同級生

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子育て中の頃、同じ街で、一時期を共に過ごした、私たちと同じ6人家族の奥方から、写真が送られてきました。彼は、街中の “ YMCA ” で英語を教えながら、私はスーパーマーケットの床清掃事業をし、家族を養いながら、〈私塾〉で一緒に学んだ〈同級生〉です。

三人とも孫を持つ〈ジイジ〉になって、まあ孫自慢の写真でしょうか。それで、私も〈写真庫〉から探し出してメールの添付して送信したところです。彼は、アメリカの名門大学を卒業していて、飛切り頭脳明晰でした。瞬く間に日本語を覚えてしまいました。小さなメモを常に携行して、それに書き込みながら学んでいました。

お父上も、有名な大学の教授でしたから、親の良い遺伝子を受け継いでいたのでしょう。私は40点、彼はほぼ満点の試験成績で、私の刀の大和魂では太刀打ちできない、アメリカン魂の機関銃の優等生でした。ちょうど事務所の建設をしている頃で、京都からやってき来た、もう一組の夫婦も、後から加わって同級生でした。

短気な私、優秀な彼、穏やかな福井県人で、揉まれ揉みながら、しばらくの間、共に過ごしたのです。懐かしい方たちです。この二人は、私から忍耐を学んだのでしょうか、素敵な家庭を築き上げて、孫に目を細めている今です。『病中の百合さんを見舞いに行きたい!』と電話がありましたが、通院の間隔が短くて、お招きする手をこまねいてる間、共に過ごした地の名産の〈白桃〉とお見舞いを送ってくださったのです。

助け合いながら、研ぎ合いながらの年月が懐かしくて仕方がありません。アメリカからの彼はギターが上手で、奥方は、〈スズキ・メソッド〉のバイオリンの名手でした。法螺しか吹けない私と違って、情緒的にも落ち着いたみんなの中で、『浮いていたかな?』の私です。孫たちはみんな、この世の嵐の中で只今、〈工事中〉なのでしょう。どことなくジイジとバアバに、どこか似ていて、面影がある、マゴたちです。

正しい価値観を身につけて、この世に染みてしまわずに、まっすぐに育っていってほしいと願う、台風20号が熱帯低気圧に変わり、大雨を降らせている昼過ぎです。(22日記)

高徳の人

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羽前・米沢藩に、『この人あり!』と言われた、上杉鷹山(ようざん)は、十七歳で米沢藩主になります。小藩の大名の子は、「養子」として上杉家の家督を相続しますが、思い上がることなどありませんでした。鷹山は、人に恵まれたのです。母方の祖母の感化を受け、「もの静かで、利発で、孝心篤い性格」を宿したのです。また師として仰いだ、高潔の士・細井平洲から「忠順」を学んでいます。

結婚相手の上杉家の令嬢は、先天的な知的障碍があり、十歳ほどの知力だった様です。この方との二十年ほどの結婚生活について、何一つ不満を持つことがありませんでした。自分の運命を、ありのままで受け入れたのです。妻の遊び道具や人形を、自らの手で作って上げ、心から妻への愛と敬意を表しています。ですから、世嗣ぎの子を産むためだけの側室を一人だけ米沢に置き、江戸の上屋敷に住む正妻とは、はっきりと区別をしたのです。正妻との間には子を成しませんでした。

子育てにも心を向け、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしないこと!』、『貧しい人々への思いやりを持つこと!』と教えています。また、性犯罪が起こると危惧する中、鷹山は、米沢にあった「公娼(売春)」を廃止してしまいます。結果は、何の問題も起こらなかったそうです。医療制度を整備し、医学校を立て、西洋医学を導入しています。貧しいながら有為な青年を、奨学金を与えて育てています。さらに多くのことを行っています。

陸奥の辺鄙で山深い地で、こんなに高邁な志と、高潔な人格で藩政を行ったのは、封建下ではありながら、「日本の誇り」ではないでしょうか。経済政策で藩を豊かにするのは、誰にもできるかも知れません。でも、人の道徳心を高めたことは、特筆に値します。七十歳で亡くなった葬儀の時には、何万もの会葬者が、道に溢れていたそうです。深く哀悼を示す声が藩内を満たしたのです。

自分の居室の畳替えも後回しにするほどの質素と倹約の生涯であったと聞いています。詳しくは、「代表的日本人(内村鑑三/岩波文庫)」をお読みください。このように徳の高い鷹山こそは、この時代が求めている指導者、いえ現代人全ての模範的な在り方、生き方なのではないでしょうか。

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 黄河流域の氾濫原に、古代文明が誕生します。定住して農耕が行われ、文明が起こり、「黄河文明」と呼ばれる文化活動が展開して行きました。その中で誕生したのが、「漢字」でした。ある意味では、祭祀的な背景の中から誕生するのですが、私たちに現代生活と、切ってもきれない役割を、この独特な文字は担っています。

自分の名前は、「廣田準」と表記するのですが、きっと祖先は、大百姓で、広大な田畑の所有者だったのでしょうか。それとも、広がる扇状地に住んで、田畑を開墾した過去があって、そんな苗字をつけたのかも知れません。田んぼの真ん中に住んでいた人は、「中田」とか「田中」、川の沢に田を持った人は「沢田」、「佐和田」とか名乗ったかも知れません。

親がつけてくれた「準」は、次のような意味がある様です。「会意と形成文字です(氵=水、それに〈隼〉で成っています)。〈流れる水〉の象形と〈鳥に象形の下に〈一〉を加え、人が腕に止まらせ、狩に使う鳥を示す文字〈隼はやぶさ〉の形をした〈水準器〉、〈平たいら〉を意味する。」のだそうです。「準備」、「準拠」、「準用」と言う言い方で使われ、「準会員」もありますから、主力でない、二の次のような意味があるようです。父は、「二番手」、「補欠」でいい、そんな平凡で目立たない生き方を、私に願ったのでしょうか。

この1週間ほど、「大雨」、「増水」、「浸水」、「水害」、さらには、「氾濫」、「洪水」など、「氵」や「水」のつく出来事に翻弄されています。そんな体験の中、もう一つの漢字が思いの中に浮かんでまいります。「愛」です。浸水の報を聞いて、「焼きそば」、「お寿司」を持って駆けつけてくださったり、闘病中の家内の衛生上の問題で、『ここにいてはいけない!』と、家探しをしていただいたり、部屋を提供してくださったりして、多分の「愛」をお受けしているのです。

こんなに静かで、落ち着いた疎開先で生活ができて、家内も私も感謝でいっぱいです。「愛」という漢字には意味があります。「本字は、会意形声。夊(すい)(あるく。夂は変わった形)と、㤅(アイ)はふりかえろうとする気持ち。㤅は変わった形)とから成り、ふりかえりつつ歩く、ひいて、心にかける意を表す。のち、?に代わって、愛が用いられる。」と漢字辞典にありした。「心にかける」、関係や繋がりのない者への、心遣いは、病んで、衛生上の必要のある者には、何とありがたいことでしょうか。

人の心から流れ出る美しい感情、優しい感情を、「愛」と言うのでしょう。親の愛、朋友の愛、兄弟の愛を身にしみて感じている最中です。子どもたちが、様々に気を使ってくれるのは感謝なことです。『子が4人います!』と言って、若い頃に笑われたことがあり、『4人は多過ぎるかな?』と、チラッと思ったことがありました。でも《矢筒を矢で満たしていること》 が、こんなに素敵なことであるのだと喜ぶ今です。《温かな漢字》にも感謝しないといけませんね。

(「矢」と「矢筒」です)

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水炊き

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今朝4時半の気温は8°です。『寒い!』のです。那須高原に近いからでしょうか、早く冬が来ているのかも知れません。昨日の晩ご飯は、私の父が好きで、母がよく作っていた「水炊き」でした。白菜、春菊、長葱、それに鶏肉でしたが、わが家は「豚肉」に変え、「しめじ」を加えて煮たのです。それを、友人が鹿沼から買って来てくれて残しておいた「赤大根」と生姜とを「おろし」にして、〈創味〉を醤油がわりにして、それにつけて、〈したつづみ〉と言う頂いたご当地米を炊いて、食べました。

この水炊きは、初冬の夕食には、一番のお似合いでしょうか。ちゃんとでデザートもあり、歓迎の意味で卓上において置いてくださった「柿」を剥いて食べたのです。退院当初は、『食べたいわ!』と言うから作っても、なかなか食べれなかった家内が、昨晩も『フーフー』しながら、実に美味しそうに食べてくれました。最近は食欲旺盛なのです。

昼前に、ここにやって来られたご婦人が、家内に頼まれた物を買いに行って帰って来た私に、ドライケーキを一つくださったのです。ここのボスと3人で談笑してから、それを持って二階に上がり、テーブルの上に置いたら、家内に食べられてしまいました。もちろん、『食べていい?』と言った後でした。ほとんど間食をしなかった彼女が、お腹が空くのでしょうか、甘い物には気をつけて来ているのですが、彼女には、「食欲の秋」の到来です。

深まり行く秋で、もう鳴き始めている鳥の泣く声も、秋色がしているのかも知れません。子どもたちが、私たちの《巣》を探してくれています。彼らは、東京に近い、ここから南の方にに越してくるように願っていますが、家内は、『栃木がいいの!』と言っています。それで子どもたちが折れて、獨協医科大学病院に通院しやすく、通院の間に生活しやすく静かで、鄙びた地にある家を探してくれるのでしょう。好い一日をお過ごし下さい。

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失いしもの

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今回の被災にともない、悲しいことがいくつかあります。病んだ家内の闘病生活のために、良友夫妻がお貸しくださった家が、住めなくなってしまったことが第一なのです。

中国から急遽帰って来て、ひとまず、家内が落ち着いた家でした。その翌々日の1月10日に、家内は獨協医科大学病院に入院し、4月15日に退院するまで留守をしたのですが、私と、見舞いに来てくれた娘たちが泊まり、その家族が駆けつけてくれて泊まった家でした。また、日本で生活をしている息子たち家族が、見舞いがてら訪ねて来てくれた家でした。さらに友人たちや、親族がやって来てくれたりもしました。

一喜一憂、いえ一喜多憂し、それでも天を見上げ、手を合わせながら、人の非力を覚えながら、治癒を信じ、帰って来ることを、切に願った家でした。家内を見舞い、下着を持ち帰って洗濯し、物干しにかけ、乾いた着替えや頂いた便りを持って病院通いをした基地でもありました。また友人知人からに問い合わせに応えたりした家なのです。

何よりも、病状が快方に向かって、退院して帰ることのできた家でした。見舞ってくれた家族や友人たちと談笑し、喜び合った家です。中国の華南の街からも、三組の見舞客が訪ねてくれ、中華料理を作って、家内に食べさせてくれた台所のある、床掃除をしてくれた家でした。

華南の街の家では、毎年、夏先に育てたのが朝顔でした。健気に一所懸命、次から次と咲いては喜ばせてくれる花が好きだったからです。家内が種を蒔いて、台所の流しの下の暗闇で発芽サせ、鉢に植え替えて、育てた花なのです。退院してきた家内が、最初にしたのは、この朝顔の種まきでした。もう、家内がそうすることなど、ありっこないと思ったことでしたが、朝顔が花開き、次から次へと咲き出して行きました。

先週末の19号台風の襲来で、決壊した川の水が押し寄せて来て、強風に見舞われながらも、その強風雨に耐えて、月曜日の朝、二輪の花が咲いたのです。諦めていたのに、開花してくれました。ところが、そのまま、ここ高根町に越して来てしまったのです。水遣りの世話をしないで放置してしまった〈申し訳なさ〉で、思いがいっぱいです。

落ちた朝顔の種が芽を出して、小鉢に分けて植えたものも、そのままです。人が作り出せない命を、人間の都合で断つという悲しみです。40年前に、上階の家のガス爆発で、ベランダのジュウシマツが焼死してしまいました。そして13年前に、中国に行くに際して、飼い主を見つけられず、市の保護センターに連れていかざるを得なかった、二匹の猫の保護責任、養育責任の放棄もありました。

みんな辛くて、悲しい出来事でした。でも、どうすることもできないことは、赦されると思っております。今季咲いた朝顔の種が、残した本棚の中に置いてあります。来夏、その種を、近々見つかるであろう家の庭かベランダの鉢に植えようと思っています。これで好いでしょうか。〈失いしもの〉は、確かに多いのですが、〈得しもの〉の方が、はるかに多いのは、感謝なことであります。

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秋深し

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「秋深し」でしょうか、初冬の様な、気温11°の朝です。《台風一過晴天》と言いたいのですが、空は雲が多く、日中は晴れたり曇ったり、20°には届かない、今日の予報です。雲間から陽が出てきています。

四方に窓があって、360度見渡せる、鬼怒川の近くの標高100mから200mの丘陵地帯に、この倶楽部の総二階の建物は位置しています。広い関東平野が、この辺りになると標高が高くなり始めて、山岳地帯から山岳地帯に変わって行く様です。人口3000人弱の町のサイトに、次の様な記事が載っていました。

『天皇陛下の皇位継承に伴う儀式である「大嘗祭」につきましては、5月13日に本県が悠紀地方に選定されていましたが、9月18日に、宮内庁から本県産米を供給する斎田の発表があり、高根沢町のたんぼに決定いたしました。大田主は斎田を所有する大谷の石塚毅男(いしつか たけお)氏が選ばれた。』

やはりお米が美味しいのでしょうか、見ず知らずの私たちを迎え入れてくださったみなさんが、「お米」と「柿」とを台所のテーブルの上に、ご用意し、暖かく迎え入れてくださっています。倶楽部員のどなたかの田圃で収穫したもので、昨夕の食事に炊いて戴きました。美味しかった!

この夏頃から、これまでは飲むことのなかった〈薬〉を、毎朝食後に飲む様になっていたのですが、慌ただしく被災した家を出て、高血圧症の薬を忘れて来てしまったのです。それで昨日は、近くの内科医に診察に行き、30日分を処方してもらって来ました。まだ《薬の大切さ》の自覚が足りない自分に呆れています。

病弱な子ども時代に、粉薬や水薬を、イヤと言うほどに飲んだので、その分、成人してから、この歳になるまで、〈無薬自慢〉でいい気になっていのですが、食後に家内から、『薬は?』と言われては、〈クスリ〉と笑って手を伸ばそうと思ったら、壁に用意したのを置き忘れてしまったわけです。

〈玉にキズ〉は、最寄り駅から徒歩25分もあって、〈徒歩5分〉の前の友人の家と比べて遠いのです。こんなに静かで、綺麗にされて、整っている部屋に避難できているご好意に、ちっと感謝知らずなのを詫びる思いでおります。

週末には、次男が親の安否を尋ねて、やって来ると言っています。新宿から宇都宮には一本で来れて、烏山線に乗り換えで二駅です。交通の利便が好いのだそうです。環境の変化、洪水の罹災の中、家内は守られております。この町のタウン情報、獨協医大病院の附近の貸家情報などを調べては提供してくれたり、両親を慰め励まそうとしては説教の一部を翻訳して送信してくれたり、娘たちもしてくれています。長男は〈家探し〉を一緒にしようと言ってくれています。感謝!

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引越しと親切

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昨夕から住み始めた家は、生まれてから〈24回目の家〉にあたります。こんなに引越しをして来たことに、当の本人が驚いております。人は、小学校時代を過ごした街が、一番懐かしいのだそうです。その街で、ウサギは追いませんでしたが、ザリガニやハヤは釣った覚えがある街に、小二で引っ越して来て、二十歳まで住んだ街が、《ふるさと》でしょうか。

中国に行って、最初に住んだのは、天津の天文台のある道路脇にあった外国人アパートでした。そこは、ホテルの様な作りで、ロビーを通って上階の部屋に行き来したのです。習いたての漢語を、そこで復習する宿題で、会話訓練を積みました。その後、華南に移り住んだ家は、学校のホテルでした。そこに一年ほどいて、師範大学の教員住宅に住み、友人の同僚の持ち家に引っ越しました。木の香のする素敵な家でした。

ところが檻の様な塀に囲まれ、家の窓という窓にも檻の様な柵がついていましたが、自分が囚人ではないので、すぐに慣れました。そして、その後、友人が留学をして、空いてしまう家に住んで欲しいと言われて、そこに住み始めました。そこを中国での最後に、家内の病気で、この9月に、13年に区切りをつけて、家の整理を終えて、帰国しました。

そして、帰国と同時に、家内が、下都賀郡壬生町にある、獨協医科大学病院に入院したのを契機に、友人のご好意で、栃木市の家に住み始めたのです。ところが在栃10ヶ月目に、先週末の台風19号の大雨、増水、氾濫で、お借りしていた友人宅が、床上浸水に見舞われてしまいました。闘病通院中の家内には、『衛生上の問題があるので、ここを引き払ったほうがよろしいのではないでしょうか!』との友人のご子息の助言で、この方の友人の倶楽部の空いた二階に、昨夕引っ越して来たところです。

一応、ふさわしい家が見付かるまで、と言う条件で、ご好意に甘えることができたのです。この避難所の、高根沢町は、宇都宮から宇都宮線、烏山線のと言うJRの分岐駅・宝積寺(ほうしゃくじ)駅が最寄りです。家内は落ち着いております。引越し24回目が、こんな形になったことに、とても驚いている私です。まさに旅人、寄留者の心境です。

次男が家内のお腹の中にいた初夏に、会場の家のガス爆発で、消防隊の放水する水で、家財道具がずぶ濡れになってしまい、引越しせざるを得なくなった、あの時を思い出しています。いろいろな経験をして来ましたが、自然のもたらす猛威を、身をもって体験した今回の罹災と引越しでした。

昨日、こちらに着いてから、忘れ物に気付いて、息子に栃木まで連れ戻ってもらったのです、家で忘れ物を取って、小山駅まで送ってもらいました。その駅の改札付近で、一人の高校生に行き方を聞きましたら、親切に教えてくれたのです。ところが10番線ホームで待っている私を追って来て、『宇都宮駅で8番線に乗り換えてください!』と、わざわざ追加説明をしてくれたのです。いやー、親切な女子高校生に感謝した次第です。もちろん息子にもでした。まずはご報告まで。

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罹災

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台風19号の異常な降雨量によって、家が〈床上浸水〉の被害にあってしまいました。警戒レベル4で、二階に避難して、家内も私も難なきを得ましたが、床が冠水してしまいました。朝5時過ぎから、部屋の泥だしで悪戦苦闘の1日でした。駅の向こうから流れて来た水に襲われてしまったのです。

付近の巴波川や永野川が決壊したり、増水したりだそうで、今まで、テレビニュースを見て来て、他人事だと思っていたことが、我が身にもと言った感じです。このままでは、特に闘病中の家内には、畳の部屋も水を吸っていたりで不衛生だと言うことで、友人のご子息が心配してくださっています。知人の倶楽部の二階が空いてるので、使える様に頼んでくださったているのです。

今日、その責任者の方がが来られて、当座の避難場所をお借りするかどうかを決めようと考えています。ちょっと“令和のエクソダス”と言った感じがしております。35、6年前に、住んでいたアパートの上階のガス爆発で、消防隊の放水で、持ち物が、ほとんど使えなくなって、避難した時を、今日は思い出しています。

人生、いろいろなことがあり、様々に経験して来ましたが、自然災害の罹災をするという、新体験が積まれたわけで、罹災者のお気持ちが、やっと理解できています。腰まで浸かるほどの被害を受けられた方もいますから、まだまだ軽い罹災になるでしょうか。

写真は、綺麗に掃除をした後の、外の物置と、ミーティングルームの浸水後、水が引いた時のものです。物置には、増水時の水位が記されていますから、結構、水位は高かった様です。すっかり二階の部屋で眠っていましたので、増水、浸水に気づきませんでした。今日、長男と孫二人が助けに駆けつけてくれます。ご報告まで。
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意地

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〈女の意地〉、私の母親に、この〈意地〉があったのを思い出すのです。母の生母が、綺麗な女(ひと)で、下宿していた学生と恋仲になって、母を宿したのです。まだ女学校でたての十代だったそうです。親に反対されて、慕う人と離され、それでも子を産んだのです。これも親や親戚が強引に、生まれた子は、養女に出され、養父母に育てられることになったのです。これが母の誕生の顛末です。

今も昔も、こう言った話は、小説の中だけではなく、現実に多くあるのでしょう。母は、少し色は黒かったのですが、〈今市小町〉と言われたのだそうです。親戚に聞いたそうで、実母が、奈良にいることを知って、17の時に、母親を奈良に訪ねています。会えたけど、『今の幸せを壊して欲しくないので帰って!』と言われ、帰ったのです。

どんな気持ちで帰りの汽車に乗ったのでしょうか。でも母は、14の時に、カナダ人起業家と出会って、いと高き天に自分の《本当の父》がいると聞いて、逆境の悲しさや辛さの中にいる自分を、しっかりと抱きかかえてくれる方を知るのです。それが、母の95年の生涯の生きる支え、力だったのです。きっと、その時に、良い意味で〈意地〉を内に宿したのかも知れません。

 この母の三男坊の私は、父の寵愛を受けて、私立の中学に入れてもらいました。〈大正デモクラシー〉の中で設立された学校で、私学では有名な教育者が校長でした。一学年百名ほどで、医者や都会市会の議員や社長の子たちがいました。また中央競馬界の有名な調教師や馬主の子たちもいました。

父兄会になると、そのお母さんたちが〈女〉となって、“ 着飾りショー " になるのです。〈持ち物の誇り〉です。母と言えば、そのお母さんたちには、到底叶わないわけです。生活レベルが桁違いだからです。それでも、〈女の意地〉、いえ、〈父の子としての誇り〉と言った方がいいでしょうか、『負けたくなかったわ!』、だそうです。やはり〈意地〉になっていた、三十代の母でだったのでしょう。

そんな闘志、競い合おうとする気概、生きるバネで、母は自分でも決めるべき時は決めて生きていたのでしょう。〈いじけ〉よりも〈意地〉を持つ方が、まだまだいいからです。そんな母の三男の私は、〈意地〉が弱いかも知れません。弱い理由は、私の競争相手は、〈私自身〉 だと分かったからです。それでも〈父の子としての誇り〉は満々とあるのです。誰にも、どんなことでも奪われたり、さらわれたり、盗まれることがありません。《確乎たる誇り》があるからです。
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台風19号

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歴史上、地球上最大規模の台風19号を、アメリカ軍が撮影しています。もう、水で滅ぼされることのない地球ですが、この暴風雨の塊が、今週末に、日本に被害をこうむることが最小限である様に切に願っています。

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