平和希求

 

 

中部山岳の街から、東京に出て来て住んだ家は、旧甲州街道脇にありました。新宿や下丸子などを考えた父は、四人の男の子の養育のために、都心でも遊興街の近くでもない、郊外が適当と考えて、そこに一軒の家を買ったのです。まだ未舗装の道路で、かつては江戸から内藤新宿、八王子宿、上野原宿、甲府宿を通って、下諏訪宿に至って、「中山道(なかせんどう)」に合流する、「江戸五街道」の一つの宿場町の郊外にありました。

この街道を行き来した人たちを思いながら、自分も同じ道の上を通学し、買い物に行き、友人の家に行き来する不思議さを思ったりしていました。そして今、友人の好意で、栃木市に居を移して、住み始めたのですが、ここも、かつては、「例幣使(れいへいし)街道」の宿場町とし栄えた街でした。中山道の「倉賀野」から、日光東照宮に至る路筋にあったのです。

この「例幣使街道」について、栃木観光協会は、次にように解説しています。

『京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。』

 

 

この家は、その「例幣使街道」からそう遠くない所にあって、また、「舟運(しゅううん)」の舟が行き交った「巴波川」の流れと、荷の積み下ろしを、賑々しくした「沼和田河岸」の近くにあります。自転車と徒歩、時々車で行き来をしているのです。

公家(くげ)の一行が、徳川幕府に敬意を表す参拝を、どんな思いでし、諸大名が服従を表明するために通った、いえ通わざる得なかったことを思い返しますと、徳川の権勢が、いかに強大だったかが分かります。

その統治が終わり、明治、大正、昭和、平成の時代が過ぎ、今日からは、「令和」の新時代を迎えることになります。戦争のない、平和で優しさに満ち溢れる時代であるように、心から願う栃木の朝です。

(中山道と日光街道を結ぶ日光例幣使街道です)

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