もう一輪

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昼前に、出先から外に出ましたら、真っ青な空が広がっていました。家に帰って、ベランダの外に伸びた蔓に、もう一輪に朝顔が咲いているのを発見したのです。それを、午後5時前に、撮ってみたのが、この写真です。子どもの声が賑やかに聞こえてきます。入り口に広場があって、そこで遊んでいる声です。何処かで、ちょっと調子外れのカラオケで歌う声もしてます。日曜日の夕方の様子です。

「冬至」に向かって、日が短くなっていく大詰めなのですが、まだ明るいのは、今日は、久し振りに晴れたからでしょうか。いつもより暖かです。入り口に中型のトラックに、リンゴの入ったダンボールを満載して停めてあります。そこで、産地直送の直売会をしているようです。金木犀に植え込みから、甘い匂いもしてきています。穏やかな日曜日の夕刻の様子です。
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大好き

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高校の国語で、「古文」を学びました。あの文語体の文章の歯切れの良さが、大好きだったのです。話し言葉には、何か余計なものがあるのとは違って、実に簡潔だったからです。多分、子どもの頃に「時代劇」で、月形龍之介とか市川右太衛門とかの台詞を聞いらからでしょうか。「あなた」を、『おぬし』と言ったりしてました。一度、そう言ってみたくて仕方なかったのを思い出します。

それに、「漢文」も好きでした。杜甫や李白の詩を、<返点の"レ">などを付けて、日本語にして読んでしまうところが面白く、これも簡潔で大好きでした。先日お邪魔した家に、「小一xiaoyi」の男の子がいて、テーブルの上に、「漢詩」の国語の教科書が載っていました。小学校一年生で、漢字だけの「国破れて山河あり」を読めるのです。日本の小学校一年では、「80字」に制限されていますから、学習漢字数は、中日では<雲泥の差>がある様です。

その「古文」で、「徒然草」を学んだのですが、全編ではなく、「大学入学試験」に出そうな箇所だけを学んだに過ぎませんでした。その「徒然草」に、次のような事が書かれてあります。『酒は百薬の長というが、全ての病気は酒から起きている。知恵を失わせ、善行を火のように焼き尽くし、悪を増し、戒律を破って地獄に落ちるに違いない。(現代文に翻訳)』とです。吉田兼好の時代にも、「酒害」が多くあったのですね。

私の愛読書の「格言集」に、「強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。」とあります。「葡萄酒」には、心に痛みがある人の「痛み」を、一時的に和らがせ、忘れさせる効用があるのです。私は、25才の時に、お酒をキッパリとやめました。「好い酒」ではありませんでしたし、もう「酒」の力を借りないで、素面(しらふ)で生きていられる様になれたからだと思います。

あのまま半世紀も、酒を飲み続けていたら、家内の言葉によると、すでに生きてはいないかも知れません。ビールを2、3瓶、毎日飲んでいて、単純計算しますと[3瓶×365日×50年]、すごい瓶数、酒量、そして金額になる様です。弟に聞いた話ですが、『頭が酒でクラっとするたびに、脳細胞が驚く数で死んでいく!』のだそうです。

(杜甫が書いたとされる「書」です)
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師走の朝顔

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おはようございます。「師走(しわす)」の「朔日(ついたち)」、12月1日です。午前7時のベランダの寒暖計は17℃を示しています。室内の方が寒い感じがしています。「时间过了很快shijianguolehenkuai/時間って早く過ぎゆきます」ですね。

2017年も暮れゆくのですね。もう秋ではなく冬なのですが、Tシャツでいることもあるほどです。最近、カラッと晴れないのです。

「最後の朝顔」になるかも知れません。今朝、ベランダの流しの下で、小さな花を開いてくれました。

前に住んでいた家で咲いていた朝顔は、年を越しても咲いていたのですが、日射量が、ここよりも多かったからでしょう。家の南側には、向こうのビルとの間が広く離れていたので、燦々と陽が射していたのです。でもここは、緑が多くて、気が落ち着きます。

好い年末、好い1日をお過ごしくだだい。
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黄昏

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いつのことでしたか、壁に寄り掛かって、何を考えるでもなく、遠くに視線を送っていましたら、『何をタソガレているんですか?』と、あるご婦人から話しかけられたことがありました。夕方ではなく、昼過ぎだったでしょうか、「黄昏れる」という言葉を初めて聞いたのです。物思いに耽っている様に、あるいは放心している様に見えたのでしょうか。また、人生の「黄昏期」に差し掛かって、初老を感じさせていたからかも知れません。『あまり、活動的に見えないよ!元気を出して!』とでも言いたかったのかも知れません。

「黄昏」は、「誰(た)そ彼」と言う古語から生まれた言葉で、夕闇で誰れだか分からないので、そう問い掛けて言ったのだそうです。それを、漢字で、そう表記する様になったのです。私が、<漢字検索>で使う「漢典」という中国語サイトには、「◎ 黄昏 huánghūn[evenfall;dusk]∶日落以后至天还没有完全黑的这段时间」とありました。日没後、まだ空が暗くなる前の時間帯のことを言う様です。唐の時代、李商隱が詠んだ「樂遊原詩」に、「夕陽無限好,只是近黃昏。」とありますし、「三國演義」にも、「時至黃昏,風雨暴至,兩下各自收軍。」とありますので、ずいぶん昔からある言葉だとい言うわけです。

夕方を、「燈点し頃」と言ったりしますが、冬にはもう真っ暗な時間帯なのに、さすが夏至の今頃は、まだ外が明るいのです。アメリカの西海岸のオレゴンを訪ねた時に、夜の9時、10時になっても、まだ空が明るかったのには驚かされてしまいました。その時、『「白夜」とは、こう言った感じなんだろうか?』と、感じ入ってしまいました。

日本には、「◯◯百選」と言われるものが多くあるのですが、「夕日百選」と呼ばれるものがあります。私の母の故郷、島根県の宍道湖(しんじこ)に、「島根県立美術館(写真)」があって、その湖に沈んでいく夕陽の景観が素晴らしいのだそうです。全面ガラス張りの建物から、その夕日が眺められるる様な作りになっています。3〜9月までは、閉館時間が、日没30分後にされていて、参観者が夕日を見られる様に配慮されているのです。

今春、入院手術のために帰国中、こちらに戻る前の一週間、弟の家に泊めてもらったのです。彼との話しの中で、今度、私が帰国したら、母の故郷に、母の親しい知人を、兄弟で訪ねる計画が提案されたのです。みんな人生の「黄昏期」に入って、時間を工面できますので、表敬訪問したついでに、宍道湖の「シジミ」の味噌汁を飲むことができそうです。できたら、この美術館で夕日を眺めて見たいものです。
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