出されて来ます。悲しくもないのに、懐かしさは涙を誘うのでしょうか。

 なぜ中国で13年もの間過ごしたのかと言いますと、父の掘った原石で作られた防弾ガラスを搭載した爆撃機が、中国の諸都市に爆弾を落として、多くの命を奪い、傷を追わせ、家財産を焼き壊したことへの「償いの思い」が止み難かったからでした。三人の兄弟たちには、そんな思いはなかったのでしょうけれど、私には、ズシンと重く迫ったのです。13年も過ごした華南の街も、その中心の市街地が爆撃され、三十数人が亡くなったと、河岸の歴史石板に事実が刻まれていました。

 人の世の歴史には、様々な繋がりがあるのでしょう。父と子、国と国、業と業、時と時には連続性があるというのが、不思議なのです。父の家の床の間には、長く、父の堀った石英の上に、見事に結晶した水晶が、置かれていました。どなたに上げたのでしょうか、いつの間にか無くなっていました。父の加担戦争は、その事で集結させたのかも知れません。

 今日は、日本軍が真珠湾攻撃をした、80周年の記念日になるのです。昨夕、訪ねて来られた家内の「rehabilitation」の仲間のご婦人は、二人のお兄様を、戦争で亡くされ、薙刀(なぎなた)の教練をしたとおっしゃっておいででした。「平和」や「平安」を、『祈りなさい!』と仰る神の願いが、高く掲げられるのを求めてやみません。

(「アケビ の花」、「甲州種のぶどう」、「石英」です)

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