日本語の美しさ

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 英語を中一で学んでから、何年も経ちます。アメリカ人起業家と8年働きましたから、英語に触れる機会は、けっこう多くて長かったと思います。六十を過ぎてから、家内と一緒に、中国語を学んで、日常会話のちょっとしたことを話せる様になったでしょうか。
 
 『外国語は難しくて、学ぶには難儀だ!』と言う人がいますが、「学ぶ」のではなく「真似る」のが一番なのだそうです。〈難しいと思う脳〉で学ぶよりも、〈難しくないと思う脳〉で真似ると、” simple “ なのだそうです。この “ simple “ には次の様な意味があります。

1. 易しい、難しくない
2. 簡素な、簡略しな
3. 質素な、地味な、豪華でない
4. 単一の、一つだけで構成される
5. 単純な、複雑でない
6. 〔人が〕気取らない、控えめな、見えを張らない
7. 〈軽蔑的〉〔知的レベルが〕単純な、ばかな
8. 〈軽蔑的〉教養がない、無知な
9. 〔人が〕素朴な、洗練されていない
10. 〔人が〕真面目な、誠実な、うそをつかない
11. 普通の、いつもの、ありふれた
12. 基本の、初歩の
13. ささいな、重要でない、つまらない
14. 《植物》単一の◆【対】compound
15. 《化学》〔化合物が〕単純な
16. 《言語学》〔文構造が〕単純な  

 このリストにはないのですが、この “ simple “ には「無邪気」と言う意味もあります。3歳だった私たちの外孫が、上手に英語をお喋りするのを聞いて、まさに、言語は、〈無邪気な領域〉だということに気付くのです。私たちの小朋友の6歳のお嬢さんも、ずいぶん語彙が多くて、よくお話をしています。

 言語習得の能力というのは、子ども時代が高い様です。子供は、《 “ simple “ な脳》を持っているからでしょうか。私たちの外孫は、クラスの中で、「ワシントン大統領の演説」を暗記して、それを披露していて、その動画が娘から送られてきたことがあります。初期のアメリカの言葉は、現代英語とは違っていたのでしょうけど、授業で暗記させて、その言語能力を高めるというのは、素晴らしい教育だと感じたのです。

 昔の学生は、「論語」を素読して、そらで言えたのですから、そう言った言語能力を持っていたわけです。泉鏡花や夏目漱石の日本語能力は、驚くほどのものがあったことが分かります。それは素読や暗記によって、古語の素養があったからでした。「論語」ならずとも、「奥の細道」を暗記した、中一の頃の熱心さが持続していたら、自分の言語能力はもっと優れていたことでしょう。

 〈論語読みの論語知らず〉と言うそうですが、大陸の言語で記された漢書を、日本語で読んで、また欧米語を翻訳するという方法で、日本語ができています。もう40年ほど前になりますが、韓国のソウルに行った時に、あるお宅に食事に招かれたことがありました。そこで、『韓国語は演説や説教に向いた言語で、日本語は書く言語で、実に美しい言葉や文章ですね!』と仰っていました。確かに、日本語は《美しい言語》だと思います。大事にしたいものです。

 もう一度、泉鏡花ですが、芥川龍之介が自死した床に残されていたのが、「聖書」と「泉鏡花の本」だったそうです。江戸期の文芸や浄瑠璃などの芸能を好んだ鏡花は、その素養で、文筆活動をしたのです。大正十二年十月刊行の「十六夜」の冒頭部分は、次の様です。

『きのふは仲秋(ちうしう)十五夜で、無事平安な例年にもめづらしい、一天澄渡すみわたつた明月であつた。その前夜のあの暴風雨をわすれたやうに、朝から晴(はれ)/″\とした、お天氣模で、辻へ立たつて日を禮したほどである。おそろしき大地震大火の爲ために、大都(だいと)は半ば、阿鼻焦土となんぬ。お月見でもあるまいが、背戸の露草は青く冴えて露にさく。……廂(ひさし)破れ、軒漏るにつけても、光は身に沁む月影のなつかしさは、せめて薄(すゝき)ばかりも供へようと、大通の花屋へ買ひに出すのに、こんな時節がら、用意をして賣つてゐるだらうか。……覺束(おぼつか)ながると、つかひに行く女中が元氣な顏して、花屋になければ向う土手へ行つて、葉ばかりでも折(をつぺ)しよつて來ませうよ、といつた。いふことが、天變によつてきたへられて徹底してゐる。女でさへその意氣だ。男子は働らかなければならない。――こゝで少々小聲になるが、お互ひに稼(かせが)なければ追つ付つかない。(「青空文庫」から)』

 これは明治の日本語の好例ではないでしょうか。それに比べて、現代の日本語は砕けてしまっています。NHKの女子アナウンサーでも、『えーっ!』と思う様な喋りをされる方がいますから、それが今流なのかも知れません。でも、この美しい日本語を話したり、書いたりして、後世に残したいものです。

(明治開化の頃の服装です)

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サーヴィス

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 今ではそんなアナウンスはしないのでしょうけど、雨降りの日の店のお客様の案内アナウンスで、『お足もとのお悪い中、ご来店くださいましてありがとうございます!』と言っていて、雨降りの中の来客へのありがたさを、そう表現していたのです。

 お客様は王様で、どんな我儘でも聞いてしまう風潮があったでしょうか。怒ったり、注意したりなどは禁物でした。サーヴィス業って大変だなあと、つくづく思ったことがあります。 

 長らく生活した華南の街の小さな店に買い物に入ると、『要什么yaoshenme?/何が欲しいんだい?』と言われました。『いらっしゃいませ!』と言わないところが、何か中国的でした。でも、来店の感謝がないと言うのに慣れるのに、時間がかかってしまったのです。

 と言うのは、日本では、少し過剰にお客様を気持ち良くさせる術を心得ているのかも知れません。ほとんど中華系の飛行便を利用していまして、一度だけ、飛行場を替えて、ANAの便を利用したことがありました。いつもと違うサーヴィスに、新しい感動があったのです。

 というか、サーヴィスがイッパイの感じだったからです。徹底してサーヴィス教育を受けて、水ももれない様に気遣いがなされていて、正直言って、『大変だなあ!』と感じたのです。微に入り、細に入り、サーヴィスに徹していたからです。
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 楽しく仕事をこなしているのですが、もう少し、手抜きをしてもいい様な気持ちがしてしまったのです。このサーヴィスに語源ですが、「service(サービス)」は、「仕える」、「召使」という意味を持つ「serve」の名詞形だそうです。また、ラテン語の「servus」を語源としていて、「奴隷」という意味です。具体的には、次の様なことを言っています。

 ① 点検、修理
 ② 奉仕、世話、貢献、尽力
 ③ 勤務、勤労、雇用、業務
 ④ 接客
 ⑤ 公共事業
 ⑥ 電気やガスや水道のなどの供給
 ⑦ 軍務、兵役
 ⑧ 宗教的な儀式、礼拝

 兄弟自慢になってしまうのですが、もう退職してだいぶ経つのですが、つい先頃も、全国紙のインタビューを、私の次兄が、「ホテルマン」としての経験談が、その新聞記事に載っていました。兄は、顧客だけではなく、おいでになられたお客様の名前を、苗字だけではなく、フルネームで覚えてしまうのです。次に来店の時には、その名で呼んで歓迎を示すのです。それで、その次の来店時には、手土産があったそうです。

 難しいテクニックではなく、わざわざ多くあるホテルに中で、自分の勤めるホテルを利用してくださるお客様を、好い気持ちにさせる術と言うのは、日常的な感謝や敬意なのでしょうか。人には、《認められたい》との欲求があって、それを実行することなのかも知れません。それこそが、真のサーヴィスの様です。雨の日の来店を、《お足元の悪い中》と言われたら、雨に濡れた足元など気にしなくなるからです。

(歌川広重の描いたものです)

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がむしゃら

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 父の事務所があった街に、サーカースがやって来たことがあり、父は、私たち息子たちを、その見物に、山奥の家から連れ出してくれたことがありました。それはそれは面白くて、興味津々魅入ってしまったのです。

 東京に、1933年(昭和8年)3月22日、「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し、芝浦で催されました。なんと団員総勢約150人、動物が182頭の大きな一団だったそうです。

 その公演の宣伝のために、西條八十が作詞、古賀政男が作曲し、松平晃が歌ったのが、「サーカスの歌」でした。

1 旅のつばくら(燕) 淋しかない
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情

3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町

 哀調を帯びたこの歌は、鐘やトランペットや太鼓を演奏しながら、商店街を練り歩く「チンドン屋(正式には〈市中音楽隊〉と呼んだそうです)」が、私たちの住んでいた街で演奏していて、その ” チンドン “ の音が、まだ耳の底に残っています。それを「ジンタ」とも言いました。♯ ジンタッタ、ジンタッタ ♭ と聞こえたので、そう言われたようです。

 子ども時代には、独特な街の《音》が溢れていたのです。自然に近い音がほとんどで、合成された音がなかったと思います。楽器も、電気や電子製のものは皆無でした。ただ電気拡声器を使ったのは、災害の緊急連絡用だけでした。
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 騒音になるような音は、子どもの頃には、ほとんどありませんでした。二十歳ほどの頃でしょうか、同級生に、新宿の "アングラ劇場(under ground)"に連れて行かれたことがありました。迷路をたどって狭くて薄暗い部屋いっぱいに、ビートの聞いた騒音が溢れた、そんな中に、一度だけいたことがありました。そんなものがなんでいいのか、全く分かりませんでした。頭を柱にぶつけていた時に、飛んでいるように見える光が、サイケ調に飛び交っていて、居た堪れませんでした。

 それに比べ、ジンタを鳴らしながら、街中を行くチンドン屋の隊列の後について、歩き回ったのが思い出されます。小屋掛けの旅の一座が演じる「股旅物」を、拍手しながら観たり、浪花節師の浪曲を聞いたこともありました。演歌、艶歌、怨歌などと言われて、大人気だった藤圭子は、ご両親が、浪曲の旅芸人だったそうです。岩手一関で、彼女は生まれ、北海道に渡り、大雪山の麓の街や岩見沢の中学校に通っていたそうです。素晴らしく頭脳明晰な子どもだったそうです。
  
 旅芸人の子として生まれ、芸を仕込まれ、声を潰して浪花節師になっていく中で、流しの演歌歌手として、日銭を稼いで家族を支えました。ある時、才能を認められ歌手の登竜門をくぐって、大歌手になった人でした。子ども時代との生活の落差の大きさについていけなかったのかも知れません。

 でも晩年は不幸だったそうで、ついに自死してしまいました。転校、転校を繰り返した学齢期を過ごし、高校進学もできずじまいの人でした。得たものが、どれほど大きくても、失ったものは一生ついて回るのでしょうか。

でも、私は、誰にでも人生の《転機》が訪れると信じているのです。その時が来たら、がむしゃらにしがみついたらいいのです。そしてがむしゃらに生きたらいいのです。そうしたら、生きる楽しみが、きっとやってくるからです。

(大雪山の遠望です)

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秋の花

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 これ、何に見えますか。金木犀です。先日、次男が撮影して、送ってくれた写真の一葉です。どう撮るんでしょうか、暗さの中の花の色が、とても素敵です。一昨日、家内と図書館に行く道に、この花があって、地の上に、オレンジ色の絨毯の様に、綺麗に落ちていました。

 原産は、中国南部で、「桂花guihua/正しくは〈丹桂dangui〉と呼ばれています。江戸時代に、雄株が渡来し、挿し木で植えられて、全国に広まって行ったそうです。北海道と沖縄にはないそうです。秋の白い菊の花と対照的に、オレンジの色が元気付けてくれます。

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助言者

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 富士山の山梨側、富士五湖に、上九一色村(現在は河口湖町です)がありました。富士の裾野で、牧場などが点在する地で、車で走ると、爽快な気分が楽しめます。富士宮や沼津や伊豆に用があって出掛ける時、そこを通ることがありました。

 そこに、極めて悪質な事件を起こした宗教団体の大きな施設が建設されていました。猛毒のサリンなどを生産し、教えに従う者に訓練する「オウム」の主要な施設でした。今では、更地になっていて、おぞましい事件の拠点であったことは知る由もありません。

 1995年3月20日に、長女の卒業式が、渋谷区の公会堂で行われるというので、アルバイトしながら学んだ彼女の頑張りを褒めたくて、家内と二人で出掛けたのです。その朝に起こっていたのが、「地下鉄サリン事件」でした。『まさか!』のニュース報道で知ったのは、式の終わった後でした。

 私たちは新宿まわりで、JR山手線の渋谷駅から行きましたが、長女は友人の家からでしょうか、地下鉄で来ていました。事件が起きたのが、午前8時頃でしたから、一歩、一時間違えたら、事件に巻き込まれたかも知れないような状況だったのです。死者14人、負傷者6300人の大惨事でした。

 それ以前に、不穏な事件を犯し続けて、社会を騒然とさせてきた宗教団体の人の道を大きく外れた事件が起こっていました。オウムを糾弾した弁護士夫妻とお子さんは、この事件の首謀者たちの裁判が結審し、刑が決定し、首謀者は処刑されていますが、未だに行くへ不明のままです。

 この事件に、直接関わって大罪を犯した者たちが、科学的な思考のできる高学歴な者たちが多くいて、そういった背景の人の心を、思いのままに繰る宗教の力の大きさに、私たちは唖然とされたのです。まさに、ドイツのナチスに首謀者に似た闇の力を借りた力を働かせたのです。まさに「マインド・コントロール」の事実です。

 それは「カルト事件」であって、宗教は、こう言った逸脱・病理的な犯罪行動を犯してしまうのだということが、明らかにされたのです。教祖のことば、教えが持つ力の影響力は実に大きく、心を縛り付けて、その教えから離れたら不安と恐れで立ちいかず、そこに留まり続けるのです。

 何かに縋(すが)って人は生きるのですが、縋る相手を間違えると、自分を滅ぼすだけでなく、社会を破滅させる危険性が潜んでいます。熱狂と、扇動と、悪魔的な力は、私たちの周りに、いつでもありうるのです。

 〈窮鼠猫を噛む〉、官憲の力で追い込む以外にないのでしょうか。退路を塞がれてしまい、自暴自棄になって、悪事の上に悪事を重ねて、自分でも信じられないほどのことを起こしてしまいます。多くの追随者を生み出し、首謀者に心酔させ、陶酔せてしまうのに、誰もが驚かされたのです。

 思想でも哲学でも宗教でも、「極端」な主張、急激な変化を期待するものは避けなければなりません。それらに惑わされないために、《真理への愛》を持ち続けるなら、偽善や不法を看破することができます。そして、だれでも《善き助言者》を持つことなのです。

(旧上九一色村の村花「フジアザミ」です)

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野分晴れ

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 まさに、今日は、「野分晴れ(のわきばれ/台風一過の晴れの日をそう言うそうです)」で、小朋友のいーちゃんの「運動会」が、小学校の校庭をお借りして行われ、“ スマホ写真 ” が送られてきました。大勢の園児の中に、ご両親でしか見つけられない様な姿があったことでしょう。

 去年は雨で、せっかく練習したのに中止、今年も台風14号が、秋雨前線を刺激して、連日雨降りで、『またか!』と、開催が危ぶまれたのですが、曇りの予報が、太陽の顔も見られた晴れの一日でした。30年も前のわが家の子どもたちの運動会、園芸会、遠足などの行事が、天気とにらめっこで、一喜一憂だったのを思い出します。

 手巻き寿司、いなり寿司、煮物、佃煮、それにゆで栗や柿やみかんやバナナの果物を、ゴザの上で妹や弟を加えて食べた過ぎし日の秋が思い出されます。雨で延期された翌月曜日にあったこともありますが、ほとんどの年は、昼過ぎに、お昼ご飯の重箱を、家内と二人で運んで、待ちわびていた子どもたちと、校庭で食べたのです。日曜日の午前中には仕事があって、午前中の競技を見てあげられない、そんな毎年でした。

 子どもたちの学友のお母さんから、気の毒がって『一緒に食べよう!」との誘いを、健気にも断って、校門の扉の上にのって、今か今かと、親の来るのを待ちあぐねていた子どもたちの姿を思い出してしまいます。それもまた、わが家の大切な思い出の一コマなのではないでしょうか。
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 運動会の日に、給食のこともあったでしょうか。もうみんな卒業して、アルバイトをしながら学校に行って、今は社会人、家庭人になっています。小朋友のお母様に、運動会見学を、去年は誘われましたが、今の私たちの状況では、ちょっと見学は無理で、『楽しくしているかな?』と思っているだけで、ただ送ってくださるスマホ写真を見て、大勢の中に探すのを楽しみにしているだけです。

 子どもたちの幼稚園では、「さつまいも掘り」もあったでしょうか。苗の植え付けに駆り出されて、お手伝いしたこともありました。そう、芋の美味しいい季節になってきました。華南の街で、田舎に行って掘ってきたサツマイモを、毎年、大袋いっぱいにもらったこともありました。

 オリーブの実を拾いに、郊外の農村に出かけたこともありました。おじさんたちが木の上に登って、ユッサユッサと揺すると、バラバラと落ちてきて、嬉々として競い合って拾っていました。お昼を出してくださって、みんなで分け合いながら、華南の田舎料理を食べさせていただいたのも、今頃でしょうか。

 秋たけなわ、稲の刈り取りも終盤でしょうか。これからは、富有柿なども甘い秋の味覚が出回る頃でしょうか。今年は、無花果も栗も梨も、ふんだんに食べることができました。留守にしていた13年分の日本の秋の味覚を、堪能していると言ったところかも知れません。穏やかな秋のままで、深まっていって欲しいと願う、ちょっとものがなしい秋の夕べく、夜の帳(とばり)の降りかけた夕べです。

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㊗️おめでとう?

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 2018年5月25日の「水餃子」と言うブログ記事で、一人の華南の街の高校に在学している高校生のことを記しました。

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 【前略】 この街(華南在住時の街)に、こちらの方と結婚されて、高校生のお子さんを育てておられる、日本の中国地方の出身のご婦人がいて、時々、家内と交流があります。最近は、私も誘われて、一緒に食事をしたり、喫茶店に行ったりしているのです。この方に、家内が声をかけたら、(家内の妹と私も)ご一緒できるとの事でした。

 すぐにこの方から、折り返しの電話があって、もう一人のご婦人もお誘いしたいとの事で、都合5人で街中の「てんてん」という店の前で落ち合うことにしたのです。そこで、<餃子>を三種類、<涼皮>という山西の特産料理を二種類、砕いた胡瓜とニンニクを刻んだ和え物、トマトと卵のスープで、食事を摂ったのです。

 娘たちと同世代の、子育て中のお二人で、このお二人にしてみたら、ご両親の世代の義妹と私たちとの食事会でした。私たちに合わせて下さって、楽しい時を過ごしたのです。間もなく、息子さんたちの進学を決めなくてはならない時期で、家内は、昨年、札幌に行った時に訪ねた<北海道大学>のパンフレットなどを、参考のためにと差し上げていました。

 こちらの大学か、帰国子女枠で日本の大学かを、決めなければならないそうです。我が家の四人の子たちは、親に負担をかけない様にと、一番安く学べる学校を選んでくれました。郡立の"コミニティーカレッジ"で、二年学んで、その後に、州立の四年制大学に編入したりしていました。長女は、東京で昼間働いて、夜間の短大で学び、そこを卒業すると、上の兄が学んだ同じ州立大に編入したのです。四人とも、結構逞しかったと思います。

 この方の高校生のお子さんは、昨年怪我をして手術をし、リハビリ中の私に、自分のための"成長滋養剤"の「肝油ドロップ」の大缶をくださって、『早く治ってください!』と激励してくれたのです。それは、とても嬉しいことでした。彼が、能力に見合った大学に進学して、人生の基礎を、確りと固めて、卒業後は、社会の中で、その責務を果たしていかれるように、私と家内が願っている若者なのです。

 暑い日でしたが、まだ日陰に入ると涼しい時期で、最寄りのバス停で、家の近くを通る路線バスを待ちながら、道行く、小学生や付き添いのお爺さんやお婆さんの様子を眺めていました。午後のために、集団で登校する一段も幾組もありました。ご一緒したお母さんたちとご主人、息子さん、近くに住む義父母の健康を願っていました。娘たちも同じ様に、国際結婚をしていて、まあいろいろな事があることでしょうね。幸せを願って。

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 この高校生のお母様から、今日メールがありました。念願の日本(東京)の大学に合格したとの喜ばしい知らせでした。入学金や授業料のために、働いて備えをしようと、東京に居を移して、働いて来ていたお母さんなのです。まさに、《母は強し》です。

 家内が、省立医院に入院した、昨年の正月の一週間の間、毎日の様に病室に来てくださって、家内の病状説明の折には、ご主人もおいでくださったりで、家内のお世話をしてくださったのです。家内が寝てしまうと、椅子に座って、ご子息の受験の学びのための教材作りをされておいででした。

 来春には入学です。本当に、我が子の合格の様に嬉しい夕です。コロナ禍の中、思う様に、何事も進みませんが、愛する《肝油ドロップ青年》の今後が、「万事順利」である様に、心から願っております。

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郷愁

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 省立の師範大学の教員住宅に住んでいた時、一階でしたので、裏に手狭な庭がついていました。住み始めた今頃の時期に、懐かしい香りがしてきたのです。しばらくの間、気がつかなかたのですが、庭の出口の三和土(たたき)の隅に、金木犀の木が植えられていて、そこに咲いた花からの香りでした。

 週初めの日、6歳の女の子のお母さんで、家内や私に、娘の様に接してくださるご婦人がいて、時々、引き籠りの私たちを連れ出してくれて、鳥居氏の居城であった、「壬生城」の城址公園に連れて行ってくださったのです。平城で、実に綺麗に整備がされていました。

 お堀の橋を渡って、その城内に入った時、あの金木犀の花の香がしてきたのです。それで、華南の街で住んだ家を思い出したのです。その家に、日本人留学生、日本語教師、家内や私が、教えていた大学や語学学校の中国人の学生のみなさんが遊びに来られて、実に賑やかでした。
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 日本からたくさん持ち帰ったカレールウで、ライス・カレーを作って、ご馳走してあげました。みなさんに好評で、ちょっと名物になりつつありました。その家からバス通りに出ると、師範大学の裏手に、「卤面lumian」と言われる、華南風煮込みうどんの店があって、よく、そこでお昼をしました。小さな牡蠣、豚肉、野菜、アサリ、麺で出来ていて、庶民の味でした。
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 その店は、同窓の日本語教師が、紹介してくれたのです。この方は、高校の英語教師をしていたのですが、それをやめて、その街の師範大学の教師をされていました。省の主催のレセプションに招かれて、食事会が持たれた時、この方も来ていて、同世代で、同業のよしみで話をしていて、何かお互いに感じたことがあって、出身校の話が出て、同窓だと分かったのです。

 「学風」を引き摺るのか、そう言った学風に惹きつけられるのか、何か似たものを互いに感じ合ったわけです。それで、食事に招いたりしていたのです。私たちが、移動時に三輪タクシーに乗っていると話をしたら、彼が、『大変危険だからやめられたほうがいいです!』と言って、猛反対をされたのです。
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 「輪タク」は、電動と人力の二種類があって、メーターがないので、乗る時に交渉して、行き先によって料金が決まるわけです。『便宜一点儿吧pianyidianerba!』と言って、『ちょっとまけてよ!』と言うのです。その交渉が、物を買う時の常套句で、どこに行っても交渉するように、天津の語学学校で教えてくださっ先生に教えられてから、使い続けたのです。食料品の日付管理が、ほとんどなされていなかったのです。小さな商店などは、平気で、賞味期限切れが売られていて、牛乳などは、日付を見なかったら大変でした。

 街中の大きな人造池では、季節ごとに、展覧会が行われていたりでした。中国か日本か、どちらが起源なのか、盆栽がありました。ものすごく大きな鉢に入っていたり、日本のコンパクトな盆栽と比べてみて驚かされました。下駄や蛇の目傘があったり、切り飴や、自慢焼きの様な物までありました。そうラムネもあったりで、これもどちらが始まりか、調べたら面白いかも知れません。

 同じ東アジアで日本同様、季節季節に食べる物があって、それもみなさんの楽しみなのでしょう。下の階のご婦人が、『この時期になると、これを食べるんです!』と言って、団子や惣菜を持って来てくれたり、上の階のおばあちゃんが作ったと言って、豆腐までいただいたこともあり、田舎から送られて来たからと言って、干筍、サツマイモ、果物などももらいました。

 何だか、華南の街の音も味も匂いも懐かしくなって来ました。あの裏庭の金木犀は、今年も咲いて、芳しい香りを放っているでしょうか。秋が深まりつつあります。街路樹の木に咲く花が、実に綺麗な街でもありました。第二のふるさとへの郷愁の秋であります。そう、一番懐かしいのは、《人》でしょうか。

(金木犀と街のそこかしこに咲いていたブーゲンビリアとハイビスカスです)

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賢明

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 私たちが長く住んだ華南の街で、四川省出身のご婦人とお会いしたことがありました。大柄な方で、きっと少数民族の出身だったのでしょうか。この方が、とても大きな精神的な束縛を経験して大変だったことがあったと言われたのです。その時は、解放されていて、喜びに溢れてお話ししておられました。

 よく、人に精神的な問題について、〈先祖の呪いだ〉とか言って、家系の中の悪事が、精神的な問題をもたらすのだと、原因を語る方がいます。果たしてそうでしょうか、このご婦人のお話を聞いた時、先祖の悪事が原因ではなく、その人個人の生き方や選びに関わる問題であることだと確信したのです。

 この婦人は、長らく「ヨガ」をし続けてこられ、それが原因で、精神的な問題を持ってしまったことが分かったのだそうです。日本でも、スポーツクラブやシニアクラブなどで、よく「ヨガ教室」が開かれているのです。この「ヨガ」は、街角でする軽運動やストレッチ、精神的な疲労回復だけなのでしょうか。

 ヨガによって、確かに意識上の変化は得られます。しかし、そのエクササイズを続けていくうちに、心の奥底に、抑圧的な影響力が生み出されるのだそうです。そして、感覚が鋭敏になって、不安や心配が生み出されてくるのです。瞑想が、精神性を高め、意識の高嶺に到達する経験ができる様になると言いますが、その途中で気絶したり、精神的な不安も生じさせるのです。

 自分の現実と空想や瞑想の世界の境界線がはっきりしなくなるのです。感覚が鋭敏になる一方で、心配や不安に襲われ、不安定になってしまいます。ある人は、長時間にわたって意識が戻らないこともあり得ます。

 日本で英語教師をしていた青年が、日本文化に関心を示して、禅宗の寺を訪ねました。有名な武将の菩提寺で、その若い住職と気が合ったのだそうです。その住職は、禅と共に、ヨガにも通じていて、そう言った交わりを、しばらく続けていたのです。密教的な瞑想などに触れる間に、これを続けては危険と感じて、その交わり辞めるために、『お寺に一緒に行ってください!』と頼まれました。それで彼に同道して、その住職を訪ねめたのです。

 日本語の上手な方でしたし、住職も英語ができ、通訳は不要でしたが、彼は、私にそばにいて欲しかったのです。話をしてる間に、その住職が怒り始めたのです。結局、それ以上、そこにいられず、一方的な残念な結果別れの様になって、そこを辞したのです。そうしたことで、彼はホッとされていたのが印象的でした。

 四川省出身のご婦人も、アメリカ人英語教師も、軽い気持ちで関わりを始めたのですが、実は十分に、ヨガは、神秘的な東洋宗教である、ヒンズー教と深く関わりを持つのです。深入りすると精神的な問題を持ちやすく、その奥深い瞑想術は、危険です。

 華南の街の検察庁で、検事をされていた若いお母さんが、同僚に勧められたのでしょうか、ヨガに関心を示され、『クラブに参加してみたい!』と、思って家内と私のところにやって来て、相談されたのです。私たちは猛烈に反対したのです。子育てや仕事上の大変さの中で、そう言ったものをやってみようとされたのですが、やめられたのです。

 この女検事さんは、家内が一週間、省立医院に入院した時には、子どもさんをご両親に預けて、家内の身の回りに世話を何日かしてくれました。ヨガは、スポーツでも、リラクゼーションでもなく、心の奥深いところに強い影響力を与え、〈不安障害〉をもたらしたりしますので、気をつけなければなりません。あの二人がやめたのも、彼女が近づかなかったことも賢明な決断でした。

(「天府之国」と言われた四川省の風景です)

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ひまわり

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 今年の母の日に、次男が贈り物で届けてくれた数種の花の中に、ラベンダーがありました。それを植え替えた鉢の隅っこに、家内が、夏前に街を歩いていた時にもらった種を蒔いて育った花です。「ハイブリッド・サンフラワー」、とその袋にあります。

 今日は、二十四節気の「甘露」、「向日葵(ひまわり)」が、台風14号に刺激された秋雨前線が降らせた雨の降る朝に咲いたのです。完全な形で開いていませんが、紛れもなく「ひまわり」です。朝顔が終わって、寂しくなったベランダで、ただ一輪咲き出してくれました。

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