江戸の人

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 子どもたちが学んだ中学校が、わが家から歩いて5分ほどの所にありました。その裏門は「逆コの字」の道路の家の影にあって、そこに、忘れ物を持っては、届けさせられたことが何度かありました。正門は、大通りから入ったところにありました。

 まだ、わが家の子どもたちは小学校に通っている頃でした。その中学の正門から少し行った所に空き地があって、中学生が十数人たむろして、蠢(うごめ)いていたのです。そこを通りかかった時、二人が殴り合いをしていた、いえ、一方的に体の大きい、ヤンキーくんが相手を殴りつけていたのです。『さあ、そのくらいにしよう!』と言って、二人に間に、私は割って入ったのです。

 中学校の教師たちは、校門の中でウロウロ、ゴソゴソと遠目で眺めてるだけで、仲裁に入らなかったのです。そのヤンキーくんに、『俺知ってるか?』と聞いたら、『教会のオッチャンずら!』と答えたのです。教会の前を、小中と通学していたのでしょう。彼も、やめられない所に、私が、中に入ってホッとして、挙げた手を下ろしたのです。

 『何やってるんだ?』と聞いたら、『タイマン(一対一の喧嘩のことです)!』と答えたのです。相手は、中学校の生徒会長で、彼の方から、タイマンを挑んだのだそうです。喧嘩慣れしていたヤンキーくんの一方的な優勢だったのです。二人とも、ホッとして別れ、その中学生たちは散って、学校に引き上げて行きました。

 何日か経って、その生徒会長が、お母さんと一緒に、私たちの教会(横にある借家を借りていたのです)、家に訪ねて来られたのです。『先日はありがとうございました!』とお礼と、菓子折りをいただきました。お母さんに、暴力はともかく、お子さんの義に立った勇気を褒めて上げたのです。それっきりでした。

 今日、新聞の記事に、『中村吉右衛門、七十七歳で逝く!』と言う記事を読んで、同学年、戦争末期に生まれ、同じ時代の空気を吸いながら生きてきた〈一フアン〉の私は、重く思うことありなのです。歌舞伎役者の父の子として生まれた吉右衛門、軍需工場長の子として生まれた私、それぞれに生きてきたのですが、吉右衛門は病を得て亡くなり、私は生き残っているわけです。

 若い頃に、《同世代の星》、同じ学生として、東京のどこかですれ違ったかも知れませんが、全く接点などないのです。子どもに教えられて、華南の街の夕べ、youtube で、手に汗を握りながら、ネット配信の「鬼平犯科帳」を観て、同世代人の華々しい吉右衛門の活躍ぶりを観て、暫しの娯楽を取ったことを思い出したのです。

 吉右衛門にお嬢さんが四人おいでで、そのお嬢さんを連れて、Tokyo Disney land に行ったのだそうです。そうしましたら、すれ違った一人の男の子が、吉右衛門を見て、『あゝ《江戸の人》だ!』と言ったのだそうです。「鬼平」でも、「歌舞伎役者」でも、「播磨屋」でもなく、そう言われたことに、いたく感じ入ったのだそうです。

 テレビの画面で観た長谷川平蔵を、「江戸」と結び付けられたことが、吉右衛門には自慢だったわけです。この人の雰囲気が、男の子に「江戸」の風を感じさせた演技者だったわけです。そんな逸話を目にして、四十数年前のことを、私も思い出したのです。《教会のオッチャン》と、自分が〈キリストの教会〉と結び付けて呼ばれたことを、私も自慢にすることにいたしましょう。

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