パン

 

 

イスラエル民族の国民的英雄に、“エリヤ”という人物がいます。〈飢饉〉による国家的危機に直面した時に、敵国の宗教者集団と、ただ一人で対決して、国家滅亡の危機から国を救った人でした。彼は、その勝利の後に、意気揚々と勇躍したかと言いますと、そうではありませんで、〈意気消沈〉してしまいます。敵国の王の妃の威嚇に怯えてしまいます。

自国の危機を救うほどの英雄も、また人の子だったのです。その時代の危機に、国や国民を救い出すという業が、突如として出現する人物によってなされるという画期的な出来事を、歴史の中に見ることがあります。敗戦後、肥沃な国土を失ったデンマークを、剣や槍でではなく、槌や鍬で救ったのが、一人の工兵士官であった「ダルガス(Enrico Mylius Dalgas)」でした。残された痩せた国土に、植樹を行って、生産力を蘇らせて、農牧畜業を行わせて、国を富ませた人物です。しかもご子息と共にでした。

この日本にも、二宮尊徳という、灌漑などで《農地改良》して、農業生産を上げて、その名を歴史に留めた人がいました。また、大英帝国の国家的危機に、“Never give up!“と言って、国民を鼓舞した「チャーチル」もそう言った人の一人です。ユダヤ人の民族的危機に、「トランジットビザ(通過査証)」を発給し続けた杉原千畝などがいます。

このエリヤですが、この英雄的勝利以前に、鷲や鷹ではなく一羽のカラスの運ぶパンで、そして貴婦人にではなく寡婦(やもめ)にも養われた人でもありました。さらに勝利した後に、その命を、妃に狙われて逃亡するのです。エニシダの木の下で、恐怖に駆られて、自分の死を願うほどの窮地に立たされてしまうのでした。おおよそ人は、強さと弱さを併せ持つのでしょう。

わが家に、《病んでいる私の友》と言って、家内の回復を願って、郊外の野菜即売所などに出掛けては、無農薬野菜、有機栽培野菜、木の実、ハム、果物を見付けて、まるで、《エリヤのカラス》の様に運んでくださる方がいるのです。健康を回復することを願ってくださってです。一度や二度ではなく、毎週の様に、ある時は週二で、お持ちくださっています。

「真実」、「誠実」、そして「忠実」と訳される“Faithful”という英語があるのですが、この友の真実さや誠実さや忠実さに、私たちは驚いているのです。ベンツやレクサスにではなく、トヨタの大衆車に乗って、また時には、徒歩で一時間もかけて訪ねて来られてです。本当に、この新たな地で、《善き朋友》をまた得ているのです。

(中東で食べられている「パン」です)

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来客

 

 

医療ロボットの研究を志して、日本に留学のために、中国華南の街から来て、東京郊外の大学院で研究を始めている青年が、家内の見舞いに、昨夕、東武電鉄の電車に乗って、やって来ました。中国の東北地方の省立工業大学に学んでる間、独学で日本語も学んで、留学準備をしていたのです。

その彼が、大学在学中に、時々、習いたての日本語で電話をかけて来て、家内と会話をしていました。帰省すると、わが家に来て、食事をしたり、買い物に一緒に行ったりして、私も含めて家内と、日本語での交わりを楽しんでいました。そう、彼は家内の《教え子》の一人なのです。

駅で降りて、駅前にある当地の有名和菓子店で、お土産を買って、東京から買って来た「葛餅(くずもち)」とダブル和菓子の持参でした。家内は、今は〈甘い物〉は摂らないのですが、十四年前に召された次兄の兄嫁と甥の来訪時にも、お土産としてもらった「バームクーヘン」も、折角だと言って、少しですが賞味したのです。

彼のお爺さんは漁師で、彼が母のふるさとを訪ねて、街に帰る朝は、そのお爺さんが、朝3時頃に起きて、海に行って、小さな〈巻貝〉を獲っては、沢山持たせてくれるのだそうです。わが家にも、それを上手に調理してお裾分けしてくれました。食べ方までも伝授してくれてです。これが美味しいのです。

ご両親から、多くの愛を受けて生一本(きいっぽん)、素直に育った、爽やかで、素敵な青年です。子どもが186cmになっているといった感じなのです。そう、『学成るまでは恋をしないと!』と、お母様と約束してるのですが、話の端に、どうも好意を寄せている女性がいるのが感じられるのです。

中国の私たちの生活圏には、彼の様な素晴らしい青年が多くいるのです。何年も前に訪ねてくれた、海南島出身の青年は、ギターを持って、わが家にやって来て、体調を崩していた家内に、自作の曲を演奏してくれたこともあります。昨夕は、鯵の塩焼き、友人がくれたハンバーグ、野菜具沢山の牛肉入り味噌汁、サラダでの夕食後、〈洗碗xiwan/茶碗洗い〉を、彼がしてくれました。

つい《いい子》と言ってしまいたくなる、24才の青年です。お父さんは、上海でお仕事をしていて、そこで一緒のお母様は、自分の両親を時々訪ねるために、私たちの街に帰って来ては、行き来していました。わー、十二年も住んだ街には、強い愛着があって、懐かしくて仕方がありません。先々週は、その街は35も、気温があったそうです。

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別れ

 

 

作詞が福山たか子、作曲がフランシス座波の「別れの磯千鳥」という歌が、若い頃に、よく聞こえて来ました。1952年に売り出された曲ですが、私が聞いたのはリバイバル発売の曲でした。

逢うが別れの はじめとは
知らぬ私じゃ ないけれど
せつなく残る この思い
知っているのは 磯千鳥

泣いてくれるな そよ風よ
希望(のぞみ)抱いた あの人に
晴れの笑顔が 何故悲し
沖のかもめも 涙声

希望の船よ ドラの音に
いとしあなたの 面影が
はるか彼方に 消えて行く
青い空には 黒けむり  黒けむり

日本人は、「出会い」よりも「別れ」に特別な感情を持つのでしょうか。しかも、その「別れ方」が上手ではない民族なのかも知れません。と言うか、東アジアでも極東の日本は、殊の外、そう言った傾向があるに違いありません。

人と人、男と女、親と子、師と弟子、上司と部下など、「会う」と、必ず「別れ」が、遅かれ早かれやって来ます。また物や機会や時とも別れて、私たちは生きて来ましたし、これからも生きて行くのです。どうもこの別離には、「嗚咽(おえつ)」とか、「涙」とかが付きものの様です。

一度したかったのが、『ボウオー!』や『ジャンジャンジャン!』と汽笛やドラが鳴る波止場での〈テープの別れ〉でした。行く人を残る人が見送る時に、両者を結んでいたテープが切れてしまう、ロマンチック、感傷的な「別れ」の場面です。悲しみがいいのでしょうか、嫌なのでしょうか、ちょっと子ども心にも、切なさそうに感じたのですが、それをやってみたかったのです。

昭和が行き、「令和」が来ました。〈西暦〉で間に合わせて生きて来ましたので、申し訳ないのですが、雲の上、お上の出来事は距離があり過ぎて実感がありません。卒業も進級も転勤もない年齢になって、世の中から浮き上がって、都から離れた街で暮らしをしている身には、遠い出来事の様です。

もちろん子や孫の世代は、変化があるのですが、家内の次の通院日や、晩ご飯に何を食べるかの関心がほとんどになってしまいました。これではいけないと、大学の公開講座や、この街の老人大学の受講などの案内を見ていますが、これと言ったものに、まだ出会いません。何年も何年も前に、特急電車に乗って、J大やR大の公開講座を受講した日々の情熱が蘇って欲しいものです。

勤めていたら、この昭和から令和への〈10連休〉は羨ましかったことでしょう。でも、帰国以来、連休している様で、してない様で過ごしています。家内の闘病を支えるのも、また大切な日常だと思っているのです。その家内が、『《休暇》をとって温泉でも行ってのんびり・・・』と、このところ二、三度言っています。休暇不要の今日この頃です。

(佐渡汽船の「別れのテープ」です)

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平和希求

 

 

中部山岳の街から、東京に出て来て住んだ家は、旧甲州街道脇にありました。新宿や下丸子などを考えた父は、四人の男の子の養育のために、都心でも遊興街の近くでもない、郊外が適当と考えて、そこに一軒の家を買ったのです。まだ未舗装の道路で、かつては江戸から内藤新宿、八王子宿、上野原宿、甲府宿を通って、下諏訪宿に至って、「中山道(なかせんどう)」に合流する、「江戸五街道」の一つの宿場町の郊外にありました。

この街道を行き来した人たちを思いながら、自分も同じ道の上を通学し、買い物に行き、友人の家に行き来する不思議さを思ったりしていました。そして今、友人の好意で、栃木市に居を移して、住み始めたのですが、ここも、かつては、「例幣使(れいへいし)街道」の宿場町とし栄えた街でした。中山道の「倉賀野」から、日光東照宮に至る路筋にあったのです。

この「例幣使街道」について、栃木観光協会は、次にように解説しています。

『京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。』

 

 

この家は、その「例幣使街道」からそう遠くない所にあって、また、「舟運(しゅううん)」の舟が行き交った「巴波川」の流れと、荷の積み下ろしを、賑々しくした「沼和田河岸」の近くにあります。自転車と徒歩、時々車で行き来をしているのです。

公家(くげ)の一行が、徳川幕府に敬意を表す参拝を、どんな思いでし、諸大名が服従を表明するために通った、いえ通わざる得なかったことを思い返しますと、徳川の権勢が、いかに強大だったかが分かります。

その統治が終わり、明治、大正、昭和、平成の時代が過ぎ、今日からは、「令和」の新時代を迎えることになります。戦争のない、平和で優しさに満ち溢れる時代であるように、心から願う栃木の朝です。

(中山道と日光街道を結ぶ日光例幣使街道です)

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