好いもの

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 『〈線香花火〉が好きだ!』という人が、よくおいでです。夏の夜空に打ち上げられて、景気よく炸裂する〈尺玉花火〉と比べて、まことに地味な花火です。チマチマしていますが、実に情緒があり、今、思い出すと、とても懐かしいものの一つに数え上げられ、私も好きなのです。

 江戸時代からある、三百年の伝統的な日本の花火の一つです。火薬でできている火球から、〈松葉〉の様に火花が小さく散るのです。手に静かに持って、火球から飛び散る火花を楽しみ、なるべく長く続くような祈りがこめられていたのです。父が買って来てくれた花火の中に、これがあって、遊びの最後に、これに火をつけてもらっては、消えてしまうまで、しゃがみながら見つめていたものです。

 六十年の人生を振り返ると、どうも〈線香花火〉の様に地味で、小ぶりだったのではないかと思われます。もうこれからは、大玉を打ち上げるようなこともないのでしょうけど、まあまあ満足しながら今を迎えたといえるでしょうか。大陸の上海で、花火師として活躍した小説の主人公に憧れて、〈花火師〉になろうとさえ思いながらも、それも叶えられませんでした。しかし与えられた仕事に満足して、自分なりに『やった!』と思ってきております。これは、同級生たちとの比較ではありません。若かった日に心に宿っていた〈大志〉は成就しなかったことでもありません。天職を得て、それに忠実に従って、社会的な責任を果たし、四人の子どもたちも育て上げれたこと、家内と一緒に歩んでこれたことは、ささやかながら〈成功的人生〉だったと思うのです。

 そして今、その仕上げの日々を、異国で、家内と励まし合いながら過ごしていることも、また、不思議な思いに駆られております。多くの友人たちが与えられ、生活にも慣れ、寂しい思いもしないで過ごせるのは感謝なことであります。もう、おととしになるのですが、多摩川の河川敷に設けられた席に座って、打ち上げ花火を鑑賞しました。息子が、一等席を買って招待してくれたのです。『遠くから見る花火がいい!』との長年の思いを覆させられるほど、近く、いえ頭上に花開く花火と炸裂音は豪快でした。それは素晴らしい時でした。そして幼い日の〈線香花火〉も、また好かったのです。それぞれに愛がこもっていたからでしょうか。

 浅草あたりに行けば、買えるかも知れませんね。今度帰国したら、庭先に出て、しゃがみこんで、この〈線香花火〉に興じてみたいものです。「国慶節」を迎えて、あちこちで花火があげられていました。一瞬の閃光、刹那の輝きですが、暗い夜空を明るくしてくれる風物詩は、瞬間ですが心も照らしてくれて、やはり好いものです。