遠足

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日本人の間に、ウナギを食べる習慣が一般にも広まったのは、1700年代後半、江戸時代だったそうです。日本最初の〈キャッチコピー〉は、ウナギの売れ行きが悪かった鰻屋が、平賀源内に相談し、

“「本日丑の日」
土用の丑の日うなぎの日
食すれば夏負けすることなし ”

と言う看板を出すことを勧めたそうです。そうしましたら、うなぎのぼりに売上が上がって、大繁盛したのだそうです。ちなみに今年の「土用の丑の日」は、7月27日に当たるそうです。

今日、友人夫妻が、家内と私を「遠足」に誘い出してくださって、「足利学校」で有名な足利市にある、鰻屋さんで、二重にウナギを重ねた「うな重」をご馳走してくださったのです。この鰻屋さんは、一日の串の本数を決めて、〈売り切り閉店〉の営業をされているのです。お父様が始められて、今の主人が二十代で暖簾を継いで40年になるそうです。普段は鰻に串を刺し、串焼きの仕事をする〈頑固な親爺さん〉なのですが、休みには、1500ccの大型バイクに跨ってレクレーションをするのだそうです。なんだか羨ましい生活をされる方です。

暑くなく、雨もなく、涼しい一日を、「遠足」の様にして、外を出歩くことができた家内は大喜びでした。血液を取られるための通院ではなく、青田を眺め、峠道を走り、「道の駅」で買い物をし、ぶどう園の脇を通過した半日は、この半年なかった経験でした。港町の老人ホームに問安して以来です。美味しい鰻と友情の一日に、感謝で思いがいっぱいです。

帰って来て、この夕べ、このご夫妻に感謝のメールを送りました。

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正人さんご夫妻

ありがとうございました。
まさに半年、7ヶ月ぶりの、気の晴れるような半日を過ごせたと、家内が言っています。
去年の12月の初め頃、馬頭rと言う港町に老姉妹がいる老人ホームを訪問しました。
◯師の娘で医師をしていた100歳の姉妹や85歳の元教師、その他の方を訪ねたのです。
とても好い交わりをして、『みなさんでお昼を食べておかえりください!』と、お昼代まで頂いて、その港町で食事をした時以来です。
家内は帰宅しても疲れた様子がありません。
帰ってから少し休んだ後は、元気です。
お二人のお気持ちに強められたのでしょう。
ありがとうございます。
家内への足利遠足、小生への温泉浴、
お気遣いを、心から感謝します。
ありがとうございました。
心から御礼申し上げます。

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八染躑躅

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これは「ヤシオツツジ(八染躑躅、八汐躑躅)」で、栃木県の県花に指定されている花です。城を持たなかった武田信玄は、「躑躅ヶ崎」に居を構えた戦国武将でした。歴史に「もしか」はないのですが、『信長、秀吉、家康と同年齢だったら、きっと天下を取っていただろう!』と、甲州人は言いたそうです。

ここ栃木市は、信玄の宿敵、上杉謙信が戦った大平山に、躑躅が自生していたのか、後になって植えたのか、躑躅の一大名所になっています。下野国に、廃藩置県によって、宇都宮県と栃木県が置かれましたが、二県が一つとされ、県名は栃木、県都は宇都宮になって、東北本線も東北新幹線も、宇都宮を経由しています。宇都宮は「軍都」でしたし、栃木は「商都」だったと言えるでしょうか。

私は、まだ宇都宮を訪ねたことがありません。県民として表敬の意を表すために、県庁や県立美術館を訪ね、〈餃子〉を食べに行きたいものだと思っています。

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紫陽花

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栃木市の市花は、「紫陽花(あじさい)」です。紫、白、ピンクなど色鮮やかな「紫陽花」が、学校や公園など市内のいたるところで見ることができます。一つ一つの小さな花が集まって、大きく鮮やかな姿をみせる紫陽花が、市民一人一人が力を合わせ、協働のまちづくりを進める本市のイメージにふさわしいとして、「市花」とされています。

(友人が撮影した「紫陽花」です)
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平和

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旧国鉄車両の制御部分の部品を取り扱う仕事を、戦後、父がしていました。また家の近くに、保線区があったり、日本通運の貨車からの荷の積み下ろしの作業場があった関係もあって、動く物、とくに電車や過密列車に、人一倍関心が、子どもの頃にありました。

東京オリンピックの開催に合わせて、その準備が東京を中心に行われていました。その一つが「東海道新幹線」だったのです。この新幹線の構想、開業準備、試運転、開業などについて、NHKの”プロジェクトX“に、DVDがあって、それを教材に、華南の大学の日本語科の授業で教えたことがありました。

この1964年10月に開業した新幹線、その構想は、敗戦の中から起死回生で、立ち上がるための国家的プロジェクトに繋がり、日本国有鉄道は、十河総裁と技師長の島秀雄の下、高速運転が可能な鉄道計画が決定します。1959年に、新丹那トンネル熱海口で起工式が行われて始まっています。
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この技術チームの中に、三木忠直がいました。かつて日本海軍の技術少佐で、終戦間際に「桜花」と言う特攻機を設計した人でした。多くの青年たちのいのちを犠牲にした、その罪責を強く感じていた三木は、戦後に生き残った元軍人として、学び実践した技術を、今度は《平和利用》に用いたいとの信念で、この新幹線に情熱を注いだのです。

三木はインタビューで、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんです!』と答えています。軍靴で踏みにじった中国大陸で、大学の教壇に立つ機会が与えられた私は、旧軍人の『もうこりごりだ!』との悔恨の思いが、新幹線を生んだ事実を、反日教育を受けてきた若い学生に伝えたかったのです。

この「桜花」の防弾ガラスは、父が、軍命で携わった軍需工場の責任者として掘り起こした、「石英」を原料としていました。奇しくも、三木と父とは同級の世代でした。父は、私が、中国の大学の教壇に立つことなど知ることなく召されましたが、父もまた悔恨の念を抱きながら、戦後を生きたのでしょう。

東京駅を発射する新幹線に、帝国ホテルのビュッフェがありました。そこに食材を運び込む作業をアルバイトでし、この開業後の新幹線ホームで〈逆立ち〉を最初にしたのは私でした。そんな私が、大陸の青年たちに、平和を希求する者の一人として、新幹線の由来を教えられたのは感謝なことでした。

(開業時の東海道新幹線の先頭車両、「桜花」を背後にした特攻隊員たちです)
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勿忘草

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文愛姐
おはようございます。
ここ栃木は、梅雨の真っ只中です。
昨日は降雨の天気予報でしたが、ひと時でしたが陽が出てくれました。西日本、とくに九州地方では大雨が続いているそうです。
そんな梅雨の中、今年の初めの八日間の隆子の入院生活を思い出しています。
2011年の11月に市立第二医院に入院した時も、今回の省立医院に入院した時も同じように、とくに姉妹たちが、交互に寝泊まりまでして、朝、昼、夜とお世話をしてくださったことは感謝に尽きません。
今回、小秀姐がまとめ役で、家内のお世話をしてくださったことに、感謝しております。格別な感謝を小秀姐にお伝えください。彼女は、優姐と一緒に遠路を、ここ栃木までお見舞いに来てくださり、家事を助けてくださったりでした。
お一人お一人に感謝すべきですが、今はできそうにありません。
文先生から、私たちの感謝を、改めて、愛兄姉にお伝え下さいますよう、お願いいたします。
また多くの兄弟姉妹からもお見舞金をいただき、今も倶楽部から月々の愛心を頂いていますことを、みなさんに感謝をお伝えください。
そのことで隆子も私も、どんなにみなさんに愛されているかを知って感涙しています。
その愛が、家内の厳粛な病態を変えているのだと思わされています。
もちろん上からの憐れみによりますが。過ぎました半年の家内の闘病は、危ぶまれた事態や時もありましたが、6ヶ月の余命を超えて、昨日も散歩に出て、野花を摘むほどに回復しております。とくに気持ちが落ち着いて静かにしております。家事も少しずつする様になっています。
まだ悪い病原部分が残っていますが、それと闘いつつ、今を過ごしています。
獨協医科大学病院の医療と主治医、スタッフのみなさんの懇切な治療も受けております。
ただただ感謝で、隆子も私もいっぱいです。
とくに倶楽部の責任をおとりの越夫妻、唐夫妻、陳夫妻、程夫妻に、感謝をお伝えください。
また、姉妹方お一人お一人に感謝をお伝えください。
文姐に、最高の感謝を申し上げます。
ありがとうございます。
私たちの目標は、癒えて、愛するみなさんの所に帰ることです。
ご迷惑にならないなら、そうしたい願いを持ち続けております。
私たちの思いとして、この「勿忘草」を掲げます。
感謝まで申し上げます。

準&百合

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追記
これは、家内の闘病の半年を支えてくださった1人のご婦人に、月初めに書き送った手紙です。少し書き換えてあります。大きな支えと激励をしてくださったことへの感謝の手紙です。

(これは「勿忘草(わすれなぐさ)」です)

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中国の華南の漁村を写した写真です。休みが欲しくなったら、この浜に出かけて、陽の出入りを眺めていたいと思っていました。街中にはホテルはあるのですが、海浜に泊まれる民宿があるでしょうか。漁師たちの量や養殖に勤(いそ)しむ姿も見ていたいものです。近くの内海には、養殖用の筏が多くあって、二階建ての小屋も、筏の上に作られて、生活もしている様です。そこではアワビなどの養殖が行われています。
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子どもの頃、作詞が林柳波、作曲が井上武士による日本の童謡・唱歌の「海」を、よく歌ったのです。

海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国

この歌に、行ってみたいのは「よその国」の海ですが、そう言うよりは、この華南の海が、「ふるさとの海」の様に感じられ、そこに戻りたいと思っているのが不思議です。何年か前に、この写真撮影された浜辺の近くにあった、アワビの養殖場に、高速艇に乗せていただいて、見学に連れて行ってもらったことがありました。友人の養殖をしている筏でした。潮の香りがして、波に揺れる筏にのって、海の男の気分を味合いました。その時、家内も筏の上にのっていました。

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木鶏

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「木鶏(もくけい)」と言う、中国に故事があります。その解説が、“ ウイキペディア ”に次の様にあります。

「紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。紀悄子に鶏を預けた王は、十日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、 『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。
更に十日ほど経過して再度王が下問すると 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』と答える。
更に十日経過したが、 『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。
さらに十日経過して王が下問すると 『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。
上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩(いんゆ)として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。」

昭和の名横綱に、「双葉山」がいました。無敵の第35代の横綱は、69連勝をして、向かうところ敵なしの勢いでした。1936年の一月場所の二日目に、横綱武蔵山から金星を勝ち取ると、1939年の一月場所の四日目まで、連勝が続いていました。ところが、五日目に、前頭四枚目の安芸乃島との対戦で黒星を喫して、七十連勝が達成できなかったのです。

その時、知人に双葉山は電報を打っています。その電文が、「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」だったそうです。連勝できずに負けてしまって、中国の古代の故事で言われた 「木鶏」の様に、不動不敗の最強の大横綱になっていないことを告白したのでしょう。お相撲さんが、力ばかりではなく、こんなに博識であったと言うことに驚かされてしまいます。

今回、日本オリンピック委員会会長に選任された山下泰裕氏が、まだ現役選手であった若い頃に、お父さんに言われた言葉がありました。『柔道ばかりで、他のことが分からない者であってはいけない!』とです。その言葉を実践したのでしょう、母校の東海大学の教授になり、今回会長になったのです。

山下会長は、62歳で、「木鶏」となったのでしょうか。いえ謙遜な人ですから、まだ精進の道の途上にある自分を見つめていることでしょう。

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フランスのドキュメンタリー映画、「子どもが教えてくれたこと 」を観ました。2016年に、監督・脚本:アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアンで、アンブル、カミーユ、イマド、シャルル、テゥデュアルの5人の子どもたちの出演でした。フランスでの反響が大きく、23万人に人々が感動されたのです。[映画.com ニュース]に次の様な解説があります。

『病気と闘いながらも今を懸命に生きる子どもたちを描き、フランスで23万人の動員を記録したドキュメンタリー「子どもが教えてくれたこと」が、7月14日公開する。アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン監督が来日し、撮影の過程や子どもたちとの交流を語った。

腎不全、動脈性肺高血圧症、神経芽腫、表皮水疱症など、それぞれが病気を抱えている5人の子どもたち。治療を続けながら、毎日を楽しく、精いっぱい生きる。子どもたちの姿を映し出す。

自分の置かれた状況を理解し、悲観しないで前向きに生きる子どもたちの言葉の一つ一つが深く、胸に響く。実子を亡くしたジュリアン監督の経験が製作のきっかけになったという。初監督作を最後まで撮りあげることができた原動力は、やはり子どもたちの存在だ。

「彼らに発言権を与えたいという思いが私の中に強くあったのです。どんな風に、彼ら一人ひとりが人生を見ているか、彼らのものの見方を彼らに話してもらいたかったのです。感動の場面の連続で、職業人としても、人間としても強い経験をし、途中で投げ出したいと思うようなことはありませんでした。映画の撮影が終わり、私たちと離れて彼らがそれまでの生活に戻ってしまうのが一番寂しくつらかったこととも言えますね」

撮影前に長い時間をかけ、医師や病気の子どもを支援する団体などをリサーチ。そこで、映画に出演する子どもたちの紹介を受けた。「告知されたばかりの子どもではなく、数年たって自分の病気を受け入れている子どもを紹介してくださいと頼みました。シャイな子もいましたが、おしゃべりな子を選びました。病気の子が普通の子どもよりしっかりしているかどうかわかりませんが、彼らは自分の状況をしっかり把握しているのです。隠し事、秘密がないからこそ、のびのびしているのかもしれません」

入院生活にカメラが潜入する。家族と医療従事者以外の大人であるクルーと、子どもたちのやり取りはスムーズにいったのだろうか。「病院に行ったのは私と撮影監督と録音技師のみの3人、少数精鋭の小さなチームです。子どもたちは好奇心いっぱいで、撮影されたいという思いが感じられました。時々、子どもたちのほうがカットをかけたり、カメラの裏に回ったり……彼らが映像機器と遊んでもらうような時間を設けて、撮影の状況に慣れてもらいました」

自身の子育て、そして今回の出会いを経て、子どもを通して学んだことは「まず、親や大人が心を開くこと」だという。「彼らは大事なことをとても自然な形で教えてくれるのです。哲学者のように考えたり、何かのコンセプトにたどり着くわけではなく、感じていることをそのまま口にしているのです。その言葉は、私自身が子ども時代に感じたことと共鳴します。未来を心配するのではなく、彼らのように今を生きればいいのではと思いました」

現在も5人の子どもの家族と交流を続けている。「日本でこの作品が公開されると報告して、ポスターの写真をメールで送りました。なかなか旅行ができない彼らの言葉が、こうやって世界中を旅すると考えるだけで、感動します」』

自分がお母さんの胎内にあった時から病気である自分を、ありのままに受け入れて、誰のせいにもしないで、生きている姿が、この5人に共通しているでしょうか。『病気でも幸せになれるんだよ!』、『この病気と言う扉を開けなければならない。でも、その死の扉よりも、もっと強いのは《愛》だ。』と、子どもたちが言っていました。親も病院のスタッフも教師も、親族家族が共に、今を肯定的に生きている様子が素晴らしかったのです。

必見に値するドキュメンタリー映画です。“ amazon ” でダウンロードして観られます。土曜日の午後、やってきた息子が、観られる様にしてくれたのです。家内は、自分の闘病と重ねて、感慨深く観ておりました。
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