百年

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この写真は、百年前の「能代実業高等女学校」の授業風景です。大正時代ですね。それに比べ、下の写真は、現代の女子高生です。
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そして、これは100年前のイギリス車です。
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そしてこれは現代のドイツ車です。
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さらに100年前の働く女性であう。
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これはパンプスを履いた現代女性の足です。
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百年の違いって大きいですね。
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こんなに暑いのに、夜半になると、どこからともなく虫の声がしてきます。『もう少しの夏を我慢すれば秋が来ますよ!』と言っているに違いありません。1910年(明治43年)の唱歌集「尋常小学唱歌」第2学年用に掲載された文部省唱歌に、「虫のこえ」があります。

あれ松虫が 鳴いている
ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も 鳴き出した
りんりんりんりん りいんりん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり こおろぎや(きりぎりす)
がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

明け方になって、やっと涼しくなるのでしょうか、夜通しつけていた空調を切って、戸を開けるのを繰り返していますから、日中はともかく、夜半は涼しくなって欲しいものです。奥日光や那須に行くと涼しいのだそうですが、とにかく『もう少しの涼を!』の毎日です。
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秋でもないのに

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春になると夏が、夏になると秋が恋しくなる、これが人の常でしょうか。旅に出掛けたくなったり、文学作品に挑戦してみたくなったり、父が『一緒に食べような!』と約束して食べずじまいの土壌鍋が食べたくなったり、一度食べてほっぺの落ちた次郎柿が食べたくなるのです。

作詞が細野敦子、作曲が江波戸憲和、本田路津子が歌った、「秋でもないのに」は、次の様な歌詞でした。

1 秋でもないのに ひとこいしくて
  淋しくて 黙っていると
  だれか私に 手紙を書いて
  書いているような
  ふるさともない 私だけれど
  どこかに帰れる そんな気もして

2 秋でもないのに ひとりぼっちが
  切なくて ギタ-を弾けば
  誰か窓辺で 遠くをながめ
  歌っているような
  恋人もない 私だけれど
  聴かせてあげたい そんな気もして

3 秋でもないのに 沈む夕陽に
  魅せられて 街に出ると
  誰か夕陽を 悲しい顔で
  見ているような
  空に瞳が あるならば
  あかね雲さえ 泣いているだろう

やっぱり〈人恋しい季節〉なのです。美味しい〈キリマンジャロ〉をグラインダーで挽いて、ドリップで淹れたものを、一緒に飲んだ恩師が、懐かしく思い出されてきます。『もう少し濃い方が!』と思いながらも、アメリカンで我慢したものです。実は、私に我慢したのが恩師でした。今日あるは、その〈我慢の賜物〉です。
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愛媛県の田舎町に、上の二人の子を連れて訪ねて、『弟子にしてください!』と頼んだ師匠がいました。なってくれませんでしたが、多くのことを教えてくださった方でした。母と同年齢だったのです。小学校しか出ていないのに、独学の姿勢が素敵でした。

疲れると、決まって『家族で来ませんか?』と誘ってくださった方がいました。20歳違いの同月同日生まれでした。恩師との関係が気まずくなると、そう言って誘ってくれたもう一人に恩師なのです。お子さんたちが、私たちの4人の子に、部屋を提供してくれて、彼らは、どこかに潜り込んで寝ていました。夫人がパン屋の娘さんで、美味しい料理の作り手でした。この方の次男が、日本人の女性と結婚をされ、3人のお子さんを育てておいでです。お父上と同じで、私たちの激励者でいてくれます。

秋でもないのに、人を懐かしく思い出して、本物の秋の到来を待ちわびる、猛烈残暑の日曜日の午後です。

(友人が撮らられた渓流の写真です)
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返り咲き

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生まれた年も、74年前も、東京オリンピックが行われた年も、結婚した年も、4人の子たちが生まれた年も、東日本大震災の日も、熊本大分大地震の年も、同じ様に、日本の津々浦々、都会でも田舎でも、この「朝顔」が咲いていたのです。そして今、北関東の「小江戸」の街の片隅でも咲いています。

「朝顔」は、戦争を語りません。自然災害にクレームをつけません。ただ咲く使命を託された花で、人を慰め、励ましてきているだけです。早朝、ベッドから起き上がって、障子を開けて、まず家内の目に飛び込んでくるのは、花開いた「朝顔」です。

華南の町で、狭いベランダに「朝顔」の発芽した芽を、土の中に植えて、何年も、晩春から、年明けの正月まで、その鑑賞を楽しんできました。遣唐使が帰国時に持ち帰った「朝顔」が、咲き終わって残した種を、それが幾年も繰り返されて、平成の代に、その種を、任地に戻る荷に忍ばせて持っていった種を、小さな鉢の土の中に植えたのです。それは見事な《返り咲き》でした。

今も同じ様に、静かに花開かせた「朝顔」に、生きている実感を覚えさせられいるのです。
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肩もみ

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家内の入院治療が始まって、家と病院との《二点間移動》が始まって、8ヶ月になります。もちろん、市役所、郵便局、スーパーマーケット、ドラッグストアー、農協の即売所、煎餅屋、歯科医院、血圧内科医院などにも、私は出掛けてはいます。

転居手続きのために埼玉県志木市、買い物に栃木県佐野市、友人夫妻にご馳走に連れ出されて小山市、足利市などにも行きました。でも、生活の精神的、実際的には、この《二点間》での移動なのです。

最近、家内の体調が好くて、限られた行動範囲から、少しずつですが、行先が増えつつあるのです。昨日の外来通院で、午後の投薬までの間に、院内のレストランで昼食に、「日光ゆばうどん」を摂っていました。さらに家内は、街中のうどん店、回転寿司店、イオンなどに行ける様になっているのです。

そういえば、食べる物も、糖分や油分を、極力避けていたのが、外食もできるようになってきて、家での食事に、砂糖(蔗糖ですが)、塩や醤油なども普通に使うようになっています。昨日も、腫瘍が小さくなってきているとか、肺に空気が多く取り込められるようになってきているとか、胸水がなくなっていると、担当医師が言っておられました。

咳も痰も出なくなっているのです。そんなで、家内も私も、もう少し広く世の中や病院が見られるようになってきているようです。この大学病院には、「ものわすれ外来」とか「こども医療外来」、別の大学病院には、「がん哲学外来」があるそうで、家内自身も、ただの「内科」ではなく、「呼吸器・アレルギー科」で受診しているのです。

医療の分野が細分化し、より専門化してきているのでしょうか。家内が最近、友人から頂いて読んでいる本は、順天堂大学の「がん哲学外来」の樋野医師の書いたもので、病院外で、「まちなかメディカルカフェ」という動きも行われていたりして、国内の100箇所以上で、交流や相談が行われているそうです。彼女は、これに参加したいのだそうです。

病気の「気」が、注目されてきて、患部にだけではなく、「心」が注目されたきているのでしょう。そういえば、彼女は、入院中、研修医に「肩もみ」をさせてしまったそうで、そんな治療は、内科にはなさそうです。その医師は、他の科の研修に行っても、家内の病床にやって来て、激励してくれたのそうです。それが、とても嬉しかった様です。

昨日、《第7回目のキイトルーダ》の投与を、家内は受けてきました。まだ加療を必要としていますが、「心」が元気でいます。多くの友人のみなさんや兄弟姉妹、子どもたちから、励まされ応援されていて、難病と果敢に闘っている最中です。ありがとうございます。

(庭のホットリップスです)
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オーロラ

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地球上に起こることは、悲しかったり、見るに耐えられないかったり、不安だったりしますので、地上への関心を、ひとまず停止し、目と思いとを、天空に向けて見ることにします。そこには《流星群》や《オーロラ》が見られて、素晴らしい世界が広がっているではありませんか。

中国・北宋の時代の詩人、蘇軾(そしょく)が詠んだ詩に、「中秋月」があります。

暮雲収蓋溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

◯日本語読み
暮雲収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れの処にて看ん

◯ 日本語訳
日暮れ方、雲はすっかり無くなって、さわやかな涼気が
みなぎり、銀河には玉の盆のような明月が音もなくさしのぼった。
この楽しい人生、この楽しい夜も、永久につづくわけはない。
この明月を、明年ははたしてどこで眺めることだろう。

ここに詠まれる「銀漢」とは、「銀河」、《天の川》のことです。古代中国の詩人も、官職にあった北宋の世も、人との関わりが煩雑で、生きるには難しかったのでしょう。彼もまた、空に目を向けたのです。地上からは群れをなしてる様に見えても、一つ一つの星は、孤高の光を煌めかせいたのです。
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二十一世紀の地上は、落ち着きがありません。怒声や唸り声や憎しみが、やかましく渦巻いています。敵愾心、赦せない思い、過去に民族が負った不始末の蒸し返し、被害者も加害者も荒げた声と、殺伐とした思いが鍔剃り合いながら、挙げた拳を下ろそうとしても、下し所と時が見当たりません。

作詞が永六輔、作曲がいずみたく、坂本九の歌った「見上げてごらん夜の星を」が、よく歌われていました。

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん夜の星を 僕らのように
名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる

手をつなごう僕と 追いかけよう夢を
二人なら苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

手をつなごう僕と 追いかけよう夢を
二人なら苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん夜の星を 僕らのように
名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる
ささやかな幸せを 祈ってる

だから、アラスカやカナダやスカンジナビアに、《オーロラ》を見上げに行ってみたいと、仕切りに思うのです。もう召されてしまったのですが、知人を病床に見舞ったり、病院の送り迎えを繰り返して差し上げた、同年輩の男性と、『元気になったら、オーロラを見に行くじゃん!』と約束したことがありました。彼もまた企業戦士で、やり手であったから、心も擦り切れていて、それを、繕う旅に、誘って、外の世界に連れ出して上げたかったからです。

アラスカならずとも、また内蒙古の草原のバオから、降る様な《流星群》や《銀漢》を見上げてみたいのです。ストレスを溜め込まない私ですが、子どもの頃に、写真で見た、《オーロラ》も、元気なうちに出掛けて見てみたいのです。悠久の時間を味わえそうです。
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歌人

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中学生の時、「白鳥」という名前の同級生がいました。“ はくちょう ”
ではなく “ しらとり ” と読みました。名前とは裏腹で、色黒で男っぽいな顔をしていました。体育大学に行って、卒業してから、高校の教師になったと聞いています。

中一の国語の時間に、

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

という和歌を習いました。「酒仙の歌人」と言われた若山牧水の作です。その教師が、白鳥くんをからかっていたので、懐かしく思い出すのです。この教師は一級上の学年の担任をしていて、そのクラスに、若山牧水の孫がいました。この上級生の担任であるのを、自慢げに話していて、同級生をからかったりで、好きになれない教師でした。

牧水は、『百害あって一利なし!』の酒と旅を愛した「漂白の歌人」だと言われていますから、家族を顧みない気ままな人生を生き、早逝した人だったのです。そんな彼なのですが、その詠んだ歌は、多くの人。に愛されています。牧水が、次の歌を読んでいます。

山越えて 入りし古駅(こえき)の 霧のおくに 電灯の見ゆ 人の声きこゆ

失恋で、憔悴の思いで旅に出て、若き牧水が詠んだものです。私も一度失恋をしましたが、憔悴することも、旅に出ることもなく、あっさりと諦めてしまいました。でも男の執念でしょうか、時々思い出し、彼女を射止めた男を、殴ってやりたい思いを、若い頃に持ちました。これもまた若き日の夢のまた夢です。

感受性の敏感な男の失恋、全てを忘れたくて、牧水は、田舎行きの列車に飛び乗ったのでしょう。たどり着いた鈍行列車の到着駅で、「人の声」を、久しぶりに聞いたのでしょうか、その声を聞いて慰められた思いを、詠んだのです。

芭蕉にしろ、杜甫にしろ、旅を続ける自由と、迎え入れてくれる歌の友がやお弟子さんがいて、それを楽しむことのできる、そんな好い時代だったのでしょうか。彼らは傷付き易い人でもあったのでしょう。その歌は、飛行機や新幹線に乗ってでは、詠み得ない歌なのです。

人の声の懐かしさって、こんな私でも感じることがあります。家内と二人の話に、昨日は長男家族が加わって、交わされる会話、「人の声」が、なんとも言えず懐かしく、暖かく、慰められたのです。石川啄木の歌にも、

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく

標準語しか話せない私でも、子どもの頃に育った村の方言の響きを覚えていて、新宿駅から、鈍行の中央本線の長野か、松本か、茅野あたり行きの列車に乗り込んだら、その方言が聞こえてきて、なにとはなく懐かしさがこみ上げてきて、啄木をした経験があります。

今、『職業は何ですか?』と聞かれたら、寺山修司だったら、「詩人」と応えるのでしょうけど、私は、『歌人です!』と応え様と心備えをしていますが、まだ聞かれたことがありません。上手に歌を詠めませんから、ちょうど好いのですが。

(青森駅の駅舎です)
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朝顔たより/9月12日

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この写真の後に、私たちの生活空間が写り込んでいます。昨日も、『ユリさん!』『ジュンさん!』と呼び掛けてくれる、5歳になったばかりのオシャマなお嬢さんが、来てくれました。友人夫妻がメロメロなお孫さんなのです。昨夕は、今夏久しぶりの涼しさを感じさせられました。やはり、さしもの暑い夏も、行こうとしています。

帰省の季節で、電車も道路も渋滞が始まったようです。子どもたちや孫たちの実家が、栃木に移ってしまって、帰省ならずも、訪問は嬉しいことでした。13年も、彼らの実家が、大陸にあったのですが、今は、海を渡らないで、「実家」が住むここに、電車やバスで来られ、自転車だって来られるでしょう。

北関東の夏が行き、初めての秋がやって来ます。果物栽培も盛んで、このお嬢さんのお父様が、先週は、「巨峰」を2房も届けてくださいました。美味しかった!