読書

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秋になると、必ずの様に、「先生」を思い出すのです。教師に恵まれて生きて来たと思い返しているのです。小学校1年から2年までの担任の内○先生、5、6年の担任の○藤先生、中学の担任の小○先生、高校の教師陣の夏○・西○先生、大学のゼミの教師の天○先生と社会思想史の講師の阿○先生、私の妻の愛し方まで教えてくれたアメリカ人企業家のK氏、難しい時期になるときっと家に招いて数日過ごさせてくれたB氏、こちらに来て出会った○氏、まだまだ数え上げられます。

『一年を思う人は花を、10年を思う人は木を、百年を思う人を育てる!』のだそうですが、すぐに結果の出ないと「教育」が、人の一生にとって大切で、難しいことかが分かります。大体、人は、20年学んで、40年働き、もう20年の余生を過ごすのだそうです。この頃では「終活」が言われ始めています。どう学び、どう働いたかによって、余生が決まるのですから、退職後に自己努力することでもなさそうです。で、私を教育してくれた人を思うのです。

仕事から離れたらしたいことは、図書館から一里ほど離れた家に越して、家内に作ってもらった弁当を持って、そこから図書館に歩いて行き、日柄読書三昧に耽りたいものです。まだ学び足りていない自分だからです。ですから、歩みつつ、学びつつ、退職後を生きてみたいのです。矢内原忠雄が、「読書」について、次の様なことを書いています。

『・・・古典を読むのは真に楽しい。何千年何百年という「時」の試煉を経た書物で、しかも単に考古的好事家の玩弄物でなく、現代人に取りて一般的興味あるもの、之が古典である。古典は単なる古書ではない。少しく親しき態度で古典を読んで居ると、其の著者は歴史的服装を脱いで、活きたる者となって我々の前に現われる。現代の人が時局の下に萎縮してしまって、何も語らないか、或は奴隷の言葉を以てしか語らないか、或は偽り曲げた言葉を語る中にあって、古典は率直に、詳細に、真実を語ってくれる。しかもその語るところは現代の活きた現実に触れている。古典は我々に真理の永遠性を感ぜしめる。我々は古典を読んで、驚くほどに現代を知るのである。「時」の波を越えて活いくる永遠の真理探求者と手を握って現代を論ずる、之が私には楽しくてならないのだ。』と。

この矢内原の著した本に、「世の尊敬する人物」があります。彼があげたのは、エレミヤ・日蓮・リンカーン・新渡戸博士の四人でした。初めの二人は、《預言者型の人物》であり、後の二人は、《常識家型の人物》なのだそうです。この人たちについて、次の様に矢内原は言っています。

『而して私の尊敬する点として、この四人に共通する性格は次の四つである。
(一)真理を愛したこと。
(二)誠実であったこと。
(三)平民的であったこと。
(四)欠点ある人物であったこと。』と。

この「欠点のある人物」と言うのが好いですね。矢内原自身、東大の学長をするほどでしたが、自分の欠点の多いことを、臆面もなく告白する人でした。ご子息も、そんな父だったと書き残しています。《欠点》については、誰にも負けないほどである私は、そう言った人たちに親密さを感じて、ホッとするのです。老いたら、ホッとして生きたいではありませんか。そうそう図書館に行くときは、家内も誘う日も作りたいと思いました。

ここまで、以前の投稿文です。秋って、「読書」の季節ですね。「書」、とくに「古典」を先生にして、秋の夜長を楽しむのも好いことでしょうか。私の読みたい本の数は、ゆうに百冊をこえています。きっと図書館の蔵書の中に、見つけることができそうです。ところが今日、家内と私立図書館に行って、文化的活動をしました。蔵書の中に、何と「矢内原忠雄全集」を見つけ、有頂天の喜びでおります。図書館に、これから脚繁く通うことでしょう。

(エレミヤを描いたものです)

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