心の満足

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〈惨めな体験〉をされたことがおありでしょうか。褒められたり、感謝されると、いい気持ちになって、有頂天になってしまうので、時々、その〈惨めさ〉を思い出すことにしています。

父に叱られて、家に入れてもらえずに、里山の雑木林の木の下で、枯れ葉や稲を集めてきて、それを引いて、その中で、夜空の星を見上げながら、小学生の私は寝たことがありました。また、機関車の車掌室や貨車の中で、夜を明かしたこともあります。家の布団の中で寝させてもらえず、浮浪児になってしまうのかと思ってしまうほど〈惨め〉でした。

中部山岳の街の駅から、家を訪ねて来た母と一緒に上京していた時のことです。いつもは鈍行しか乗らないのに、珍しくも、その時は母が出してくれて、特急列車に乗ったのです。その車両の向こうの方に、私の務めていた学校の社会科の主任の女先生が、学生を連れて乗車していたのです。目が合ったのですが、先生は、私だと気づかなかった様です。

その時は、弟からもらったズボンとジャンバーを着ていて、オシャレで古着など着たことなどなかった私なのですが、アメリカ人起業家のお手伝いをしながら学んで、細々と生活していた時期でした。弟には申し訳ないのですが、ちょっと〈みすぼらしい身なり〉で、人に会いたくないと思っていたのに、選りに選って、この前の職場の上司と出くわしたのです。私は目をそらし、背中を向けていました。“ ダンディー準 ” でしたのに、〈惨め〉でした。

こちらに来て、雨の日でした。下駄箱の中に、古びた半長靴の靴があって、それを履いて、1キロほどの店に買い物に行ったのです。足を濡らしたくなかったからです。ところが雨に濡れた靴の底の部分が取れてしまい、ビショビショに足を濡らして、底無し靴を履いてお店に入ったのです。まずサンダルを買って履き替えました。雨の中を歩く内に、接着剤が効かなくなってしまった靴を履いてトボトボ歩くのって〈惨め〉でした。

これも雨の日でした。歩いて買い物に行って、重い買い物袋を下げ、傘をさして、これもトボトボ歩いていました。その横を、同世代のご婦人が、しぶきをあげながら車で追い越して行きました。どこに行くにも車に乗っていた私なのに、車のない自分、免許証を失効してしまった自分が、雨としぶきで濡れたのが〈惨め〉でした。

貸家にしか住んだことがない私の前で、何時でしたか、三十代の男性が、持ち家自慢をしていました。今回、家内が病気になったのに、住む家がないので、空き家を持っている友人にお願いして、貸してもらいました。そんな〈不甲斐ない〉私は、家内の闘病のための家を持たせないことで、申し訳なく〈惨め〉に思ってしまうのです。

ところが家内は、どんなでも、雨露を凌げる家があることで満足し、感謝しているではありませんか。物を持つことで安心しなくても大丈夫なのです。彼女には、〈惨めさ〉などないのです。こんな素敵な大きな家に住めて、そこに友人たちや兄弟姉妹や子や孫が訪ねて来て、和気藹々として交わることができています。近い内に、『泊まってもいいですか?』と言う中国人の若い友人家族が、見舞いがてら泊まりに来ると言っています。

そのご夫妻は、華南の街にも、東京にも家を持っていて、そこに一緒に住んで闘病する様に、何度も言ってくれるのです。また何時の日にか、華南の街に戻ったら、住む様に言ってくれている家が何軒かあるのです。彼らは、家内が大好きなのです。

私の知人は、ローマの監獄の中にいても、持ち物を盗まれても、二枚目の下着も住む家もないのに、「私は、すべての物を受けて、満ちあふれ・・・満ち足りています」と言えた人でした。この人は、この地上に、富を蓄えず、地位を得ず、家族でさえも持ちませんでしたが、幸せでした。一見〈惨め〉に見えますが、《心の満足》を生きた人でした。
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甘露

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昔、よくなめた飴に、「甘露飴」がありました。今日、10月8日は、二十四節気の「甘露」です。どんな時候かと言いますと、「露が冷気によって凍りそうになるころ。雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、こおろぎなどが鳴き始めるころ。『暦便覧』では、「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している(ウイキペディア)」だそうです。

それにしても、気温が日中、しかも夕方に、30℃近くになったままの暑さには、期待が裏切られた私の体が混乱をきたしている様です。しかも、日本の西南方面の海上には、台風19号があって、日本列島を窺っています。自然要塞の様な中部山岳の盆地で、生まれ、そしてアメリカ人起業家について戻って、、長く生活してきた私には、ここ栃木も、後ろの山々が控えていて、要塞の中の気分でいます。

でも、〈菊薫る秋〉、秋の花々も、なんとなく澄まし顔をして咲くかの様です。冬にここに住み始め、春になって栃木市民になり、猛暑の夏をめいっぱい過ごし、今や秋を迎えています。ここは、まるで「甘露水」を飲む様に、水も美味しいのです。本当の甘露水は、水に砂糖などの甘味料を入れて作るのですが、〈美味しい水〉を、『まるで甘露水の様!』と言うそうです。

北海道のニセコの湧き水が、冷たく美味しくて、ある方が、そう言ったと聞いたことがあります。そう言えば、ふるさとの湧き水が美味しかったのを思い出します。また、東京に越してきて、水道が引かれる前、わが家にあった井戸水が、夏は冷たくて、冬は暖かくて、飲んで美味しかったのを思い出します。
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昨日、図書館の行き帰りに、道から奥の方に、「ポンプ井戸」がありました。家庭菜園の水遣りにでも使うのでしょうか、まだ現役然としておりました。ついぞ見かけなかった井戸が、身近にあって、汲んで飲んでみたくなってしまったのです。

華南の街の家から、菜市場に行く道に、同じ井戸がありました。ポンプも鶴瓶もなかったのですが、この水を生活用水に使い、洗濯にも使ったのでしょう。きっと〈井戸端会議〉もされていたのかな、と思ったりしていました。私がよく読んだ本の著者の「倪ni」と言う方が、若者たちを集めて講義をした校舎や宿舎跡に、その井戸がありました。覗き込んだら、そこに私の顔が写って見えました。

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読書

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秋になると、必ずの様に、「先生」を思い出すのです。教師に恵まれて生きて来たと思い返しているのです。小学校1年から2年までの担任の内○先生、5、6年の担任の○藤先生、中学の担任の小○先生、高校の教師陣の夏○・西○先生、大学のゼミの教師の天○先生と社会思想史の講師の阿○先生、私の妻の愛し方まで教えてくれたアメリカ人企業家のK氏、難しい時期になるときっと家に招いて数日過ごさせてくれたB氏、こちらに来て出会った○氏、まだまだ数え上げられます。

『一年を思う人は花を、10年を思う人は木を、百年を思う人を育てる!』のだそうですが、すぐに結果の出ないと「教育」が、人の一生にとって大切で、難しいことかが分かります。大体、人は、20年学んで、40年働き、もう20年の余生を過ごすのだそうです。この頃では「終活」が言われ始めています。どう学び、どう働いたかによって、余生が決まるのですから、退職後に自己努力することでもなさそうです。で、私を教育してくれた人を思うのです。

仕事から離れたらしたいことは、図書館から一里ほど離れた家に越して、家内に作ってもらった弁当を持って、そこから図書館に歩いて行き、日柄読書三昧に耽りたいものです。まだ学び足りていない自分だからです。ですから、歩みつつ、学びつつ、退職後を生きてみたいのです。矢内原忠雄が、「読書」について、次の様なことを書いています。

『・・・古典を読むのは真に楽しい。何千年何百年という「時」の試煉を経た書物で、しかも単に考古的好事家の玩弄物でなく、現代人に取りて一般的興味あるもの、之が古典である。古典は単なる古書ではない。少しく親しき態度で古典を読んで居ると、其の著者は歴史的服装を脱いで、活きたる者となって我々の前に現われる。現代の人が時局の下に萎縮してしまって、何も語らないか、或は奴隷の言葉を以てしか語らないか、或は偽り曲げた言葉を語る中にあって、古典は率直に、詳細に、真実を語ってくれる。しかもその語るところは現代の活きた現実に触れている。古典は我々に真理の永遠性を感ぜしめる。我々は古典を読んで、驚くほどに現代を知るのである。「時」の波を越えて活いくる永遠の真理探求者と手を握って現代を論ずる、之が私には楽しくてならないのだ。』と。

この矢内原の著した本に、「世の尊敬する人物」があります。彼があげたのは、エレミヤ・日蓮・リンカーン・新渡戸博士の四人でした。初めの二人は、《預言者型の人物》であり、後の二人は、《常識家型の人物》なのだそうです。この人たちについて、次の様に矢内原は言っています。

『而して私の尊敬する点として、この四人に共通する性格は次の四つである。
(一)真理を愛したこと。
(二)誠実であったこと。
(三)平民的であったこと。
(四)欠点ある人物であったこと。』と。

この「欠点のある人物」と言うのが好いですね。矢内原自身、東大の学長をするほどでしたが、自分の欠点の多いことを、臆面もなく告白する人でした。ご子息も、そんな父だったと書き残しています。《欠点》については、誰にも負けないほどである私は、そう言った人たちに親密さを感じて、ホッとするのです。老いたら、ホッとして生きたいではありませんか。そうそう図書館に行くときは、家内も誘う日も作りたいと思いました。

ここまで、以前の投稿文です。秋って、「読書」の季節ですね。「書」、とくに「古典」を先生にして、秋の夜長を楽しむのも好いことでしょうか。私の読みたい本の数は、ゆうに百冊をこえています。きっと図書館の蔵書の中に、見つけることができそうです。ところが今日、家内と私立図書館に行って、文化的活動をしました。蔵書の中に、何と「矢内原忠雄全集」を見つけ、有頂天の喜びでおります。図書館に、これから脚繁く通うことでしょう。

(エレミヤを描いたものです)

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四川盆地

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四川盆地は、古来「天府の国」と呼ばれています。その四川省の省都は「成都」です。私は、ここに二度、家内と旅行しました。最初は中国の何処に行けるか、成都の南の街に住む知人のご両親を訪ねた時でした。その時は、ここで学んだり、学校で教えたりすることを考えたほどでした。もう一度は、語学学校の遠足ででした。パンダのふるさとに行きました。

中国が、「後漢(紀元25~220年前後)」の時代に、紀元184年から三国時代(220~280年)にかけ、広大な中国は「魏・呉・蜀」の三国(三国志の時代)が分立していました。四川省一帯は、「蜀」の国と呼ばれていました。初代皇帝が、「劉備玄徳」で、彼のもとには軍師・政治家として有名な「諸葛亮(孔明)」がいました。

その劉備が、諸葛孔明を、自分の軍師として求めるべく、礼を尽くして、三度、彼の元を訪ねています。それが「三顧の礼」と呼ばれている有名な出来事です。また「魏」の国には「魏の武帝」と呼ばれた「曹操」がいました。まさに「三国志」の舞台であり時代なのです。

現在の四川省の面積は、日本の約1.5倍で、人口は約9000万人です。ここを「天府の国」と呼ばれる所以は、地形が、外部からの軍事的侵入を防ぎやすく、敵に踏み荒らされることがなく、「岷江minjiang」の流域では、豊富な作物ができ、土地が肥沃だったからです。「天府」とは人の手が加えられてない、「天然自然」日であるという意味です。
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四川省は、米、油類、綿、麻、サトウキビ、桑、茶、果物、タバコ、酒などの産地で、中国全体でも農産物生産高のトップクラスです。県民性、省民性ですと、「成都人」は、自然要害に守られて、外敵の侵略がなかったことと、農作物の豊かさとで、「江戸っ子」の様に、〈宵越しの金を持たない〉と言われる気っ風の持ち主だと言われています。

ただ、華南の街には、陽が燦々と降り注ぐのですが、四川は、年間を通じて曇りの日が多くて、太陽好きには住みにくいかも知れません。私の教え子に、成都人がいて、熊本大学や長崎大学で学んで、来春には日本企業に就職が内定していると言ってきています。性格の穏やかな青年で、よく家族で春節前に作る、〈腸詰の四川風ソーセージ〉を頂きました。

四川盆地に流れる「岷江」には、「李冰libing」親子によって、紀元前256年から251年にかけて、洪水防止と灌漑用のための「都江堰(とこうえん)」が作られてあります。それに模して、武田信玄も、御勅使川と釜無川(富士川の上流)の合流付近が増水で氾濫するにで、そに対策としてに、「信玄堤」を作っています。

あの「麻婆豆腐」のふるさとで、その辛さは半端ではありません。〈四川料理〉は、火の様に辛いのです。でも、それが旨いんです。
「火鍋」という、水炊き(スープ)と油炊き(菜種油でしょうか)が鍋の半分を仕切りにしてあって、そこに肉や川魚や貝や野菜を入れて、シャブシャブ風にたべるのです。そう言えば、今は〈食欲の秋〉でしたね。もう一度、・・・のです。

(「都江堰」と四川盆地の水の出口の「瞿塘峡の夔門(きもん)」です)
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ホットリップス

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自転車で30分ほど行った所に、農協の野菜と果物の即売所があります。夏前に、そこで買った、鉢植えのホットリップスですが、今は地に下ろして、庭の一画で綺麗に咲き続けています。

「多年草 メキシコ北部原産。高さ1.5mほどになり、茎の基部は木質化する。葉は卵形で対生し、縁には鋸歯がある。茎頂や葉腋から花序を出し、赤色の花をつける。条件によって、赤い色の部分の割合が変化し、白一色、赤一色になることもある。花冠内の基部付近に1対の突起物がある。別名 サルビア・ミクロフィラ’ホットリップス’ 花期は4〜11月。学名は、 Salvia microphylla ‘Hot Lips’ シソ科アキギリ属
 似た花に同じくチェリーセージと呼ばれるサルビア・グレッギー(Salvia greggii)があるが、花冠内の基部に突起物がないとされる(「松江の花図鑑」から)」と解説されています。

家内と時々、散歩する道の下を流れる巴波川の橋のたもとに、綺麗に咲いていて、〈花ドロボウ〉で、二輪ほど手折って持ち帰って、卓上に置いたのが、わが家での初お目見えでした。出荷する農家の庭の一画に咲いていたものを、ご婦人が株分けしたのでしょうか、一鉢だけ売られていて、通りすがりに見るだけではなく、『家の庭にも!』と買ったものです。

暑い夏場は、赤色ばかりになっていましたが、涼しくなってきた今は、白色も混ざる様になってきています。可愛らしいのです。世界には花好きが多くいらっして、〈やはり野に置け蓮華草〉で、メキシコに咲くのが一番なのでしょうけど、絆(ほだ)されてしまった花ドロボウが、持ち帰ったのでしょう。

朝顔

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10月7日午前11時30分の朝顔です。ちょっと変形ですが、高い所で、〈孤高の花〉然とすまし顔です。最盛期に比べて、晩期の様子は、来季にバトンを渡そうと、咲き続けているのでしょうか。
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自然に還れ

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昨日の夕方、夕陽を受けて、やけに空が綺麗でした。ここは広々と広がる関東平野の北端に位置していて、夕陽が綺麗なのです。天津の7階のベランダ(中国語では〈阳台yangtai〉)から見える夕陽も、実に見事でした。

1919年(大正8年)に、作詞が中村雨紅、作曲が草川信の「夕焼け小焼け」を思い出してしまいました。

1 夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手手つないで みな帰ろう
烏(からす)といっしょに 帰りましょう

2 子供が帰った あとからは
円(まる)い大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星

大正、昭和、平成の時代に歌い継がれ、令和の今も歌われていくことでしょう。幼い日を過ごした山の村の風情が思い起こされ、秋だからでしょうか、郷愁を覚えてしまいます。小学校が焼失してしまい、山のお寺の一部で、兄が学んでいて、その兄に連れられて行って、兄の机の横に椅子を置いてもらって、座っていた日をうる覚えしているのです。

月も星も綺麗に見える山村に、煙がたなびいていて、真っ赤に熟した柿や、ドドメや、アケビを採っては食べた日がありました。兄の学校の焼け跡に、アメリカから敗戦国の児童の栄養補給で寄贈されていた〈脱脂粉乳〉を、長筒の入れ物の中に手を入れて、頬張って食べたことがあったのです。また兄の教室で、調理したミルクを分けてもらって飲んだのです。

生まれ育った村よりも、もっと奥に村落があったのですが、昔は、そんな所にも、人が住んでいたのを知って驚かされました。でも、もし許されれば、そんな山奥に住んで見たいものです。熊や猪に出くわすかも知れませんし、食料の買出しも大変かな。病気したら、“ ドク・ヘリ ” が飛んで来てくれるでしょうか。電話がないとダメですね。自然に還れ!
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秋桜

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「庭のコスモス」と言いたいのですが、わが家では、「窓際のコスモス」で、枝が曲がって咲いたのもあり、応急手当ての様にビニール紐で倒れなくして、そのままで、見栄えが悪いままなのです。その身丈が、もう私よりも高くなってしまいました。風が吹くたびに揺れていますが、互いにぶつかり合ったりしないで、山でもある様に、屹立(きつりつ)し、孤高の花の様に咲き続けてくれました。

時々、わが家を訪ねてくる5才になったお嬢さんが好きで、家内に、『百合さん、コスモス欲しいの!』と言うので、家内はハサミを持って外に出て、花を摘んで、切り口に濡れたティッシュを巻いて、何度か渡してきました。風邪を引いたと聞いて、お父さんに持たせたこともありました。

見て分かる様に、花びらが整然とバランスよく並んで咲いているのです。それだからでしょうか、ギリシャ語の「調和」、「秩序」、「宇宙」と言う意味を持った「コスモス(κόσμος, kósmos)」が語源で、命名されたのでしょう。

中米メキシコからヨーロッパに持ち帰って、瞬く間に世界中で、タネが蒔かれ、植えられてきています。わが国には、明治の初年にやってきて以来、全国に拡散し、令和元年、栃木のわが家の軒下の長方形の鉢に、家内が発芽させた種を植えて、美しく咲き始めたのです。

「コスモス」には、《世》と言う意味もあるのです。海も、湖も、人の住む所も、悪や不正や不条理なことが起こるこの地上も、人の思惑だけが横行し、自然の猛威が荒ぶる世界も含むのでしょう。この反対語は、「カオス(Χάος, Chaos)」で、「混沌」、「無秩序」の意味を持ち、支離滅裂の状況を言います。現代の「人の世」は、悲しいかな、まさに「カオス」状態ではないでしょうか。
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そんな現代に向かって、「秋桜」は、整然と花びらをつけて、天に向かって屹立しながら咲いています。きっと、『秩序あれ!」とか『調和あれ!』と言いたいのかも知れません。
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100万匹

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近所の方が憤慨しているのです。三々五々とやって来て、電線に群れて止まって、やかましく鳴き、糞を落とすので、旗を降って追い払うのですが、翌日になるとまたやって来ます。

東アジア(中国、モンゴル、ロシア東南部、朝鮮半島、日本)に分布するのだそうで、日本国内ではほぼ全域に分布する留鳥なのです。都市部の人家付近や田畑などでもよく見られ、暗くなると駅の前の木に宿るのでしょうか。

農作物に害をもたらす害虫を餌にする《益鳥》で、親子8匹で、年間百万匹もの虫を捕食するのだそうです。農家にとっては大切な鳥になっています。それにしても、夕方の一時は、やかましい鳴き声で煩わされてしまい、今夕は、撮影してしまいました。
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心ふるわせて

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大陸で戦火が広がり
目をしばつかせ
その報せに耳たぶをふるわせ
真珠湾の奇襲を
えらいことが起こってしまったと心をふるわせ
焼夷弾を避けて
唇をふるわせて防空壕に走り
焼け落ちる家屋の音に
全身がふるえた

戦争が終わって
食べ物を求めて胃袋をふるわせ
平和な時代がやってきて
自由教育に目をしばつかせ
聞くこと見ることに心がふるえ
進駐軍の青年兵士に
心をふるわせて恋に落ち
嫁いで海を渡り
幸せになれると思いきや
寡婦になって
子二人をしゃにむで育て上げた

戦争花嫁の悲哀を
ふるえる心と舌でなめた過去
それを乗り越えて小さな幸せに心がふるえ
街角の集いに導かれて指をふるわせてピアノを奏で
感動で心をふるわせ
異国の街の人々の愛と好意に心ふるわせ
そして老いを迎えた

大陸に渡った妹のため
なけなしの中から
病でふるえる手元で小切手を書き
ふるえる手で封をし
投函された小切手
何度も何度も支えてくれた義姉
朝霞の郵便局で
書かれた宛名と名前の英文がふるえていて
判読できずに局員の心もふるえ
大金ではないがわずかな支えに
私たちの心がふるえた日々

今朝、その義姉が召されたとの知らせに
家内は覚悟はあったものの絶句し
愛姉の死を悼み
心をふるわせてその別れを受け止め
いのちの付与者の元に立ち帰った姉
ふるえた手も指も足も唇も、
そして心も
今安息の家で
感動にふるえている
再会の望みで空を見上げた家内

Were you there when they crusified Master !

(10/3 満州を走った「アジア号)、「真珠湾のアリゾナ記念館」です)
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