がむしゃら

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 父の事務所があった街に、サーカースがやって来たことがあり、父は、私たち息子たちを、その見物に、山奥の家から連れ出してくれたことがありました。それはそれは面白くて、興味津々魅入ってしまったのです。

 東京に、1933年(昭和8年)3月22日、「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し、芝浦で催されました。なんと団員総勢約150人、動物が182頭の大きな一団だったそうです。

 その公演の宣伝のために、西條八十が作詞、古賀政男が作曲し、松平晃が歌ったのが、「サーカスの歌」でした。

1 旅のつばくら(燕) 淋しかない
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情

3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町

 哀調を帯びたこの歌は、鐘やトランペットや太鼓を演奏しながら、商店街を練り歩く「チンドン屋(正式には〈市中音楽隊〉と呼んだそうです)」が、私たちの住んでいた街で演奏していて、その ” チンドン “ の音が、まだ耳の底に残っています。それを「ジンタ」とも言いました。♯ ジンタッタ、ジンタッタ ♭ と聞こえたので、そう言われたようです。

 子ども時代には、独特な街の《音》が溢れていたのです。自然に近い音がほとんどで、合成された音がなかったと思います。楽器も、電気や電子製のものは皆無でした。ただ電気拡声器を使ったのは、災害の緊急連絡用だけでした。
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 騒音になるような音は、子どもの頃には、ほとんどありませんでした。二十歳ほどの頃でしょうか、同級生に、新宿の "アングラ劇場(under ground)"に連れて行かれたことがありました。迷路をたどって狭くて薄暗い部屋いっぱいに、ビートの聞いた騒音が溢れた、そんな中に、一度だけいたことがありました。そんなものがなんでいいのか、全く分かりませんでした。頭を柱にぶつけていた時に、飛んでいるように見える光が、サイケ調に飛び交っていて、居た堪れませんでした。

 それに比べ、ジンタを鳴らしながら、街中を行くチンドン屋の隊列の後について、歩き回ったのが思い出されます。小屋掛けの旅の一座が演じる「股旅物」を、拍手しながら観たり、浪花節師の浪曲を聞いたこともありました。演歌、艶歌、怨歌などと言われて、大人気だった藤圭子は、ご両親が、浪曲の旅芸人だったそうです。岩手一関で、彼女は生まれ、北海道に渡り、大雪山の麓の街や岩見沢の中学校に通っていたそうです。素晴らしく頭脳明晰な子どもだったそうです。
  
 旅芸人の子として生まれ、芸を仕込まれ、声を潰して浪花節師になっていく中で、流しの演歌歌手として、日銭を稼いで家族を支えました。ある時、才能を認められ歌手の登竜門をくぐって、大歌手になった人でした。子ども時代との生活の落差の大きさについていけなかったのかも知れません。

 でも晩年は不幸だったそうで、ついに自死してしまいました。転校、転校を繰り返した学齢期を過ごし、高校進学もできずじまいの人でした。得たものが、どれほど大きくても、失ったものは一生ついて回るのでしょうか。

でも、私は、誰にでも人生の《転機》が訪れると信じているのです。その時が来たら、がむしゃらにしがみついたらいいのです。そしてがむしゃらに生きたらいいのです。そうしたら、生きる楽しみが、きっとやってくるからです。

(大雪山の遠望です)

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